夫を亡くし気丈に振舞っている報道を見て、アイドル時代の榊原郁恵について書きたくなった。
彼女の心情を慮って励ますような文章を書くのは「生身派」で、アイドルとしての彼女の作品を思い出して書くのは「企画派」。私は後者である。
榊原郁恵は、私が最初にファンになったアイドルである。
デビューは1977年1月、第1回ホリプロスカウトキャラバン優勝者として鳴り物入りのデビューだった。当時、私は中学3年生だった。ルックスの「タヌキ顔」は好みのタイプだったが、デビュー曲の『私の先生』、2曲目の『バス通学』が、平凡な学園ソングという印象で、歯がゆく思っていた。3曲目『わがまま金曜日』はテレビで見た記憶もなかった。4曲目の『アル・パシート+アラン・ドロン<あなた』は、タイトルが奇抜なのと、新人賞番組などで何度も見たお陰で、深く印象に残った。彼女の魅力を引き出したいい曲だったと思う。語尾をしゃくるような独特の歌い方が個性として定着して来たように思った。
翌年1978年、『いとしのロビン・フッドさま』『めざめのカーニバル』と、アイドルっぽくポップな曲が続いた。独特の「郁恵ぶし」と言える歌い方がより顕著になって行き、そして代表作『夏のお嬢さん』が大ヒットとなる。ベストテン番組にも長くランクインしていた。健康的、元気、庶民的、性格がいい、といったキャラクターイメージも定着し、一躍トップアイドルになった。
高校2年の夏にして初めてギターに挑戦し、初めて一曲弾けるようになったのも『夏のお嬢さん』だった。コード進行が易しかったのだ。
これ以降、発売されるシングル、アルバムを買い続け、応援し続けることになる。
しかし、周知のように、アイドルとしてのピークは『夏のお嬢さん』で、その後それを超えるヒット曲は出なかった。毎回、様々なソングライターを起用し、いろいろと趣向を変えた楽曲を出し、それなりによい曲も多かったのだが、何と言っても『夏のお嬢さん』が素晴らしすぎて、そのイメージを上書きすることは困難すぎたのだろう。
そんな中でも私が好きだった曲、印象に残っている曲を何曲か紹介する。
『微笑日記』(1979年)はしっとりしたバラードながら「郁恵ぶし」も楽しめる佳曲だった。
『風をみつめて』(1979年)は尾崎亜美のバラード。B面の『ひとりぼっちのクリスマスソング』も含め、新境地と言えるような少し大人っぽい曲。
『イエ!イエ!お嬢さん』(1980年)の作曲はユーミン。久々のアップテンポ曲で、『夏のお嬢さん』を意識したと思われるダサいタイトル。ヒットを狙ったのだろうがやや痛い感じだった。今聴くと案外よい曲だ。
『ROBOT』(1980年)は、彼女の第2のヒット曲だろう。今でもマニアの人気は高い。松本隆作詞、筒美京平作曲の斬新なテクノ歌謡。当時流行っていたYMOを想起させる。モノトーンのタイトミニスカートを着てカクカクした振り付けで歌っていた彼女を今でも思い出せる。
『あなたは「おもしろマガジン」』(1980年)は糸井重里作詞。デートもマニュアル通りの彼を皮肉る歌詞は、いかにも糸井重里らしいが、沢田研二『TOKIO』や松本伊代『TVの国からキラキラ』のようなインパクトはなかった。
他にも上田知華作詞作曲の『ガラス色の午後』(1983)、B面だが杉真理作詞作曲の『悲しきクラクション』(1983)なども意欲的でハイセンスな曲だった。
ダ・カーポ作詞作曲の『女友達代表』(1985)が久々のヒット曲となる。コミカルな中に友情を感じさせるウエディングソングだが、その曲はたぶんアイドルポップではなかった。その後、アイドルは卒業し、好感度の高いタレントとして活躍を続け今日に至っている。
気の毒だなと思いながら見ていたのは『ザ・トップテン』(1981年~)の司会だった。器用でソツなく何でもこなし、好感度が高いキャラクターを買われての起用だったのだとは思う。自分自身が、まだ3か月に1曲新曲をリリースする歌手でありながら、アイドルを見下したような発言も散見される堺正章とコンビを組み、誠実に司会を務め続けた。自分より若いアイドルが歌うのを紹介しながら、自分の曲が10位以内にランクインすることはなかった。新曲が出た時にスポットライト的に歌わせてもらうことも、私が見ていた限りではなかったと思う。あるいはそれをしないのが彼女の矜持だったのか。
また、以前このブログの記事にもなったが、1982年のNHK紅白歌合戦に出場し、自分の持ち歌ではなくイルカの『なごり雪』を歌ったことがあった。その時の心情を想像すると、やはり不本意だったと思う。その不本意さを、10数年後のカラオケ番組で、正にその曲を「歌詞を見ずに最後まで歌いきる」という形で晴らしたのを目撃し、勝手に涙を流して感激した。
もうひとつ。1981年から1987年まで、毎年夏に、ミュージカル『ピーターパン』の主役を演じ続けたのも彼女の大きな勲章だろう。「現場派」ではなく「書斎派」の私も、1981年に新宿コマ劇場に観に行った。今でこそアイドルが舞台に出演することは珍しくないが、当時としては画期的で、かつ商業的にも成功したというのは素晴らしいことだろう。ホリプロの企画力も凄いと思うが、榊原郁恵というタレントの力がなければ成し遂げられなかった成功だと思う。
演技で言うと、テレビ番組『ナッキーはつむじ風』は毎週欠かさずに見ていた。30分番組の学園ドタバタドラマだったが、ポジティブで魅力的な彼女のキャラクターイメージにぴったりの役柄で、楽しく見ていた。続編というか、社会人編の『愛LOVEナッキー』も良かった。
このブログの初期ライターであるナッキーさんのペンネームは、この番組が由来だと聞いている。1984年にナッキーさんと知り合った時に、お互い榊原郁恵ファンだったことで意気投合した。
末筆ながら、渡辺徹さんのご冥福をお祈りします。
彼女の心情を慮って励ますような文章を書くのは「生身派」で、アイドルとしての彼女の作品を思い出して書くのは「企画派」。私は後者である。
榊原郁恵は、私が最初にファンになったアイドルである。
デビューは1977年1月、第1回ホリプロスカウトキャラバン優勝者として鳴り物入りのデビューだった。当時、私は中学3年生だった。ルックスの「タヌキ顔」は好みのタイプだったが、デビュー曲の『私の先生』、2曲目の『バス通学』が、平凡な学園ソングという印象で、歯がゆく思っていた。3曲目『わがまま金曜日』はテレビで見た記憶もなかった。4曲目の『アル・パシート+アラン・ドロン<あなた』は、タイトルが奇抜なのと、新人賞番組などで何度も見たお陰で、深く印象に残った。彼女の魅力を引き出したいい曲だったと思う。語尾をしゃくるような独特の歌い方が個性として定着して来たように思った。
翌年1978年、『いとしのロビン・フッドさま』『めざめのカーニバル』と、アイドルっぽくポップな曲が続いた。独特の「郁恵ぶし」と言える歌い方がより顕著になって行き、そして代表作『夏のお嬢さん』が大ヒットとなる。ベストテン番組にも長くランクインしていた。健康的、元気、庶民的、性格がいい、といったキャラクターイメージも定着し、一躍トップアイドルになった。
高校2年の夏にして初めてギターに挑戦し、初めて一曲弾けるようになったのも『夏のお嬢さん』だった。コード進行が易しかったのだ。
これ以降、発売されるシングル、アルバムを買い続け、応援し続けることになる。
しかし、周知のように、アイドルとしてのピークは『夏のお嬢さん』で、その後それを超えるヒット曲は出なかった。毎回、様々なソングライターを起用し、いろいろと趣向を変えた楽曲を出し、それなりによい曲も多かったのだが、何と言っても『夏のお嬢さん』が素晴らしすぎて、そのイメージを上書きすることは困難すぎたのだろう。
そんな中でも私が好きだった曲、印象に残っている曲を何曲か紹介する。
『微笑日記』(1979年)はしっとりしたバラードながら「郁恵ぶし」も楽しめる佳曲だった。
『風をみつめて』(1979年)は尾崎亜美のバラード。B面の『ひとりぼっちのクリスマスソング』も含め、新境地と言えるような少し大人っぽい曲。
『イエ!イエ!お嬢さん』(1980年)の作曲はユーミン。久々のアップテンポ曲で、『夏のお嬢さん』を意識したと思われるダサいタイトル。ヒットを狙ったのだろうがやや痛い感じだった。今聴くと案外よい曲だ。
『ROBOT』(1980年)は、彼女の第2のヒット曲だろう。今でもマニアの人気は高い。松本隆作詞、筒美京平作曲の斬新なテクノ歌謡。当時流行っていたYMOを想起させる。モノトーンのタイトミニスカートを着てカクカクした振り付けで歌っていた彼女を今でも思い出せる。
『あなたは「おもしろマガジン」』(1980年)は糸井重里作詞。デートもマニュアル通りの彼を皮肉る歌詞は、いかにも糸井重里らしいが、沢田研二『TOKIO』や松本伊代『TVの国からキラキラ』のようなインパクトはなかった。
他にも上田知華作詞作曲の『ガラス色の午後』(1983)、B面だが杉真理作詞作曲の『悲しきクラクション』(1983)なども意欲的でハイセンスな曲だった。
ダ・カーポ作詞作曲の『女友達代表』(1985)が久々のヒット曲となる。コミカルな中に友情を感じさせるウエディングソングだが、その曲はたぶんアイドルポップではなかった。その後、アイドルは卒業し、好感度の高いタレントとして活躍を続け今日に至っている。
気の毒だなと思いながら見ていたのは『ザ・トップテン』(1981年~)の司会だった。器用でソツなく何でもこなし、好感度が高いキャラクターを買われての起用だったのだとは思う。自分自身が、まだ3か月に1曲新曲をリリースする歌手でありながら、アイドルを見下したような発言も散見される堺正章とコンビを組み、誠実に司会を務め続けた。自分より若いアイドルが歌うのを紹介しながら、自分の曲が10位以内にランクインすることはなかった。新曲が出た時にスポットライト的に歌わせてもらうことも、私が見ていた限りではなかったと思う。あるいはそれをしないのが彼女の矜持だったのか。
また、以前このブログの記事にもなったが、1982年のNHK紅白歌合戦に出場し、自分の持ち歌ではなくイルカの『なごり雪』を歌ったことがあった。その時の心情を想像すると、やはり不本意だったと思う。その不本意さを、10数年後のカラオケ番組で、正にその曲を「歌詞を見ずに最後まで歌いきる」という形で晴らしたのを目撃し、勝手に涙を流して感激した。
もうひとつ。1981年から1987年まで、毎年夏に、ミュージカル『ピーターパン』の主役を演じ続けたのも彼女の大きな勲章だろう。「現場派」ではなく「書斎派」の私も、1981年に新宿コマ劇場に観に行った。今でこそアイドルが舞台に出演することは珍しくないが、当時としては画期的で、かつ商業的にも成功したというのは素晴らしいことだろう。ホリプロの企画力も凄いと思うが、榊原郁恵というタレントの力がなければ成し遂げられなかった成功だと思う。
演技で言うと、テレビ番組『ナッキーはつむじ風』は毎週欠かさずに見ていた。30分番組の学園ドタバタドラマだったが、ポジティブで魅力的な彼女のキャラクターイメージにぴったりの役柄で、楽しく見ていた。続編というか、社会人編の『愛LOVEナッキー』も良かった。
このブログの初期ライターであるナッキーさんのペンネームは、この番組が由来だと聞いている。1984年にナッキーさんと知り合った時に、お互い榊原郁恵ファンだったことで意気投合した。
末筆ながら、渡辺徹さんのご冥福をお祈りします。