下関市長府宮の内に鎮座される「忌宮神社(いみのみやじんじゃ)」。長門二宮・旧国幣社。御祭神は本殿 第一殿に『仲哀天皇』、第二殿に『神功皇后』、第三殿に『応神天皇』
由緒「第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の為、中殿忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味。現社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修。古来、文武の神として歴朝の尊崇篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。」境内案内より
鳥を潜った先、石段参道正面・四脚門の神門は、大正15年(1926)、石炭財閥の『貝島太市氏』によって奉献。
神門前左右より神域を守護されるのは寛政七年(1795)8月建立の狛犬さん一対。ストレートのタテガミに程よい大きさの口、つぶらな瞳に羨ましいほどの小顔、小顔だけど下膨れ😄
神門の先に、入母屋妻入りの拝殿
拝殿向かって左に「若宮社」。御祭神は『仁徳天皇』
拝殿向かって右に「高良社」。御祭神は『地主大神(とこぬしのおおかみ)・武内宿祢(たけのうちすくね)』
境内右手に鎮座される「荒熊稲荷神社」、御祭神は『宇迦之御魂神・宗像三女神』。文化・文政年間、長府藩主毛利元義公が京都伏見稲荷より御分霊を勧請。嘉永元年に現在地に遷して社殿を再建。
「八坂神社」。神社合祀のため御祭神は『素戔男尊をはじめ42柱』
鳥居の先、玉垣の内より神域を守護されるのは、嘉永五年(1852)2月吉日建立の狛犬さん一対。びっくりしたような目に小さな鼻、耳近くまでの大きな口。吽形さんには目立たない程度の角があり、阿形さんは背中に尾っぽをしょっています。
拝殿・本殿は、野久留米地区にあった塩釜神社を移築。
拝殿前より神域を守護されるのは出雲構えの狛犬さん一対。高く上げた腰のあたりに亀裂が見られますが、まだまだ現役。不敵な笑みを浮かべて、合祀された多くの神々を守護されています。
「さか松」。神功皇后が新羅ご征討に際し、小松を逆さまに植え「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられています。明治初年に火災に巻き込まれ後に枯死、根幹が玉垣の内に保存されています。
神門前に設けられた囲いは、豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将「塵輪(じんりん)」を射倒しその首を埋めたとされる場所。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれています。毎年夏の夜にはこの「鬼石」を中心にして、神功皇后の出陣、凱旋に由来する天下の奇祭「数方庭祭(すほうていさい)」が行われます。余談ですがここに登場する「塵輪(じんりん)」。出雲、広島神楽の代表作の一つとして人気の演目です。
「蚕種渡来の地」記念碑。三代実録に、約1,800年の昔、仲哀天皇の御代に秦の始皇11代の孫:功満王(こうまんおう)が渡来し、蚕の卵を奉献したとされ、ここから日本の養蚕が始まったと伝えられています。
『魁傑將晃(かいけつまさてる)』が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、荒熊稲荷神社脇に「相撲資料館」を併設。魁傑や大乃国康の化粧まわし、優勝杯、大銀杏などが展示されています。
宿禰手植えの銀杏と伝えられる古木・・は画像に残せませんでしたが、「宿祢の銀杏」を購入。
この日は「 長府時代まつり」という事で、境内には時代装束に身を包んだ方や、関係者の方がたくさん。衣冠束帯の方、カメラの前で気持ちよくポーズをとって下さいました。
参拝日:2017年12月3日
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御神名一口メモ
『仲哀天皇』、日本書紀では足仲彦天皇。日本武尊の子で神功皇后の夫。
『地主大神(とこぬしのおおかみ)』、大地を司る神。土地の災禍を防ぐ神。
長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」とも表記。「日本書紀」に、大化6年(650)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上の記載有り。 穴門とは海峡(関門海峡)を指し、日本神話にも「穴戸神」の名がある。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置。7世紀後半に長門国に改称。
こんばんは!!
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)」
名前がまるで、早口言葉見たいですねぇ。
3回言うとカミカミになります😭😭
今回の狛犬も、相当古いですね。
230年くらい前の狛犬なんですね😚😚😚
でも早口言葉・・・の発想は無かったです😅
山口県も歴史の古い土地ですから
狛犬さんも随分と長寿ですよ。