天候も回復、午後から始まった「勝山左義長」。
玄関の「正月注連縄」を今日外し、
古くなった神社札など袋に入れ、
櫓前の仮社にお賽銭と共に預けてきました。
可愛い予備軍たち
そもそも「左義長」祭りは、幕藩地代からの伝承の祭り、
基本、神事行事なのです。
祀りのご神体は「歳徳神(としとくしん)」その歳の初めに祭る神様、
五穀豊穣を願う神様です、この前に「生木の松飾り」があり
ここに「三角形の火打ち袋」を吊り下げる、
すなわち「火防の神様」をも祀っています。
勝山は幕藩時代から数回の大火に襲われ、
明治29年には旧町の80%が消失するなど、
火防を願う思いが強くなり
「左義長」祭りも盛大になってきたとも云われています。
我が家も、殿様の移封についてきて当てがわれた藩士屋敷(家中)、
このとき全消失、現在の土地に移ったようです。
市内の寺院もほぼ全焼、今市内の随所に立てられている寺院は
このときに消失し再建されたものです。
左義長櫓の上で、お酒に酔った若い衆が、
女の長襦袢を着て、芸者(昭和30年代には30人も居た)
の三味に合わせて踊りまくる」というもの、このため「奇祭とも」。
お殿様にも認められた無礼講のお祭り。
今は、芸者衆の変わりにPTAのお母さんたち、お酒に酔った若い衆は
小中学生の子供達に代わっています。
今、市内の小学校では、櫓の無い町(区)の子供達のためと同時に
伝承行事の伝承のため、学校行事として実施、
本番前に毎年「子供左義長」が実施されいています。
この町の子供達はどの子でも左義長太鼓がたたけるようです。
いよいよの本番までの体勢つくりは万全。
藩主小笠原公は、この祭りの無礼講として庶民の気持ちを
川柳や狂歌に託すことを許しました。
辻々に設けられた「絵入り行燈」に
世相風刺や庶民の哀歓が歌われています。
什器を使ってのその「歳のつくりもの」。
こんな飾りもの。