空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

現代美術・発展段階・大衆文化と一部フェミニズム

2019-11-20 14:15:35 | ノート


 この「美しいものを作る・美しいと感じる、という美術の段階は100年前に終わっており」は興味深く、論点を含む。なるほど、美術(の最先端)では「美しいものを作る・美しいと感じる」などという理論水準は100年前に終わったのだろう、これは専門家がいうので、まずは信じてみるとしよう。

 では、それ以降、「美しいものを作る・美しいと感じる、という美術」は存在が許されなくなったのか? 制作を許されなくなったのか? 鑑賞者は当然、悉く次の世代に移行することになったのか、それは必然的に前世代の切捨て・前世代との断絶を意味しなければならないのか? そんな疑問が出てこよう。

 まあ、マンガ・アニメやそこに基盤を持つ・関係するイラストレーション、それらを支持する人々が存在していいか、どの程度自律的に存在するのか・していいのか、という風に言い換えてみればいいだろうか。

 あるいは、例えば米田仁士先生、天野喜孝先生はどのように存在しているのか・存在していいのか、とか。
 通俗的な題材に関わってきた方々であることは明らかで、我々は彼らの作品群を美しいとか、(対象となった小説などの)作品世界を見事にあらわしている、などと評価したはずだ。さて、では、こうした水準は「100年前に終わって」しまったが故に、現代的には米田・天野は評価されていいはずがない、という理屈になるものかどうか?

 つまりまあ、美術専門家がいう100年前に終わった水準というのは、いまや一般民衆にも十分行き渡り、それなりの価値観を維持し、育て、現に展開してもいるだろう、というわけだ。商業的価値についても疑いなし。大衆文化の領域、というわけではあろうが、それがないよりあったほうが大衆は豊かだ。

 では「以降の美術を見るには美術史や美学の素養が必須です」について。うんまあその、いわゆる「現代美術」については特にそうですね、ということは私も理解する。知識人の知的遊戯に堕する危険性と戦いながら普遍をも目指す、微妙な知的領域であろうなあ、というところも理解する。

 でまあ。ここで大衆文化批判と悪魔合体する余地があろうなとか。

「現代は現代美術の時代であり、したがっておよそ美術に関わる作品であれば現代的理論を踏まえているべきであり、諸種の表現は当然に現代美術理論に依拠した、ないし現代美術理論によって解釈・位置づけを得るべきものである」と仮定すれば、ヴァチカンの秘密氏が『宇崎ちゃん~』などなどに吠える根拠が見出されよう。ああいうコミックであれなんであれ、現代に制作されたからには現代の美術の専門家によって批評され、正当と認められなければ現代的な美術として認められえない(時代遅れのものだとか、不適切なものだとか、なんとか)。

 これなら、現代美術の専門家たちが”無教養なひとびと”に苛立つ理由もわかろう。
 しかし恐らく、これは信託された(と仮構された)権限の拡大適用を含むのだ。そこの無自覚を突かれて戸惑っている、というのがtwitterで元気に発言している人々の状況を形成する一要因だろう。『現代の美術シーンについて現代美術の専門家が現代美術の理論を踏まえて発言しているのに!』という、そんな感じ。

 で。そうした現代美術は、哲学領域に属するがゆえ、哲学的概念を導入しもする。フェミニズム理論も当然、一部なりとも入る。

 すると、現代美術は「美術史や美学の素養が必須」であるがゆえ、制作者は当然それを踏まえて制作したに違いない、ということになる。それは当然、専門家が見ればあまりにも明らかに読み取れるのであり―
 ―『宇崎ちゃん~』ポスターは、現代のフェミニズム理論(の一派)によっては許容し得ない表現方法を採るがゆえ、当然、女性差別を意図して制作されたに違いなく、その程度さえ読み取れない低教養なものたちには教育を与えるのが第一の対応となろう。で、twitter上ではそんな対応が散見されたわけだ。

 ところが、また別のフェミニズムの立場からは、胸の大きな女性がなに憚ることなく堂々と公衆の面前に立つこと自体が価値であったりしうる。エロい? そんなもん、知らん。なぜそこらの男の性的な視線如きを恐れて己の姿を隠したり恥じ入ったりする必要がある? よし、神がいるのだとしよう。万物を支配する全知全能の神が。ならば神が私をこのように育て下さったからには、なぜこれを悪いものだといえるのか? そんなひとたちはトップレスで街を練り歩いたりするだろう。

 ―ところが「ツイフェミ」の一部は、性的被害にあった女性に配慮せよ・性的被害を防止せよとの理由で、自派に適合しないフェミニズムの存在を認めないかのごとくだ。それでは思想統制への道を辿ることになろうが。

 そんなこんなで、一部専門家は己の職分を超えたところにまで特権的権威を要求してはいないか、そうした専門家の見解を利用する活動家は理論的制約にあまりにも無自覚ではないか、批判者たちについてもその理論的基盤は危うくないか―などと隣接分野からは、そんなふうに見えるのですが。
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