吉川史料館(写真)では6月1日から新展示「吉川経幹とその息子の時代展」に変わった。展示解説の「吉川史料館たより」(第47号、6月1日付)が発行されている。これに私の投稿が掲載された。
「うつけの采配」(中路啓太作 中央公論新社)、この本を読もう、そう思ったのは、「信念貫いた吉川広家」と紹介があったことによる。吉川広家は毛利元就の二男・吉川元春の三男で岩国藩の祖となる人だ。
吉川広家は関ヶ原の戦いで西軍(総大将は毛利輝元、東軍は徳川家康)の指揮を執りながらも、最後まで兵を動かさなかったとされる。小早川秀秋の寝返り等もあり西軍は敗れた。毛利氏は広家の働きで改易は免れたが長門・周防の2カ国33万石に大幅に減封される。輝元は東の守りとして広家に岩国3万石を与えた。広家は1600(慶長5)年、14万石を領していた出雲国富田から国入りした。
「うつけの采配」は関ヶ原の戦で広家が「ひたすら『宗家・毛利家』のため」に知略を凝らす姿が書かれている。それを裏付ける「吉川広家自筆書状」が吉川史料館で展示されている。原文は判読すらできないが、現代訳を読むと「うつけの采配」の原典となっている。関ヶ原におけるこの采配が「毛利家を救った英雄か、裏切りか」といわれる。毛利家としては後者にとらえ、冷たい処遇をとったことは知られている。
物語の終わり、広家の起請文に家康が「やられた」と虚脱する場面がある。そして広家の武人としてずば抜けた力量を認める。そこに岩国藩の祖として誇れるものを感じた。今の日本に、こんな「信念の人」が政を担っていれば、国の姿が変わっていたかも知れない、と考え込む。
藩主として広家は干拓や各種産業を興し、今のこの地域の原型を築かれたことは多くの人が知るところとなっている。「うつけ」とは、気が抜けてぼんやりしているような人、間抜けなど、いい意味では使われない。では広家は本当に「うつけ」であったのだろうか、読後の思いは我が藩の祖は「常識に縛られず深慮遠謀の広家」につきる。
私は、3年前までは「岩国の藩主は吉川家」程度の知識しか持ち合わせていなかった。ところがある縁、それは、2010年1月、岩国検定実行委員会の発足に加わり、歴史音痴だった自分を恥じながら、検定の勉強会で岩国の成り立ちを学んだ。その中で特に吉川家について大きな興味を抱くようになった。そんな中で出会ったのが紹介した一冊。読み進むにつれ、「毛利両川」最後の武人といわれる広家に誇るものを感じたのは私だけではないだろう。
作者は小説家として「経済が縮む中で、どう誇らしく美しく生きていくかが問われている。広家の目指したものは今の日本人に通じる」と述べている。そこには、来館されたおり貰った、優しいサインの書体からは想像つかない強い訴えが伝わる。
検定を通して昌明館や仙鳥館に住まいされた経験のある方と知り合い、話を伺うなど思わぬ経験をした。もしや、吉川家の思し召し、そんな大それたことを思いながら「吉川史料館だより」46号の広家自筆書状の紹介を読んでいる。これからも四季ごとに開催される展示会へ足を運ぼう、とも思いながら。
金曜日菖蒲を堪能して帰りました。めったに寄れないので懐かしく嬉しかったです
読書家のakoさん、史料館や仙鳥館にゆかりあるakoさんならではの感想は、他の人とことなるのではないでしょうか。
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