①ある大先生が「文系博士が生きのこるためには、好きな研究テーマをあとまわしにしてでも、学会でニーズのあるテーマで業績を積め!」とつぶやいているのを読んで、たまらなく悲しい気持ちになった。そんなことをするぐらいなら、最初から研究者なんかならなければいいだけの話はないか(つづく)。
— Koichiro Sukegawa (@Teika27) 2019年4月12日
②(承前)学会でサバイブするために当初の志を捨てて、結果、ポストを得られたとしても、決して幸せな人生とはいえないだろう。まして、そこまでやったからといって百パーセント赤ポスに着けるわけではない・・・(つづく)
— Koichiro Sukegawa (@Teika27) 2019年4月12日
③(承前)大先生の「善意」は疑いないし、その提言は「文系博士が定職を得るための実践的な方法」としてはまちがっていないだけに、いま、文系博士が置かれている闇の深さを改めて思う・・・(この項、終り)
— Koichiro Sukegawa (@Teika27) 2019年4月12日
就職してから好きなことやればいいんだよ、とは私も言われた。
だが、それは、就職後の自由行動の可能性が広がっていればこそ、である。
既に退職して久しいような大先生たちであれば、そうして自分を枉げて就職した後、それなりの研究費が保証された職場でそれなりの自由が展開可能だっただろう。
ところが今は―ということ。「決して幸せな人生とはいえないだろう」というのは、そうまでして職を得ても、そもそもその本来好きだったことをする自由が手にはいる見込みがまあ、なさそうだということによる。
おそらく、ふつうの大先生は、そういう事情を理解できないだろう。「え? 研究費くらい、でるでしょ? そりゃあ少なくはなっただろうけど、我々(文系)がなにかするくらいは―」などというかもしれない。
…うん、まあ、その、そうであってくれるといいですね。
私みたいなのが得られるようなポスト以外の、優秀な人が得たようなポストなら、そういうこともあるんでしょうね―とか、そんな話になりかねない。
いえまあ、いいところはほんとに未だにいいんでしょうけど。
20以上の大学の公募にアプライするというのはそんなに多いかな。
— 中西大輔 (@daihiko) 2019年4月10日
一般的には少ない部類に入る。
ただまあ、えらいこと凄い賞持ちで、ならまあ20程度で決まって然るべきという気はする。30程度で決まれば優秀な部類だろうし。
博士課程で論文2桁書いて学振賞を取ってSPDになったけど実際には助教さんが実験も論文執筆もほぼ全てやっていたって例を身近に見て来たから、博士課取り立てで飛び抜けた業績があるのに採用されないのは業界の闇って言われるのは疑問がある。
— 六方晶は夜を綴らない (@precipitatedPhD) 2019年4月12日
ちなみにその人は新しい所属で未だに論文0人間になってる。
…それはそれでダメな極端な例であり、他の(具体的な)例に類推を及ぼすのはやや難か。
まあその、「えらい」人のために下々が…というのは、実例をもって知っていますが。
「10年くらい査読あり論文や学術書などを出していない文系教授とかたくさんいらっしゃる」の件。”たくさん”はいないと思うけど、まあ一定数はいます。ただ、研究以外の分野でバリュー出してる先生もいるんでなかなか評価は難しいかなと。
— 大賀哲『共生社会の再構築』 (@toru_oga) 2019年4月11日
そういうことである。『文系なんだから、作文してろよー』とかいう扱いを受けたりして、裏方作業を地道にこなして、そっちに新たな専門を見出した人とか、そりゃそれも一定数いるわけだ。
「文系研究者の自死」事件、勿論大変に痛ましい事態であると思うのだけど、クラシック音楽業界も現在同じような状態になっていて、コンクール優勝者でもオケに入れない(ヴァイオリン1人の募集に対して100人応募とかいう事態も)、入れても有期雇用ばかり、という状態になっているんだよな。
— 温風式チェロ弾き (@tonkyo_Vc) 2019年4月10日
一言でいえば、「みんなビンボがわるいんや」だろう。
非常勤でも生活保護でも乞食(こつじき)ででも、金も地位も名声もなくても笑って生きていれば、仏教学が時代を超越して「現代でも役に立つ学問」であることの証しであれたものを、自殺したことで仏教学が「現代では役に立たない学問」であると自ら証明してしまった。 https://t.co/UWVzbCt0vR
— 中田考 (@HASSANKONAKATA) 2019年4月10日
流石にそれは厳しいお言葉ではないかと思うけど,しかしあれだけ仏教のことを勉強なさって,その仏教が最終的には救いにならなかったというのは,多少なりとも真面目に考えるべきことではないかと思う
— ????????? (@suhamma) 2019年4月11日
重いお言葉である。
私の場合は指導教授が突然大学を辞し野に下りアフガニスタンに行くといいラノベ作家になりイスラーム国に行き公安にガサ入れに入られ私塾を経営し食品衛生を管理しtiktokerになって富士山麓に小屋を買ってもらおうとしたり、と、研究だけが人生ではなく人生の選択肢は無限大と教えて頂いた
— 辻ばるへ@店オープンしました (@barhebraeus) 2019年4月10日
参考にならん https://t.co/3u5vKyuXwJ
— Satoshi Ikeuchi 池内恵 (@chutoislam) 2019年4月10日
指導教授がカリフ制を再興するためにアフガニスタンに行き私が途方にくれた出来事は『私はなぜイスラーム教徒になったのか』の学生が語る中田考エピソードに収録済み。 https://t.co/OLcKkEvXkV
— Kayyim (@Saxifragamystic) 2019年4月10日
もうちょっと中道なエピソードないのかイスラーム業界は https://t.co/z4SSvB97GA
— Satoshi Ikeuchi 池内恵 (@chutoislam) 2019年4月10日
中道は仏教のものなんすよ、とか。
なんというか中田先生が独りで一個連隊分用意してんじゃねえのかそれ、という気はせんでもない。
そりゃ中田先生ほど強烈だったら、なんというか…無作為に100人選んで、ストレス掛け捲って自殺に追い込む実験をやったとして、まず確実に最後の一人になるだろアンタ、それも三回繰り返しても三回とも最後まで残るだろアンタ、とか。
ふつうそこまで強烈じゃねえんだ、とは思う。
研究自体より、報酬や地位を求める者はどれだけ業績をあげようと研究者には向いていない https://t.co/a8Fs5cICAh
— 中田考 (@HASSANKONAKATA) 2019年4月10日
大学院に進学する前に少し考えてほしいこと。自分が承認欲求の強い方だとお思いなら、研究の道には行かない方が良いと思う。短期で成果が認められることは少ないし、後輩の院生を見下すもとだし、教員になると学生の無知をあげつらう嫌な奴にしかなれないから
— masanorinaito (@masanorinaito) 2019年4月10日
全くその通り。むしろ自分の研究の意義が分かるほどの人間が世界にそういる筈がない、と心の底から信じられる人間でないと心が折れるか性格が歪む。 https://t.co/gGouacz0Sp
— 中田考 (@HASSANKONAKATA) 2019年4月10日
このへん、ご尤もであるなあと。
わたし、政治的方向性では確実に内藤先生や中田先生と決裂すると確信するが(私は米帝悪逆一元論に反対するが、彼らは私からするとそっちに振れすぎるというわけで)、この辺はご尤もですよねと思う。
世界の迷妄を啓かねばならぬ! わが道こそそれぞ! みたいなノリ。中田先生の情熱は、まあわりとどんびくモノがあるにせよ、基礎的なマインドセットは…うん…。
さて、昔のメモを掘り出したのでここに:
人文をゼロにしろという主張はほぼなくて適切な規模が問題になっているわけだが延々と人文学一般の価値を標榜する一方で肝心の規模問題については最終段落で「学燈を絶やすな」と情緒的な主張をしているだけというあたりまさに人文の宿痾という感じ。 https://t.co/myrss9Iim0
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2016年4月3日
このあたり第一に待遇は需給関係で決まるというどうにもならん話ではあり、第二にだからこそ社会的需要のなくなった分野から原資を吐き出させて有望分野の待遇改善にあてないといかんという話でもあり。 https://t.co/CeQjzAl36j
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2016年3月25日
本当に、そのように同意するところ之れ有り、とも思うのだが。
他方で、有望分野に所属している人がまったく生産的でないのを見ていると、むしろ彼らからポスト奪うのが先決じゃねえ?とも思う。さしあたり、よそさんの財布に手ぇつっこまずに可能な最適化・合理化がなされてないよなあ、という意味では。
まあ、明らかな余剰がありますよね(にこにこ)といわれたら、こっちは辛いのだが。
…うんまあ、余剰?はあるよね、外部研究費たくさんいただけたから、間接経費で取られる分は余剰になるわけでしょうか、その余剰分は合理的にお使いいただけてますでしょうか? とも。
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