奈良市薬師堂町に鎮座される「御霊(ごりょう)神社」。御祭神は『井上皇后(いのえこうごう)、他戸皇太子(おさべおうじ)』。本殿東側社殿に『早良親王、藤原大夫人、藤原廣嗣』、西側社伝に『伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿』。
由緒「当神社は延暦19年(800)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社です。~薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行した為、母子の祟りと恐れた天皇は墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊されました。 奈良時代、平安時代の人々は無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。しかしその怨霊を丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました。これが御霊信仰の始まりです。」公式HPより
朱の鳥居の左右より神域を守護されるのは、ユニークさではおそらく群を抜く狛犬さん一対。不思議な近視感は、おそらく昔我が家に居たパグ犬の「だいなごん君」に似ている所為かも(笑)
楼門には皇室を表す「十六菊紋」。拝殿には「五七桐紋」がそれぞれに格式の高さを物語っています。
末社:「出世稲荷神社」。「天正15年、豊臣秀吉公が聚楽第の造営に際し、邸内に稲荷神社を勧請。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷神社に参拝した時に立身出世を遂げた秀吉公に因で「出世」の称号を授けたと言われる。昭和27年に御分霊を頂きお祀りする。」公式HPより
------------------------00----------------------
『井上皇后(いのえこうごう)』、宝亀3年(772)3月、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月には息子『他戸親王(おさべしんのう)』も皇太子を廃された。翌 宝亀4年(773年)10月、『難波内親王(光仁天皇の同母姉)』への呪詛・殺害の嫌疑が掛かり『他戸親王』と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉。同6年(775年)4月、幽閉先で他戸親王と共に薨去。
『早良親王 追諡:崇道天皇(すどうてんのう)』、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、自ら絶食して没す。
『藤原 吉子 尊称:藤原大夫人』『伊予親王』、『桓武天皇』の夫人と、『桓武天皇』の第3皇子。大同2年(807)、謀反の嫌疑をかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉。飲食を絶たれ、母子ともに自害。
『藤原廣嗣』、親族への誹謗を理由に天平10年(738)12月に大宰少弐に左遷。兵力を率いて反乱を起こし、捕らえられた後、処刑。
『橘逸勢(たちばなのはやなり)』、謀反の疑いをかけられ、姓を「非人」と改められた上で伊豆国へ流罪となり、護送途中に遠江国板築駅で病没。
『文屋宮田麿』、新羅との貿易トラブルに関わり、謀反の嫌疑をかけられ伊豆国へ流罪となる。
まぁ・・・こうして列挙してみると、祟りの規模も半端ではなかっただろうと推測されます。後に神として祀る心理の裏には「もしかしたら無実かも」「実は濡れ衣だ」「政争の具となって陥れられた」等々・・があったのだろうと思います。
「怨霊(おんりょう)」を祀り、神と奉る事で「御霊(おんりょう)」とする。それもまた言霊が持つ神秘の力かもしれません。
参拝日:2005年10月1日
「御霊神社」、初耳です。
タイトルのその名前にウキウキして読み進めたら、
おおう・・・😅
すごく、血生臭い来歴だった😓
でも写真で見ると、とても凛として
明るい雰囲気ですね😄
長きにわたって丁寧に祀られたことで
御霊の方々もご満足されたのでしょうか。
>「怨霊(おんりょう)」を祀り、神と奉る事で「御霊(おんりょう)」とする。それもまた言霊が持つ神秘の力かもしれません。
tibinekoさん、カッコいいこと
おっしゃいますね〜👏😊
政治の場での上っ面な言葉尻のあげつらいや、
名称変更などはうんざりですが、
信念をもって綺麗に言葉を使いたいものだ、と
tibinekoさんのこの文に、改めて思いました🙏
この神社の凛とした霊気が、
今宵のtibinekoさんと旦那さまを、また清めてくださいますように😊🙏
京都や奈良には意外と多いですよ
と・・書いていて
そう言えばかっての都は京都・奈良に難波・近江・・
確かに関西に多いのも当たり前と
自分で改めて納得しました(^^;)