太子町山田に鎮座される「科長(しなが)神社」。式内社で旧社格は小社。御祭神は『級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長津姫命(しなつひめのみこと)』。
「由緒は不詳。元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していた。暦仁元年(1238)に現在地に遷座した。現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝える。江戸時代までは「八社大明神」と称していた。」御朱印の社名は元録15年(1702)に『藤原頼孝卿』によって揮毫された鳥居額の文字を写したもので「八社大明神」とあります。
案内によれば、この地は『神功皇后』誕生の地という伝承もあり、社宝には『神功皇后』が使用したと伝える、雛形の小さな兜もあるそうです。本瓦葺平入入母屋造・千鳥破風の付いた拝殿。その奥に続く三間社流造の本殿は残念ながらここからでは拝見できません。
拝殿前左右より神域を守護されるのは浪花型と位置付けるにはかなり異質な感じの狛犬さん一対。首の長い狛犬さんと言うのは、とても珍しい気がします
今でも不思議なのですが、もしかして拝殿から回り込めば本殿を見る事が出来たのでは? それとも行けない理由があったのだろうか?・・考えても思い出せません。多分後者のような気もします。
拝殿千鳥破風の左右に施された一対の龍。青銅で作られたのではないかと思われる色合いですが真偽は不明。
留め蓋瓦には唐獅子に牡丹。何とも豪快に飛び跳ねています。
軒丸瓦の御神紋はかなり珍しい「五瓜(ごか)に唐花」。木瓜(もっこう)紋は、その昔、御簾(みす)の上部につく絹織物の「帽額(もこう)」にあしらわれた文様であった事から、帽額にちなんで木瓜と呼ばれています。
画像が鮮明でないので分かり難いかもですが、迫力満点の龍ものたうっています(⌒∇⌒)
境内入ってすぐの左手に鎮座される「金平大明神」。御祭神は『稲荷神』
社伝前左右より神域を守護されるのは、耳の大きな神狐さん一対。いつの建立なのか確認し忘れましたが、それぞれに巻物と玉を口に、とても個性的で良い表情をされています。
科長神社一帯はかつて『蘇我倉山田石川麻呂』の発祥の地であり、社頭には『小野妹子』の墳墓があります。聖徳太子のお使いで「日出処の天子より」の書状を隋国に持って行った人物 (^▽^)/。 文言に諸説はありますが、私は、私流に解釈した「日出処天子・・」の意味が大好きです(笑)
そんなこんなで是非とも行かなければ!と・・石段を登りかけたのですが、上を見あげた瞬間、回れ右(笑)。後の痛みを考えると・・仕方ない(^^;)
参拝日:2015年10月9日
頼山陽の漢詩で、神功皇后や小野妹子、聖徳太子が語られていますので、興味をそそられます。
田中英道氏は貴方のように、各地の神社仏閣を調査し、独特の歴史観を主張している保守系の学者です。もしかすると、ご存知かもしれませんが、氏は机上の空論でなく足で歩いて日本史を確かめ、反日左翼の学者と戦っています。
太子町も一度行きたいところになりましたが、難しい年齢のため、貴方のブログでお参りさせていただいています。
昔、ネットで知り合った方がその会に名を連ねていて、お名前を聞いた記憶があります。
さらに古代日本で活躍した「秦氏はユダヤ人である」との説を唱えられた歴史家だという事。
2014年に千葉県の芝山遺跡を訪ねた折「帽子をかぶった男」の埴輪を見て興味をそそられ
後日検索した折に「田中英道氏」の名前がヒットしました。
その程度しか存じ上げないのですが、
その埴輪からの推論だと聞いた記憶があります。
中国系の渡来人として定着している秦氏がユダヤ人であると言う学説
非常に興味をそそられました。
改めて思い出させて頂き、感謝です。