車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

臥龍(がりゅう)公園と臥龍桜 in 岐阜県高山市一之宮

2020年04月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

旧一宮村のマンホールデザインにも用いられた「臥龍(がりゅう)桜」。樹種はエドヒガン桜。幹の目通り周囲7.3m、枝の差し渡し東西20m、南北30mに達します。一見すると二本に分かれて見えますが、もともとは一本の木だったものが、主幹から伸びた大枝が重みで地に着き、そこに根を張り、今の形になりました。

う~~~~~ん、やっぱり上の絵のように桜色が鮮やかなほうが見応えがありますが・・季節的には望むべくも無いこと、ここは潔く😠、立派な葉桜で。樹齢1,100年を超える国の天然記念物「臥龍桜」。かなり小柄な私と比べるのは如何なものかと思いますが、それでもその雄大さは充分に伝わると思います。

臥龍の桜として名高い桜ですが、もともと飛騨三十三観音札所の一つの「大幢寺(だいとうじ)」の境内にあり、昔より「大幢寺の大桜」として親しまれていました。昭和6~7年の高山線工事中の頃、第二十代『大喝道仙和尚』が、龍が臥した用に見えるという事から「臥龍桜」と命名したといいます。

まさに、龍が臥せたように幹を伸ばす見事な樹形。元禄年間(1680)、全国を行脚した旅の僧『円空』は、この桜を見て次のような歌を残しました。

【 一の宮  神の御舟ははるはると  花の盛りも 長くさくらん 】

古来より人々に愛されてきた「一宮の臥龍桜」でしたが、昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により、大きな枝が4本折れたり幹が避けるなどの瀕死の重傷を負いました。その後3年の歳月をかけて樹木の外科手術が施され、支柱を立てて枝を支えるなどの保護処置を実施。そうした人々の努力が報われ、「臥龍桜」は再びその美しい姿を蘇らせたのです。1989年には周辺の整備がなされ、「臥龍公園」として多くの観光客の目を楽しませています。

公園の一画に祀られていた「三木祖霊社」。傍らに旧宮村文化財の碑。「山下城の城主で大幢寺中興の開基でもあった『三木三澤』は、天正13年(1585)8月、『金森長近』と戦って討死しました。大幢寺では彼の霊を弔うため大桜の下に葬り墓(五輪塔)を建立。その後、弘化4年(1847)に『祖胆和尚』は子孫である『三木七郎右衛門』と共に、傍らに祖霊社を建立。昭和34年九月の台風によって大きな被害を受けたため、公園内の現在地に移築されました。」宮村文化財一覧より

公園の外、一宮駅の歩道橋を降りて直ぐに石塔などが建立された一画。「観退と六地蔵」と題された案内板には、「万霊塔」の脇に屹立する念仏石塔と六地蔵(現在は四地蔵)は『山梨浄心』がその居宅の前に建立したものである事。また「万霊塔」は大原騒動犠牲者の霊を弔う為に建立したものである旨が記されています。

飛騨一ノ宮駅から徒歩1分という立地ゆえに、電車の発着を間近に見られるのは、いわゆる「オタ」でなくとも、ついつい聞こえてくる音が気になる物😅。白い車体がゆっくりと動き出す瞬間を写真に収める事ができて、妙に得した気分です。

旧清見村では「カワセミ」が、旧朝日村では「スズラン」が街灯になっていましたが、ここ一宮では「臥龍桜」が街灯にデザインされています。「淡墨桜」、「荘川桜」と並んで岐阜の三大巨桜として知られる「臥龍桜」。本音を言えば、一度で良いので満開のその姿を見たいものです。

訪問日:2012年5月17日


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