爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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11年目の縦軸 16歳-19

2014年03月08日 | 11年目の縦軸
16歳-19

 ぼくは自分に起こったことを記録するのを若さゆえに怠った。若さというのは慢心が許される時代だ。ぼくは幸福のなかであぐらをかく。

 あのとき、こういう状態のなかに自分はいたのか、というなつかしさとは別の冷淡な記憶を思い起こしてくれるものもある。ある音楽の一節であったり、本のなかの数章に見つかったりする。その該当部分をなんども味わうことにより、やはり甘いなつかしさのようなものが後から込み上げてくる。もう、失ったものだから、訂正も変更も利かないのだが。

 ぼくはサム・クックという歌手の曲にある少年のはじめての恋のうたを耳にする。その少年にとって、世界は美しいところでありつづけ、彼女の電話を通した声は、どんなメロディーよりも美しいものだった。ぼくがもしあの日に日記を書いていたら、まさしくそのような内容になっていただろう。

 ぼくのことを知っているのは、この当時で何人ぐらいいたのだろう。せいぜい二、三百人ぐらいだろうか。そのなかで、ぼくのことを最も知ってほしいと思っているのは彼女であり、冷静に考えれば、それは無理であった。ふたりの歴史も浅く、それに比べて過ごす時間も、同じ悪さをするのも友人たちのほうが多かった。では、ぼくは彼女のことをもっとも知っていたのだろうか? 学生のときにとなりに座っていた女子生徒とどれほどの差があるのだろう。ほぼ等しいというぐらいの回答しかない。競馬でなら鼻差という表現がぴったりなぐらいだ。

 そこに愛が介在している。そのささいな隙間に愛というエッセンスや媒体が混入している。だから、ぼくは幸福でいられたのであり、電話の声で高揚できたのだ。

 すると知るというものは無駄なことであるのか。知識が増えれば愛情もそれにともなって増加するのだろうか。少年についての歌は、それ以降のことは教えてくれない。幸福とともに寝て、翌日の幻滅や失望のことは歌ってくれなかった。また、それは別の歌手や、悲劇的なギターの音色に求めることなのだ。

 ぼくは時計を見る。もうこの時間なら彼女は電話をかけてはくれないだろう。昨日、話したばかりなのだ。ぼくはまだどれほど女性というものが会話に興じたかるかさえ知らなかった。無意味そうなおしゃべりを延々とつづけたがる能力。ぼくは無言で集中することを究極の美しさと感じるときもあった。ぼくは壁に背中をつけて本を読む。ひとりが無言で書き、ひとりが無言で読む。その尊さは限りなく美の先端に近かった。しかし、電話がないことで少しがっかりしていることも確かだ。彼女がきょう最後に話した相手は誰なのだろう。そう思いめぐらしながらも、ぼくは嫉妬という醜い感情も知らないほど傲慢で慢心していた。あの若さはもう二度と還ってこないのだ。多分、彼女はぼくのことを想像している。

 別々の肉体が離れた場所にある。ぼくらがつながっているという幻想は、幻想であることを誰も証明できない。反対に事実であるということも明らかにならない。電波のようなものもある。それは決してつかめないが、確かにこの世にあった。音もつかまえられない。スピーカーの膜は揺れている。その振動が耳に届くまで数秒もかからない。大きな低音は身体にも響く。音は波動なのだ。彼女がぼくの目の前にいて善の方向で与える影響も、このような目に見えないものなのだろう。ぼくは本を閉じ、疲れた目をいやそうと窓を開ける。遠い空には月がある。あの物体に視線と記憶があるならば、ぼくのきょう一日の動きをどう刻みつけるのだろう。彼女の一日は。会うことも、話すこともしなかったぼくらふたりのつながりを、あの月は見破ることができるのだろうか。ぼくは彼女の家の電話番号を思い出す。それを知っていたからといって、彼女のある内面の核心が分かる訳でもない。ぼくにその番号の所有権がある訳でもない。だが、ぼくが電話をかけることは彼女の家族も知っており、ためらいがちになりながらも彼女につなげる。

 そうなのだ、ぼくらふたりは話さない、そして、会わない日もその期間にはあったのだ。毎日、会うということもそれほど困難ではなかったかもしれない。しかし、ぼくは友人たちと夜遅くまで遊んだりした。ぼくは彼女が好きであり、友人たちの間でそれは祝福にもならない、かといって反発もおこさないありのままの事実であった。

 ぼくは幸福とともに眠る。この幸福の実態と基盤はどれほどあるのか確かめようともせず、計ることもしない。幸福など、風船のようなものだ。それが宙に浮いている限り、幸福はただそこにあるのだ。手を離さないように、しぼまないように願うだけのことしかできない。しかし、本当のことをいえば、風船がそこにあれば、それら不吉な前兆は一切、想像もできないことなのだ。

 ぼくは目を覚ます。きょうの夜は彼女と会えるだろうか。せめて、電話で話せるだろうか。彼女が一日の最後に話す相手はぼくなのだろうか。意志や決定をする権利もありながら、ぼくは成り行きに任せるようでもあった。そして、風船は手元にあった。

11年目の縦軸 38歳-18

2014年03月03日 | 11年目の縦軸
38歳-18

 言葉で気持ちを確かめ合うようなことは徐々に減った。

 はっきりと突き詰めれば、ぼくは絵美の気持ちの奥底を知らなかった。かといって無関心でもなく、嫌われていないことは感じている。当たり前だが。それは言葉を多用することでいま以上に明瞭にすることでもなく、わざとくもりガラスの向こうに置いて不鮮明にしておきたい訳でもなかった。ぼくらは大人になり、なんとなく経験上、こういう場合はこういう態度で間違っていないのだろうと大まかな円の範囲内の所在で判断した。中心は射ていないが、点数をもらいそびれるほど外れてもいない。だから、いっしょにいるのだ。もちろん、いっしょにいるのは不快ではない。幸福により近い。

 鮮明にしたところで、どう変化をもたらすのだろうか。鮮明は輝きに通じ、その反面、小さな傷や微小なほこりを浮かび上がらせるだけだ。メリットという言葉を持ち出すのは不似合いな感じもする。ぼくのこころはメリットや得という基準で動かせるものでもない。その方が、のちのち生きやすいのだろうが、誰を好きになるのかの選択など、好都合、あるいは不都合だけでは決められない。するひとも確かにいるのだろうが。

 ぼくは忙しい仕事と仕事の間のぼんやりとした時を、ためらいもなく、近い未来と遠い過去を思いめぐらせる私事に充てる。すると、注意を喚起するように電話がなる。業務に多少、変更があったとはいえ、ぼくは絵美と会話することもまだあった。この電話の主は絵美であるということが分かることもあった。期待というものが含まれているからかもしれず、その時間帯によるのかもしれない。まぐれや勘などというもの案外、そういう大まかな認識に頼っている類いのものかもしれなかった。

 ぼくらは仕事の伝達を終え、最後に小声で待ち合わせの確認をする。近いビルにいることは分かっている。トイレにいくときなどすれ違うこともない代わりに、昼食をたまにいっしょに食べた。彼女は用があって、きょうは午後からの出勤だった。健康診断をするとか言っていた。その為にきのうの夜から食事を抜いていたらしい。その空腹分を今夜とりかえすとも言っていた。一日で飢えることもない。しかし、腹がなる女性というのもあまり見かけなかった。

 店の選択肢もいくつかある。目を皿にして探し回れば、それこそ無数にある。だが、ぼくらは似通ったものに惹かれる傾向もある。だから、いくつかの店と場所を並べ、そこからトランプを引くように絵美が選んだ。

 絵美の身体はレントゲンに撮られる。ぼくへの愛情がそこに写って明らかになったら医者はどう解説するのだろう? 「陽性です」か、「悪性かもしれません。再検査に来てください」とでも告げるのだろうか。絵美はほっと安堵したり、心配顔でスケジュールの日が来るのを待ち遠しく感じる。悪性なので切除が必要です、と言われて泣く泣く受け入れる。ぼくは寄生をやめる。

 ぼくは仕事が終わるまで、その想像をもてあそんだ。ぼく自身は健康のありがたみを当然のこととしている。絶望的な痛みを日常的に感じることもない。病気というのはつまりは痛みのことらしい。慢性になると容貌にもあらわれ、どこかで健康な生命体にのみ潜む「気」のようなものが発散されにくくなる。くよくよしているひとは、心配や同情をされる表情を演技ではなくしている。元気がない。辛そうである。ぼくは二十年以上も前にある女性を失って、そういうケースとして自己で診断したが、もうあれとも別人の如くになってしまった。もちろん、もとの状態にもどって後悔しているわけでもないが、身体の組成はかわった。大きな反省というものを一度、通過した身は、もう無邪気な少年を永久に失うことになった。遅かれ早かれ失うものであるが、あれがきっかけではなくてはならない理由もどこにもなかった。

 ぼくは絵美と食事をしながら前半部分までを伝えた。彼女の食欲は痩せた身体からは想像できないほどあった。すべて聞くと、彼女はブラウスのいちばん上のボタンを指でひっぱり、胸元のなかをのぞきこむようにして自分の皮膚をながめた。

「写ってないみたいだね。肉眼では不確かだけど……」
 と、ぼくの説にのった。
「骨の後ろにまわったから」

「じゃあ、わたしもそこにいる?」と言って、彼女は手を伸ばし、ぼくのネクタイをめくった。そこにあるのはネクタイの裏側のタグだけだった。

 ぼくらはなぜ、相手が胸のなかにいるという表現をつかうのだろう。記憶するのも、考えるのもすべては頭のなかのことだった。だが、結果として呼吸が乱れたり、胸の鼓動が早まったりする。どこかで指示されてのことだろうが、自分はそういう作為のスイッチをまったく押してもいない。

 この吐息の乱れがぼくの好意の証拠であり、絵美がじっとぼくを見つめるその瞳を独占していることが彼女の気持ちを確かめるうえでの正当さだろうか。ぼくの耳は、もっと違ったものを聞きたいとも思っているが、はっきりとしたものなどもう必要ないとも考え、ある面では避けようとしている。中心にあたることなど、ゲームとしてもまれであれば、本番ではもっとむずかしくなる。周辺にあれば、それはぼくのものである。彼女にタグなどつけられるわけもないのだし。

11年目の縦軸 27歳-18

2014年03月02日 | 11年目の縦軸
27歳-18

 ぼくと希美の関係がひとやま越え、アイドリングの状態をやめてからは彼女は自分の気持ちを一切、隠すような真似はしなかった。そのことで、ぼくは夏の昼間、子どもたちが遊んでいる水鉄砲を路上で急に浴びたように当惑し、別の表現では、はじめて外国人に遭遇した田舎の少年のようにどぎまぎした。(比喩が多過ぎる。人生は決して例えだけで構成されていない)

 好きかどうかは言葉で判断される。要求される前に言い出さなければならない。ぼくは仕事ならば次に起こり得ることを想定してできる限りの準備をした。しかし、希美から「わたしのこと、好き?」と問われる前までには堅実家の財布のようになかなか口を開かなかった。仕事ほど効率が求められないからでもあるし、自分の口の端々にも、顔全体にも正直にあらわれていると思っているからだ。好物をテーブルに並べられていただきますを言うタイミングを待ちわびている腹を空かせた少年ぐらいに。

 ぼくと希美は外国映画を見て、日常的な愛の告白の機会を逃さない主人公が出ると、希美の側は自分の主張の証人を得ることになり、ぼくから見ればあれは即物的な提示を露呈するしか信頼に足るものはないと考えているあわれなひとたちだと思っていた。ぼくもしないわけではないが、もちろん、機会があればプレゼントも渡すが、すべてが作為になることをおそれた。自然の延長線上に愛もあり、それをわざわざ丘のうえに記念碑を建てるようなことはなるべく避けたかった。

 反対から見れば、その記念碑が愛だった。記念碑は常に磨かれ、毎日、更新されなければならない。一度、承認したサインはある期間、有効であると思っているぼくは大事にしていないという疑いのレッテルを貼られた。

 いつも汲々とそんな話ばかりをしていたわけではないが、根底にはそういう態度があった。だからといって嫌いになるほどの理由でもない。ぼくはなるべく希美の意向に沿うように働き掛けた。それが男女の些細な感情の差と考えていたからであり、あの前の少女はぼくに要求する権利もあったのにしなかった事実とは別だったが、符号という観点で見るには年齢が違い過ぎた。あの子は、自分に自信があったのだろうか。すると、希美は自信がないのだろうか? それとも、ぼくに疑念をもたらす何かがあり、言葉が足りなく、それにまつわる態度も欠如している所為であろうか。答えは性急に必要ともされていない。

 ぼくらは公園にいた。若いお父さんは娘の背中をブランコの後方で押している。彼に言葉はない。ただ、その温もりの手を背中に感じている娘には伝わっているはずだ。妻であろうひとは、別の子どものいる乳母車をのぞいている。そのより小さな子どものほうは匂いや鼓動を通しても母を感じているのだろう。実際の言葉も重要であるが、接してはじめて伝わるものも多くあった。そのそばに屈んで犬に話しこんでいる老人がいた。老人といってもやっと退職したばかりという若さであった。まだ、仕事の責任感のようなオーラがそのひと全体を覆っていた。きっと重要な役職を得ていたのだろう。彼はどのように部下に話しかけていたのだろう。目の前にいる犬には柔和な口調で話しかけている。言葉が通じ合わないグループに所属しているものと予想される生き物にも、手っ取り早い伝達は言葉に限るようである。犬の耳もその音に応じて動いているように見える。それから、背中や頭を撫でた。そのときにも言葉をかけていた。

 ぼくは希美との会話を引きずっており、ふたりは無言でその様子を見ていた。ひとという共同体が成り立つには、分かり合うということが確かに重要だった。そこには命令もなければ、おそれも威嚇も必要ではない。同じ言語という恵まれた立場にいる。ならば、口を開くのを差し控えるのは無駄で、無責任のようにも思えた。ぼくは希美の肩に手を回す。彼女はそれにつられて頭を傾けた。

 ブランコの少女は若い父と手をつなぎ犬の前を通りかかった。飼い主と自分の父に触っていいか、了承をとった。犬に敵意もなく、されるままにしていた。少女には笑みがこぼれ、その後、両親は犬を飼う算段を要求されるのかもしれない。

 少女が離れる際に犬は小さな声で甲高く吠えた。人間同士なら、「この前は、どうも」と挨拶ぐらいすることになるのだろうが、犬はそこまで社交のことに加わらなくてもいい。ぼくらは過去にあったひとを単純にためこむ生き物なのだということを知る。再会した時に、自分はどういう人間になっているべきなのだろうか。ぼくのこころに意図しなくても波風を立てるようなひともいるだろう。ぼくは相手から尊敬されているだろうか? うとまれるようになっているだろうか。どんな感情も彼女たちに引き起こさないのだろうか。

「寒くなったね?」と希美は言う。

 いつの間にか日は傾き、どこかで夕飯の献立のにおいを予想させるものも流れてきた。ぼくらは立ち上がる。希美のことを好きだ。ぼくのこころを占めているものは、ほとんどがそれのような気がした。このことをうまく説明できるだろうか。自分が高得点を取ったテストの解答用紙を母に見せる自分の姿を思い浮かべる。ぼくも希美の眼前にそのような紙を突き出したかった。ぼくは、これほど好きなのだと。

11年目の縦軸 16歳-18

2014年03月01日 | 11年目の縦軸
16歳-18

 彼女のこころをよぎったであろう感情の揺れを、ぼくはどれほど把握していたのだろうか。そもそも、十六才の少年に求めること自体が酷なのだろうか。いまのぼくならばひとつひとつを子細に点検して、優しさのひとつや、愛情の言葉のひとつぐらいを加えることは、そう困難でもない。だが、彼女が好きになったのは当然いまのぼくではなく、未熟ですらあった当時のぼくの方なのだ。では、未熟という定義はなんであり、また反対の完成という基準はいったいどういうものであろう。未熟であるぼくは好かれ、そこから成長を果たした自分が逆に有していないものも多くある。謎は深まるばかりである、という客観的なナレーターのような声が、肩のうえで叩かれるつづみの乾いた音のようにぼくの胸に滑稽さを帯びて響いてきていた。

 ぼくはなぜこれほどまでに後ろめたいのであろうか。後ろめたさなど感じる必要があるのだろうか。

 もし仮に、彼女の愛情がぼくのそれと同じだけの比重を占めているならば、彼女はもっとぼくにそのこころのうちを打ち明けるべきなのだった。ぼくは面倒がることもなく、うっとうしくも思わない。しかし、彼女も未熟であるというスタンスをぼくはいとも簡単に忘れる。大人になった彼女はぼくの感情の機微を知り、ときには優しく、ときには適度に放っておいてくれる。ならば、ぼくが求めているのは母や姉という位置にいるひとのことなのか。ぼくらは同じように傷つき、同じように泣きながら成長する機会をもっと与えられるべきであった。そうすれば、同時に未熟さから抜け出ることができたであろう。

 ぼくらは成長する。学生から大人になる。単純な事実として、ぼくは彼女の放つ青さが気に入っており、そこに成熟さなども一点も入れることはできない。ぼくらは昆虫をとることに夢中になった時期もあるが、翌年にはその興味がいっさい失せていることも知る。計画も熟達もない。その場限りの関心の連続が少年期の思い出に化けた。もしかしたら、彼女の存在もその程度のものだったのだろうか。いや、ぼくはあえて表面の突起物を平らにして引っかけずに切り抜けようとしている。緩み切った網の目ですくうように。そうならば、ぼくはしなくなった遊びと同じく簡単に放り捨てて終わらせ、代わりにこんなにやり切れない後悔もしなければ、後ろめたさも感じなくて済むのだ。

 ぼくらはあの時期に同級生として会い、互いを認め、恋にすすむことになっていたのだ。ぼくは大人にも満たなく、自分自身の能力も、やりたいことも、望んでいることも不鮮明だった。そんなときに彼女がいて、ぼくが望むことは彼女といることだけであり、その要求を拒否されずにすんだ。いずれ、この短期的な住処から抜け出してしまうことも予想できたのだろう。ぼくは野望という大それたものもないが、それでも大人にはならなければいけない。そのルートに別の荷物を持ちこむことはできなかった。いくら愛が限りない高みに連れて行ってくれるとしても、簡単なことではない。そのぼくの選択は、結局は高みから突き落とされることで自分に還ってきた。痛みだけが友になるのだ。だが、それもまだ先の話だ。そんなに遠くはないが、未来の範疇の出来事なのだ。

 彼女のうれしいという気持ちはぼくが作ったのかもしれない。同じく淋しいや理解できないという感情もぼくが起源であるかもしれない。それももうすべて藪の中なのだ。こうなってしまっては。

 少し過去に戻る。

 もしぼくの告白が彼女に達しなかったならば、彼女はぼくという存在を日に日に薄めさせていく。学生時代のあまり話もしなかった同級生として。不特定多数のアルバムにおさまった同年代として。ぼくはずっとその気持ちを胸のなかに納めておくこともできた。しかし、ダムはためこんだ水を勢いとして放出してしまった。好きになった気持ちが明らかになるのは恥ずかしいと思っていたのに、ぼくは彼女といっしょにいることだけで不思議な優越感を抱いている。そのバランスを考えれば恥など皆無に等しかった。一瞬の恥をおそれて未来を失う可能性のほうが余程あわれだった。だが、その恥も報われたから消滅したに過ぎず、拒否されていたら恥も自分の身体以上に巨大化しただろう。

 ぼくはもっと大人になり、仕事でも取引ということを覚える。いきなり契約などには結びつかないのだ。相手が断らないラインというのを見極め、その間に折衷案を出し、喜びにも似た妥協をする。それを重ねることが自分の成績に上乗せられる。ぼくはその仕組みの一切を経験していなかった当時の自分をなつかしく感じる。いや、ぼくは彼女の友だちを介して、なんとなく意中を把握するために伺いをたてていたのだろうか。全身全霊でぶつかるほどぼくは当初からいさぎよくもなかったのだ。それももう責めることはできない。ぼくは彼女といることで、これほどまでに幸福になっていたのだ。幸福の分析など無意味なことだ。今年の勝利を来年につなげるだけ。だが、敗者のみに勝利への執念が芽生える。ぼくらは簡単に勝者の冠を奪われてしまう。あるいは気付かずに脱ぎ去ってしまう。言い訳や無意味な口実をたくさん並べて。