
近くの工事現場で基礎になる鉄筋の組立てが進んでいる。組立て初めはふらふらで不安定だった。それが、無数の鉄筋が結束されるにつれ次第に一つの強固な構築物に仕上がっていく。結束は素早い仕草で行われる。縦も横も底も測ったがごとく綺麗な四角が出来る。
そんな仕事風景を見ながら、工高校時代の校歌の一節を思い出した。「… 新しき世の礎と 挺身ここに鍛えたる …」。作詞は永田新之允という初代岩国市長。この中の1字「礎(いしずえ)」、好きな1字だ。
産官学で日本を奮い立たせる昭和30年代、その一翼を担う工高らしい校歌だった、と思う。家も自治体も企業もそして国も、礎、基礎がしっかりしていないと不安を助長するのは最近のどこかの総理を見れば分かる。
礎は家屋の柱の下の土台石、物事の基礎となるもの、とある。柱の下の土台石、最近の新築では使われることはない。使われることがなくなることもあってか、その字を見ることも少なくなった。
鉄筋を切り加工する人、運搬する人、それを組み合わせ結束する人など、各分担を積み上げて仕上げることでチームとしての仕事が完成する。現役時代も、この噛み合わせがいいと苦労をそう感じなかった。
コンクリートが流し込まれれると、この幾何学的構築物は隠され、再び人の目に触れることはない。そうなってもこの基礎はいつまでも上に建つものを支える。本当の礎、基礎として末代まで残る。いい仕事、いい基礎を見ながらそんなことを思った。
(写真:幾何学的構築物のような基礎)