「統一された町家と水利施設が一体となって歴史的風致を伝えている」として、国の伝統的建造物保存地区の選定を受けた歴史風致地区「城下町:郡上八幡地区」。
郡上八幡城を下った先に、浄土真宗大谷派寺院「光耀山:長敬寺(ちょうきょうじ)」があります。慶長6年(1601)、八幡城主『遠藤慶隆(よしたか)』は「古今伝授(こきんでんじゅ)」の祖といわれる『東常縁(とうつねより)』の玄孫『正勧坊正欽』が、飛騨高山の「照蓮寺」にいると聞き、これを招いて「長敬寺」を創建、自らの菩提寺としました。
「長敬寺」の塀に沿って作られた「御用用水」と呼ばれる水路。寛文年間(1660年頃)に城下町の整備をすすめた「城主:遠藤常友」が、防火の目的のため四年の歳月をかけて築造したものです。
この町並みの特徴のひとつに、隣家との間に設けられた「袖壁」があります。「袖壁」は屋根の軒出しを支えるとともに、密接した家々の防犯や延焼を防ぐために設けられました。
家々が密集する郡上八幡の城下。かって2度の大火に見舞われた郡上八幡は火事にはとても神経質でした。 今でも家々の軒先に下がる消化用バケツはいわばその伝統のなごりともいえます。
国文学者として知られる『折口信夫(釈迢空)』は、大正8年(1919)の夏の終わりに郡上八幡を訪れましたが、直前に起きた北町大火により町の半分が焦土と化していました。その災事を詠んだ「釈迢空の歌碑」が新橋のたもとに建立されています。書は『釈迢空』自身によるもので、この新橋のたもとが大火の最後の鎮火地点だったそうです。
【焼け原の まち(町)の最中(もなか)を行く水の せゝらぎ澄みて 秋近づけり】
町歩きで目に付くのが、「水舟」と呼ばれる郡上八幡特有の水利用のシステム。観光用の「水舟」は、旧庁舎記念館の前を始め、町歩きの様々な場所で見る事ができます。
「水舟」とは、湧水や山水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽の名称で、最初の水槽は飲用や食べ物を洗うため。次の水槽は汚れた食器などの洗浄に使い、そのまま下の池に流します。流れ水の中に残った食べかすは、池で飼われている鯉や魚のエサとなり、水は自然に浄化されて川に流れこむ、この上なく自然に優しいしくみになっています。
郡上八幡の湧水として最も有名なのが、宮ヶ瀬橋近くに湧き出る「宗祇水(別名白雲水)」。江戸時代には、郡上藩主『金森頼錦』や『遠藤常友』等らによって泉の保存が図られ、また近代においては、環境省が選定した「日本名水百選」の第1号にも指定されました。
文明3年(1471)、連歌の宗匠『飯尾宗祇』が、郡上の領主『東常縁』から「古今伝授(古今和歌集を教える)」を受けて京へ戻る際に歌を詠み交わしたと言う、澄んだ泉のほとり。
【もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野 思ひ忘るな 常縁】【三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に 湧き出づるかな 宗祇】
水の町・郡上八幡の中で、しっとりと落ち着いた佇まいを見せているのが、「やなか水のこみち」と呼ばれる路地。
路地全体に敷き詰められた玉石の数は、町の名前に因んだ八万個の長良川と吉田川の自然石。
玉石の通路にさり気なく置かれたモニュメント、最初はマンホールかと思って小躍りしたのですが、流石にそれは無かったようです。
玉石の道沿いに流れる水路、さやかな風の気配にも敏感に応える柳の並木、立ち並ぶ家屋敷はどっしりと落ち着いた佇まいを見せ、訪れた旅人を心地よく迎えてくれます。
訪問日:2012年5月20日&2018年10月13日
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