今の日本じゃタブーなのかね、ゼネスト。タブーでなくても支持が集まるとも思えないところがまた。
— Masahiro Yamada (@myamadakg) 2017年3月8日
労働者としての連帯の基盤なんて跡形もないね。
— Masahiro Yamada (@myamadakg) 2017年3月8日
もはや労働者黙示録である。
この際、課題は思うに二点。
1) 「労働者としての連帯の基盤」は、存在したというなら、いつまで存在したのか。
実証的研究は必要だろうが(私は専門外なので知らない)、まー常識的に考えて、直近の大事件はリーマンショックだろう。「労組に助けを求めたら、組合員以外はお呼びじゃないんですよーって断られたぁああああっ?!」という、労組からすれば至極当たり前の対応をえらく嘆いた恨み節は割りとあったようだし。
2) 「労働者としての連帯の基盤」が失われたというなら、その「空白」はなにが埋めたのか。
何れにせよ、それはそれなりに我々は労働してないと生きていけてないのである。何らかの連帯をして生きているのである。この世に我々を引き止める、社会に我々を繋ぎとめる絆は、ではこの場合、なんであろうか。
実証的研究は(以下同文)。ただまあ、同様にリーマンショック時代、「ひとり労組」なんてのもはやったものだ。既存の労組ではないユニオンを結成してみたり。そこで満足いかなくて弁護士さんへ駆け込んでみたり。さてそうした場合に、我々労働者は、いかなる”超越者”に守られているとおもえるだろうか―?
…まあ、労働法制の存在や、弁護士さんないしこの制度を支える国の制度、ででもあろうか(たぶん「市民社会」という言い方は嫌われる―「市民」を標榜する既存労組やなんかが、非正規労働者やなんかを排除していったとみなされるので、そんなイメージのかけ渡しから)。となると、この労働者は、いわば右傾化するのだ。彼らはもはや、「市民的連帯」を信じないだろう、「それはお前らの民主主義だ、俺たちのじゃない」とでも言って。
そうして、日常生活からして政治化していくのだ、おそらく。
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