こんにちは。
足利事件の菅家利和さんが冤罪で無罪ですね。
17年間の服役というテーマは重いものですが
「キャリアと人生」という視点では重要ですので
インスパイアで書いてみます。
(今日は長文になります)
私の視点は、冤罪を含めてすべての出来事の中に
人は真剣に間違えることがある
というものです。
客観的な事実として先に書いておきます。
それではいきます。
◆私も調書を作られました
犯罪容疑者や犯罪被害者が、事件について取調室で
述べる事件内容を記述した「調書」というものが
かなり独特な主観的作文であることを見てみましょう。
見るというよりも実際に体験しましょう。
私も作られたことがあります。
(もちろん犯罪者ではないですよ)
貴重な体験からどうそ
◆取調室に入る私
以前、ある事件に巻きこまれた「被害者」として
警察署の「取調室」で一日中、刑事さんと対面した事があります。
「被害の事実を聞いて調書を作るから来て欲しい」
ということで警察署に行きました。
本当に「取調室」はドラマのセットそのままでした。
狭い部屋の中に
・机と椅子
・机の上にはライトスタンド
・刑事さんと対面
5分もしないうちに
「なんだか私は実は犯罪者で、これから取り調べが始まるんだ!」
という雰囲気になりました。
そう、取調室というところは
「心理的に追い込む見事な舞台装置」なのだと実感しました。
◆アウェイにおける真実と事実の乖離
サッカーの試合でいうと完全なアウェイです。
同じ実力のチームでもホームとアウェイでは
アウェイは不利です。
これは理解しなきゃ!
たとえ「真実が一つ」であっても、
その主張はアウェイでは
「不利という事実」があります。
◆事実は捻じ曲げられやすいもの
私が実際にこの時体験した「事実の捻じ曲げ」
というのは
警察は自分が犯罪被害にあった心理状況を
「勝手な言葉で勝手に置き換えていくもの」
ということでした。
そして
「勝手な言葉」
というのは
「調書作成」の形式的な文言(もんごん)
があるみたいということです。
具体例で言うとね。
私→そのときはたしか「嫌な気分」だったんです。
としゃべったのに
調書→私はそのときに「調子が悪い」状態でした。
とさせられました。
しゃべった言葉のニュアンスを調書の文体に整える
作業段階で勝手に変換されてしまうので「嫌な気分」でした・・
嫌だった、という気持ちの表現が伝わらずに
調書では
調子が悪い、という機械の不具合のような表現になるので
ここからもう
「調書」は警察の主観で勝手に表現されちゃうものなのだ
とイメージできました。
◆まるで自分で書いたような作文になります。
調書は控えを貰えません。
対話しながら、刑事さんが作成した文章を一方的に読み上げて
「これでいいよな」と一行ごとに確認させられます。
ここでの反論はしずらいです。
前に書いたようなアウェイ状態ですよ。
形式はまるで小学生の作文で、単純に書くと
↓
私は○○と申します、生まれは○○年で・・
↑
の自己紹介からはじまり、
↓
○月○日、このような事件に遭遇しました。
(事件のあらまし)
↑
最後の言葉は決まり文句のように
↓
このような事件を私は絶対に許せません。
刑事さんどうか犯人を捕まえてください。
↑
で終わってました。
※
あくまで私の記憶の範囲からなのでご了承ください。
こんな内容であれば、自分で文章作成したほうが早い。
そして自分の感情をはっきり主張できます。
なぜこんな形式になっているのかは疑問ですが、
長年の慣習で成立した独特の文章体なのは確かです。
◆想像するのは動機解明という観点から
調書がまったく客観的な事実記載であるなら問題ありません。
犯行日時・手順・被害額・などの部分はそうでしょう。
食い違いが生じる部分はたいてい
犯行や犯罪被害などの心理動機の記述にあります。
※
以前、ライブドア事件の堀江貴文が調書にサインをしなかった
時に「事件を起こしたのに往生際が悪い」という意見もありました。
調書作成の実態を知っていると、たしかに
「おれの言ったこと(特に気分や動機の心情)が書いていないじゃいか!」
という堀江貴文の主張には一定の理解ができました。
◆人は真剣に間違えるもの
私の体験談ですが、刑事さんが後日
「調書の文字を打ち間違えたから訂正したいので印鑑持ってきてくれ」
と言われて持っていきました。
取調室で
調書を取り出し、罫線引いて訂正箇所に印鑑を押してその脇に
「○○字削除、○○字追加」(だったかな?)と
丁寧にペンで楷書していました。
公的な書類なので仰々しい訂正スタイルですが
なぜか
「真面目で几帳面な作家が一生懸命に作品を作っている」
ようにも見えました。
最初の事実にたちかえりましょう。
人は真剣に間違えることもあります。
冤罪は被害者にしても苦しみですが
調書作成の警察官、検察官、司法関係者すべてが
職務に真剣であるがゆえに間違ってしまうこともあります。
私の被害の犯人もいまだに捕まっていません。
(時効にはさせませんよー)
◆真剣に間違えるほどの真剣さをキャリアと人生にこそ
いろいろな人生経験から思考を繰り返し
そのなかで皆さんに
キャリアと人生の問題解決のヒントを
つむぎだせるようなブログを
これからも書いていきますね。
新年度を来週に控えて
これからも
どうぞよろしくお願いします。
よい週末を
足利事件の菅家利和さんが冤罪で無罪ですね。
17年間の服役というテーマは重いものですが
「キャリアと人生」という視点では重要ですので
インスパイアで書いてみます。
(今日は長文になります)
私の視点は、冤罪を含めてすべての出来事の中に
人は真剣に間違えることがある
というものです。
客観的な事実として先に書いておきます。
それではいきます。
◆私も調書を作られました
犯罪容疑者や犯罪被害者が、事件について取調室で
述べる事件内容を記述した「調書」というものが
かなり独特な主観的作文であることを見てみましょう。
見るというよりも実際に体験しましょう。
私も作られたことがあります。
(もちろん犯罪者ではないですよ)
貴重な体験からどうそ
◆取調室に入る私
以前、ある事件に巻きこまれた「被害者」として
警察署の「取調室」で一日中、刑事さんと対面した事があります。
「被害の事実を聞いて調書を作るから来て欲しい」
ということで警察署に行きました。
本当に「取調室」はドラマのセットそのままでした。
狭い部屋の中に
・机と椅子
・机の上にはライトスタンド
・刑事さんと対面
5分もしないうちに
「なんだか私は実は犯罪者で、これから取り調べが始まるんだ!」
という雰囲気になりました。
そう、取調室というところは
「心理的に追い込む見事な舞台装置」なのだと実感しました。
◆アウェイにおける真実と事実の乖離
サッカーの試合でいうと完全なアウェイです。
同じ実力のチームでもホームとアウェイでは
アウェイは不利です。
これは理解しなきゃ!
たとえ「真実が一つ」であっても、
その主張はアウェイでは
「不利という事実」があります。
◆事実は捻じ曲げられやすいもの
私が実際にこの時体験した「事実の捻じ曲げ」
というのは
警察は自分が犯罪被害にあった心理状況を
「勝手な言葉で勝手に置き換えていくもの」
ということでした。
そして
「勝手な言葉」
というのは
「調書作成」の形式的な文言(もんごん)
があるみたいということです。
具体例で言うとね。
私→そのときはたしか「嫌な気分」だったんです。
としゃべったのに
調書→私はそのときに「調子が悪い」状態でした。
とさせられました。
しゃべった言葉のニュアンスを調書の文体に整える
作業段階で勝手に変換されてしまうので「嫌な気分」でした・・
嫌だった、という気持ちの表現が伝わらずに
調書では
調子が悪い、という機械の不具合のような表現になるので
ここからもう
「調書」は警察の主観で勝手に表現されちゃうものなのだ
とイメージできました。
◆まるで自分で書いたような作文になります。
調書は控えを貰えません。
対話しながら、刑事さんが作成した文章を一方的に読み上げて
「これでいいよな」と一行ごとに確認させられます。
ここでの反論はしずらいです。
前に書いたようなアウェイ状態ですよ。
形式はまるで小学生の作文で、単純に書くと
↓
私は○○と申します、生まれは○○年で・・
↑
の自己紹介からはじまり、
↓
○月○日、このような事件に遭遇しました。
(事件のあらまし)
↑
最後の言葉は決まり文句のように
↓
このような事件を私は絶対に許せません。
刑事さんどうか犯人を捕まえてください。
↑
で終わってました。
※
あくまで私の記憶の範囲からなのでご了承ください。
こんな内容であれば、自分で文章作成したほうが早い。
そして自分の感情をはっきり主張できます。
なぜこんな形式になっているのかは疑問ですが、
長年の慣習で成立した独特の文章体なのは確かです。
◆想像するのは動機解明という観点から
調書がまったく客観的な事実記載であるなら問題ありません。
犯行日時・手順・被害額・などの部分はそうでしょう。
食い違いが生じる部分はたいてい
犯行や犯罪被害などの心理動機の記述にあります。
※
以前、ライブドア事件の堀江貴文が調書にサインをしなかった
時に「事件を起こしたのに往生際が悪い」という意見もありました。
調書作成の実態を知っていると、たしかに
「おれの言ったこと(特に気分や動機の心情)が書いていないじゃいか!」
という堀江貴文の主張には一定の理解ができました。
◆人は真剣に間違えるもの
私の体験談ですが、刑事さんが後日
「調書の文字を打ち間違えたから訂正したいので印鑑持ってきてくれ」
と言われて持っていきました。
取調室で
調書を取り出し、罫線引いて訂正箇所に印鑑を押してその脇に
「○○字削除、○○字追加」(だったかな?)と
丁寧にペンで楷書していました。
公的な書類なので仰々しい訂正スタイルですが
なぜか
「真面目で几帳面な作家が一生懸命に作品を作っている」
ようにも見えました。
最初の事実にたちかえりましょう。
人は真剣に間違えることもあります。
冤罪は被害者にしても苦しみですが
調書作成の警察官、検察官、司法関係者すべてが
職務に真剣であるがゆえに間違ってしまうこともあります。
私の被害の犯人もいまだに捕まっていません。
(時効にはさせませんよー)
◆真剣に間違えるほどの真剣さをキャリアと人生にこそ
いろいろな人生経験から思考を繰り返し
そのなかで皆さんに
キャリアと人生の問題解決のヒントを
つむぎだせるようなブログを
これからも書いていきますね。
新年度を来週に控えて
これからも
どうぞよろしくお願いします。
よい週末を