田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』

2019-09-25 18:04:45 | 男はつらいよ
『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(81)(1981.9.16.蒲田ロキシー 併映は『俺とあいつの物語』)


 前作の『~かもめ歌』を見た時に、もはやこのシリーズも終わりが近いと感じたものの、新作ができれば見ずにはいられない。これは一種の義理のようなものなのか、あるいは安心感がほしいからなのか。いずれにせよ、盆と正月はどうしても寅さんに会いたくなってしまうのだ。
 
 そして見てみれば、やはり笑わされ、泣かされてしまう。できれば、このままイメージを崩さないうちに打ち切ってほしい。年老いた寅さんなんて、喜劇ではなく悲劇になってしまう。
 
 誕生から10年余、その間寅さんのキャラクターも随分と変化してきた。今回もこれまでとは違う場面があった。
 
 それは、松坂慶子扮するふみが結婚の報告をするために寅屋を訪れるシーンだった。彼女が去った後、何と寅さんが恨み言をつぶやくのである。これまでこんなことはなかった。ふられれば黙って旅に出る寅さんだったはずなのに…。
 
 寅さんも年を取ってしまったのかなあ、あせっているのかなあ、それとも俺の思い過ごしなのかなあ。とにかく最近のシリーズには、安定感の裏側に、ひょっとしたら突然終わってしまうかもしれない、といった危機感がある。山田洋次たちが、もはや尽きた話を必死につなぎとめているような気がするのである。
 
 『~ハイビスカスの花』では、リリー(浅丘ルリ子)と一緒になってもおかしくない状況を描き、『~かもめ歌』では保護者的な寅さんを描いていた。今回は一応原点に戻っていたが、素直に受け止められない。どこが違うのかと考えてみても分からない。俺の思い過ごしなのかもしれないが、シリーズが終局に向っているのは確かであろう。
 
 最近の描き方は、スタッフが終わり方を模索した結果なのかもしれない。『復活の日』のセリフじゃないが、このシリーズもいつかは必ず終わる時がくる。ただそれがどんな終わり方をするかだが…。
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『愛と哀しみのボレロ』

2019-09-25 11:16:24 | 映画いろいろ
『愛と哀しみのボレロ』(81)(1981.11.20.丸の内ピカデリー)


 第二次大戦から現代までの、米仏独ソの4家族の姿を通して、欧米の近代史を見つめていくという趣向。
 
 登場するのは、グレン・ミラーを思わせるバンドリーダー(ジェームズ・カーン)、ライザ・ミネリのような歌手(ジェラルディン・チャップリン)、エディット・ピアフのような歌手(エブリーヌ・ブイックス)、ヘルベルト・フォン・カラヤンのような指揮者(ダニエル・オルブリフスキ)、ルドルフ・ヌレエフもどきのダンサー(ジョルジュ・ドン)。
 
 そして、ユダヤ人親子(ニコール・ガルシア、ロベールオッセン)の悲劇や、アルジェリア戦争まで描き込まれている。これが本当にクロード・ルルーシュの映画なのか、と驚くほどのスケールの大きさである。
 
 全体としては話がバラバラで、時空を超えたりもするので、分かりにくいところもあるが、この映画の根底に流れているのは宿命や縁や生まれ変わり、つまり輪廻の思想である。
 
 親子などを同じ俳優が一人二役で演じているせいもあるが、まるで親の因果が子に報うといった感じでストーリーが展開していく。ユダヤ系のフランス人であるルルーシュに、こんな考え方があるのはちょっと不思議な感じがした。
 
 ラストは、バラバラのように見えて、実は運命の糸で結ばれていた4つの家族が一堂に会す。エッフェル塔下でラベルのボレロをバックに、ジョルジュ・ドンが踊り、ジェラルディン・チャップリンが歌い、ダニエル・オルブリフスキが指揮棒を振る姿が映される。
 
 ここは芸術的には大いに見応えがあるが、その裏にユニセフや赤十字の存在をちらつかせたところにルルーシュの限界を見た気がしたのも確かである。
 
ラベル(『愛と哀しみのボレロ』)とマーラー(『ベニスに死す』)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/9f06a934bd133528d6399c1be99cb1e2
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『フリッカー、あるいは映画の魔』(セオドア・ローザック)

2019-09-25 08:01:41 | ブックレビュー

 

(2006.10.7.)

 セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』(文春文庫刊)を読了。文庫上下巻でほぼ1000ページの破天荒な超大作。舞台は1960年代から70年代。大筋は映画学科の教授になった元映画フリークが、戦前に活躍しながら行方不明になった謎の監督が映画の奥に隠した秘密の技法とキリスト教の異端教団との関係に迫る…という謎解きを含んだ一種のホラ話なのだが、そこに実際の映画史や宗教史が盛り込まれるから必然的に話は壮大になる。

 上巻は一気に読めるが、下巻の前半はちょっとダレて正直読むのがつらかった。だがそれを超えるとまるで麻薬のように読むのがやめられなくなる。もっともラストは大山鳴動して鼠一匹という感じがしないでもないが。

 主人公が魅かれる謎の映画監督マックス・キャッスルはもちろん架空の人物だが、フリッツ・ラング、カール・フロイント、エド・ウッド、ロジャー・コーマンなど、モデルとなったであろう複数の人物が想像できる。そして、そこにオーソン・ウェルズやジョン・ヒューストンもからんでくるから、読んでいるうちにどこまでがホラ話なのかが分からなくなる“快感”が味わえ、全編を読み終わると副題通り“映画の魔力”を強く感じさせられる。映画フリークでなければ書けない、まさに怪書と言える。

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『七日じゃ映画は撮れません』(真藤順丈)

2019-09-25 06:11:35 | ブックレビュー

 惹句は「異能の映画スタッフが、いわく付きの脚本を映画化するために集い、さまざまな困難を経て、映画を撮り上げる姿を描く職業小説」。

 タイトルは聖書の「神は7日で世界を造った」という天地創造にあやかり、「映画の創造は7日では無理。もっと大変だ」ということを暗に表現している。

 前半は、それぞれのスタッフを描いた連作短編の趣があって面白い。彼らが集う後半の中編「アンダー・ヘヴン撮影記」は支離滅裂だが、読者を引き込むパワーがある。ただ脚注的に挿入されるさまざま映画に関する説明はかえってじゃまな気がした。

 文庫600ページを超える大冊で、セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』をほうふつとさせ、映画製作にまつわるカオス的な世界が描かれるのだが、結末は大山鳴動して鼠一匹の感もあり、これも『フリッカー~』と同様。ただ作者の映画への熱い思いは痛いほど伝わってきた。映画好きには一読をお薦めする。

 

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