一見してはっと卓見に見えるが,本質はそこにあるとは必ずしも限らないねという話:
@yunishio yunishio 「キラキラネームを叩くときには意識してないと思うけど、統治者の便宜への無条件な服従、という心理がある。戸籍名なんて生まれた順に一郎とか二郎とか適当に付けておいて、日常生活では自分好みの名前を勝手に称すればいいのである。戸籍名の絶対視がキラキラネーム叩きを生んでいる。」(2011/11/1)
特徴的・奇異な名前を「ほかならぬ戸籍に登録すること」が目的なのなら,「統治者への便宜」すなわち戸籍上個人識別が容易な名前を登録することへの「無条件的服従」となろう。これに対する抵抗として,戸籍名なんぞてきとーに付けといて日常生活では多様に名乗ることが考えられる。
…夫婦同姓の原則がなんで導入されたか,という話ですね。
しかし,キラキラネームの動機は―根源的心理は,統治者への便宜への服従にあろうか? 戸籍名=個人名という原則に従ってはいるが,これは単に権力批判の水準を得ていないだけではあるまいか。
特異な名前を付けたがる心情は,寧ろ,ただ一つその者に生涯固有のアイデンティティの核として,周囲の何者とも異なる=差異を持つものを与えたいとのものではあるまいか。彼らは一様に「普通からの逸脱」を望んでいはしないか,あるいは,「普通からの逸脱」を実行してはいまいか。
彼らは―そうした名前をつける側は,統治者へ便宜提供しようと服従しているのではない。単に結果としてそうなっているかもしれないだけのことだ。
さて,そうした人々を批判する者たちについてはどうか? 戸籍名が,原則として不変である―戸籍名への絶対視があるのはまず疑いない。しかしそれが,そのまま,統治者の便宜に無条件に服従しようという心理に由来するものなのかどうか。
彼らの批判の切り口は,あくまで「個性的」なる概念に関わるだろう。
妙にこだわるところからして,名前が個性の形成の,割と重要な契機であるとの認識はつける側とも共有しているだろう。
さて,我々のこの個性なるもの,これは人生の経歴によって段々に形成されてきた部分が相当あるのであって(年齢が進むにつれ大きくなるものと思われる),それは個々人の選択によるのである。
だから彼らの批判の典型的パターンは,「子供の人生を親がおもちゃにしている!」「この親は,子供を自分の所有物とみなしている!」である。個々に自由に選択し形成してゆくべき個性,そのスタート地点で余りに凄絶な方向に方向づけられてしまいかねないことへの反感,恐れを主張するものだ。
おそれ,恐怖。『もし自分にそれがされたとしたら!』。寧ろ彼ら批判者の心理は,他ならぬ自分(たち)の個性(の形成)が,誰か他の何者かに,その者の資格故に一方的に監督され支配されることへの恐怖にあるのではあるまいか。
そうした名前をつける親たちは,こういうのではないか,「私たちのことに口を出さないで!」「私はこの子の親だよ?」。親であるという資格で,その子(現時点で親の指導を受けるべき存在)に巨大な干渉を行うのである。子の死までも,その名づけによって支配しようというのである。
「それは正義に適うか?」と,反論者たちは主張するのではないか。子供とはいえ,いくらなんでも,成人後は平等な人間として相対すべき存在である。その人生までも親の意向・趣味で規制されてよいものか(だから調停案のパターンとして,成人すれば改名することができるから,というのが出てくるものか)。
ここで「私は親だよ?」の主語同格の述語部分を適宜入れ替えてみよう。
「私は政府だよ?」「私は王だよ?」「私は国民の負託を得た政権党だよ?」「私は社長だよ?」「私は君の上司だよ?」
…いや,分かるよ。当然,あなたたちは私たちを指導すべき責任があり,資格があり,権利があり,任務がある。
だけど,だからといってお前らがなんでもやっていいってわけじゃねえんだよ。
たしかにこちとら,『声なき存在』じゃあるよ。だけどいつまでもどこまでも「そう」でありつづけるわけじゃねぇぞ―と,まあ,そんな具合に人は抵抗への意思を抱きはしないか。
奇妙な名前を我が子につけようとする,小さな権力者たちに対する,これは実は大変身近な権力批判の心情に由来するものではあるまいか。つまり,支配できそうな対象領域を得たところで(嬉々として)その特権を振るおうとする小領主に対する。
そうではなく,我々は―個々の個性は必ず実現されなければならないが―一定程度「公」を意識すべきであるという主張なのではあるまいか。そして「公」は,どの水準でであれ,不当に「個」を抑圧してはならない。
奇矯な名を我が子につけようとする親は,そこで,『私たちの個性を抑圧するな!』と言うのであろう。それはその通り,抑圧されるべきではない。だが『お前の個性の自己満足のために,他者であるはずのお前の子の個性を犠牲にするな!』というのが反論者の心情だろう。
そんなわけで,例の命名に関わる世間のあれこれも,割と大上段に権力批判の文脈に回収することができたりする。日常レベルの微細な権力の横暴を批判しつつ,国家権力の批判,さらには国際的に見てどーよという正義の議論に連結してみたり。
いやあ,30分ほどで考えたにしてはまずまずだ。
マルクス流哲学を教養程度に学んだレベルでも,この程度の分析はできるわけだなあと先達の偉大さを噛みしめてみる。
ところで実際,個性がどうこういうなら,自分の名前を変えてしまえばいいわけである。通名とか使う手もあるな。
私は学者名すら二つ持とうかと思ったことがあるな。仕事領域が二つに亙ってしまって,
「はっはっは。先生,これ,こっちの領域はこの名前でやっちゃいますかね」
「いーんじゃない?」
「はっはっは」
「まあ後のひとが面倒だし」
「まーそーですねー」
「あっはっは」
てなもんですよ。
面倒なんだよ勝手にミドルネーム入れるなよ結婚なんかで二重姓になるのは分かるがなんでいつの間にか二重名前になってんだよ引用するとき面倒なんだよ初版と再版で名前変わったりしてないだろなおい。後のひとのこと考えてよね…(泣)。
そんなわけで私は実名いっこだけで学者やってます。
こんな風に,別の名前を名乗ることができるのは,結構個性的なことだと思います。私はさらに,(一応慣例上)別の領域(になってる領域)に進出して,”そっち”専用の名前をつけ得る機会を持ちました。これは学者仲間でも異例に属することかと思います。
名付けは重要な契機です。自由に名付けてよいというのは,非常に権力欲など,欲望をそそります(私は,領域別に名前をつけたら,二つ以上の人生を生きることができた可能性があります!)。
だからこそ,その権力行使には,慎重であるべきなのです。
支配下に落ちてきた,その「領土」。それは当の権力者の私有物であるかのごとく錯覚されますが,実はそれにとどまらず,「公」のものでもあり,その当の者でもあるのです。
だから私は,一つの名前だけで学者をすることにしました。私の業績は私の私有物にとどまるものではありません。学界全体の共有物です。責任者―仕事の水準を推し量る重要情報は分かりやすく提示しておく必要があります。
だから子の名付けは慎重に行わねばならないのです。一時,「翔」「航」あたりの字が流行った時期があるでしょう,それはなぜか。男の子限定ではあれ,わが子は小さく私的領域にとどまるものではなく,広く世界へ活躍してくれとのものでしょう。「公」へとはばたくべく名付けをしたわけです(はばたくべき領域を限定すれば,たとえば「義」とか「仁」とか入る,より伝統的な名前に寄るでしょうね)。
これが「マイケル」「リリー」「ケント」(の当て字)なら,まあそのまま英語圏なりへ旅立てますが(はばたく領域がわかりますが),最近はどこに旅立とうとしているものやら。
読売新聞 この一言でDQNネームやめました (発言小町)
屋根瓦はよかったな。
はれぞう 俺はどうやらDQNネームらしいwwwwww
そんなこんなで,もし私の分析が正しいところをついていたとしたら,権力へ批判的な目を向ける政治勢力な人々のすべきことは,こうした権力への批判の意思を(小権力者への批判にとどまらせず)統合して大権力者の大権力行使への異論提出へと組織することであろうか。まあ頑張れ私はしらん。
@yunishio yunishio 「キラキラネームを叩くときには意識してないと思うけど、統治者の便宜への無条件な服従、という心理がある。戸籍名なんて生まれた順に一郎とか二郎とか適当に付けておいて、日常生活では自分好みの名前を勝手に称すればいいのである。戸籍名の絶対視がキラキラネーム叩きを生んでいる。」(2011/11/1)
特徴的・奇異な名前を「ほかならぬ戸籍に登録すること」が目的なのなら,「統治者への便宜」すなわち戸籍上個人識別が容易な名前を登録することへの「無条件的服従」となろう。これに対する抵抗として,戸籍名なんぞてきとーに付けといて日常生活では多様に名乗ることが考えられる。
…夫婦同姓の原則がなんで導入されたか,という話ですね。
しかし,キラキラネームの動機は―根源的心理は,統治者への便宜への服従にあろうか? 戸籍名=個人名という原則に従ってはいるが,これは単に権力批判の水準を得ていないだけではあるまいか。
特異な名前を付けたがる心情は,寧ろ,ただ一つその者に生涯固有のアイデンティティの核として,周囲の何者とも異なる=差異を持つものを与えたいとのものではあるまいか。彼らは一様に「普通からの逸脱」を望んでいはしないか,あるいは,「普通からの逸脱」を実行してはいまいか。
彼らは―そうした名前をつける側は,統治者へ便宜提供しようと服従しているのではない。単に結果としてそうなっているかもしれないだけのことだ。
さて,そうした人々を批判する者たちについてはどうか? 戸籍名が,原則として不変である―戸籍名への絶対視があるのはまず疑いない。しかしそれが,そのまま,統治者の便宜に無条件に服従しようという心理に由来するものなのかどうか。
彼らの批判の切り口は,あくまで「個性的」なる概念に関わるだろう。
妙にこだわるところからして,名前が個性の形成の,割と重要な契機であるとの認識はつける側とも共有しているだろう。
さて,我々のこの個性なるもの,これは人生の経歴によって段々に形成されてきた部分が相当あるのであって(年齢が進むにつれ大きくなるものと思われる),それは個々人の選択によるのである。
だから彼らの批判の典型的パターンは,「子供の人生を親がおもちゃにしている!」「この親は,子供を自分の所有物とみなしている!」である。個々に自由に選択し形成してゆくべき個性,そのスタート地点で余りに凄絶な方向に方向づけられてしまいかねないことへの反感,恐れを主張するものだ。
おそれ,恐怖。『もし自分にそれがされたとしたら!』。寧ろ彼ら批判者の心理は,他ならぬ自分(たち)の個性(の形成)が,誰か他の何者かに,その者の資格故に一方的に監督され支配されることへの恐怖にあるのではあるまいか。
そうした名前をつける親たちは,こういうのではないか,「私たちのことに口を出さないで!」「私はこの子の親だよ?」。親であるという資格で,その子(現時点で親の指導を受けるべき存在)に巨大な干渉を行うのである。子の死までも,その名づけによって支配しようというのである。
「それは正義に適うか?」と,反論者たちは主張するのではないか。子供とはいえ,いくらなんでも,成人後は平等な人間として相対すべき存在である。その人生までも親の意向・趣味で規制されてよいものか(だから調停案のパターンとして,成人すれば改名することができるから,というのが出てくるものか)。
ここで「私は親だよ?」の主語同格の述語部分を適宜入れ替えてみよう。
「私は政府だよ?」「私は王だよ?」「私は国民の負託を得た政権党だよ?」「私は社長だよ?」「私は君の上司だよ?」
…いや,分かるよ。当然,あなたたちは私たちを指導すべき責任があり,資格があり,権利があり,任務がある。
だけど,だからといってお前らがなんでもやっていいってわけじゃねえんだよ。
たしかにこちとら,『声なき存在』じゃあるよ。だけどいつまでもどこまでも「そう」でありつづけるわけじゃねぇぞ―と,まあ,そんな具合に人は抵抗への意思を抱きはしないか。
奇妙な名前を我が子につけようとする,小さな権力者たちに対する,これは実は大変身近な権力批判の心情に由来するものではあるまいか。つまり,支配できそうな対象領域を得たところで(嬉々として)その特権を振るおうとする小領主に対する。
そうではなく,我々は―個々の個性は必ず実現されなければならないが―一定程度「公」を意識すべきであるという主張なのではあるまいか。そして「公」は,どの水準でであれ,不当に「個」を抑圧してはならない。
奇矯な名を我が子につけようとする親は,そこで,『私たちの個性を抑圧するな!』と言うのであろう。それはその通り,抑圧されるべきではない。だが『お前の個性の自己満足のために,他者であるはずのお前の子の個性を犠牲にするな!』というのが反論者の心情だろう。
そんなわけで,例の命名に関わる世間のあれこれも,割と大上段に権力批判の文脈に回収することができたりする。日常レベルの微細な権力の横暴を批判しつつ,国家権力の批判,さらには国際的に見てどーよという正義の議論に連結してみたり。
いやあ,30分ほどで考えたにしてはまずまずだ。
マルクス流哲学を教養程度に学んだレベルでも,この程度の分析はできるわけだなあと先達の偉大さを噛みしめてみる。
ところで実際,個性がどうこういうなら,自分の名前を変えてしまえばいいわけである。通名とか使う手もあるな。
私は学者名すら二つ持とうかと思ったことがあるな。仕事領域が二つに亙ってしまって,
「はっはっは。先生,これ,こっちの領域はこの名前でやっちゃいますかね」
「いーんじゃない?」
「はっはっは」
「まあ後のひとが面倒だし」
「まーそーですねー」
「あっはっは」
てなもんですよ。
面倒なんだよ勝手にミドルネーム入れるなよ結婚なんかで二重姓になるのは分かるがなんでいつの間にか二重名前になってんだよ引用するとき面倒なんだよ初版と再版で名前変わったりしてないだろなおい。後のひとのこと考えてよね…(泣)。
そんなわけで私は実名いっこだけで学者やってます。
こんな風に,別の名前を名乗ることができるのは,結構個性的なことだと思います。私はさらに,(一応慣例上)別の領域(になってる領域)に進出して,”そっち”専用の名前をつけ得る機会を持ちました。これは学者仲間でも異例に属することかと思います。
名付けは重要な契機です。自由に名付けてよいというのは,非常に権力欲など,欲望をそそります(私は,領域別に名前をつけたら,二つ以上の人生を生きることができた可能性があります!)。
だからこそ,その権力行使には,慎重であるべきなのです。
支配下に落ちてきた,その「領土」。それは当の権力者の私有物であるかのごとく錯覚されますが,実はそれにとどまらず,「公」のものでもあり,その当の者でもあるのです。
だから私は,一つの名前だけで学者をすることにしました。私の業績は私の私有物にとどまるものではありません。学界全体の共有物です。責任者―仕事の水準を推し量る重要情報は分かりやすく提示しておく必要があります。
だから子の名付けは慎重に行わねばならないのです。一時,「翔」「航」あたりの字が流行った時期があるでしょう,それはなぜか。男の子限定ではあれ,わが子は小さく私的領域にとどまるものではなく,広く世界へ活躍してくれとのものでしょう。「公」へとはばたくべく名付けをしたわけです(はばたくべき領域を限定すれば,たとえば「義」とか「仁」とか入る,より伝統的な名前に寄るでしょうね)。
これが「マイケル」「リリー」「ケント」(の当て字)なら,まあそのまま英語圏なりへ旅立てますが(はばたく領域がわかりますが),最近はどこに旅立とうとしているものやら。
読売新聞 この一言でDQNネームやめました (発言小町)
屋根瓦はよかったな。
はれぞう 俺はどうやらDQNネームらしいwwwwww
そんなこんなで,もし私の分析が正しいところをついていたとしたら,権力へ批判的な目を向ける政治勢力な人々のすべきことは,こうした権力への批判の意思を(小権力者への批判にとどまらせず)統合して大権力者の大権力行使への異論提出へと組織することであろうか。まあ頑張れ私はしらん。
いやー一般的には『うまいこと言ってやろう』っておちゃめ心,遊び心の方がつよいと思います。
「モケケピロピロ」とか名付けても,追随する人がいなければ消えるだけですしねえ。実際には,どんな名前をつけようか,分かりやすい名前を"選ぶ"のが精々かと思います(その中で一番おもしろげな・便利げな選ぶ楽しみ)。
名付けの権力行使自体によって得られる快楽は,その行為によってその対象に名付ける当人の存在を痕跡付けることにある―名付けることによってその運命を方向づけることにあるとかんがえるのが楽かと思います。
他方,学者が何ものかを発見・開発した場合,その発見・開発を実現したこと自体に彼の偉大さが証明されますから。名付けの権利はオマケ程度じゃないですかね。
>マイナー分野だとさらに妙なネーミングがありそうな気がする
マイナーとは言いかねますが,星の名前なんかでお茶目さんがいますよね。
イルカ座の「スアロキン」「ロタネブ」は,名付け親の天文学者が自分の弟子の名前を逆につづってつけたんだってことだそうで。