松江城山二の丸上の壇、松江神社の隣地に松江市が「松江工芸陳列所」の名目で建設した洋風建築「興雲閣」。 擬洋風建築最後の例とされる壮麗な館の建設費用は、当時の金額で1万3489円(約:1億4千万)。
明治天皇行幸時の御宿所として明治36年(1903)に建設されましたが、日露戦争の勃発により、当初の目的であった行幸は行われず・・それから4年後の明治40年、当時の皇太子『嘉仁親王(後の大正天皇)』の行啓が実現し、当館が宿泊施設となりました。
地上2 階建、入母屋瓦屋根に車寄せのある玄関ポーチ。その上部に掛けられた「興雲閣」の扁額は、『松平直亮(なおあき)』氏の揮毫を彫刻したもの。
当時、ロシア宮殿風といわれた建物には、その随所に華麗な彫刻や装飾が施されています。白く塗られた車寄せの天井は確かに洋風ですが、それでもさりげなく取り入れられた和風格天井の意匠。明治の黎明期に日本人の手によって作り上げた擬洋風建築、そんな職人の粋も魅力の一つ。
玄関を入って正面の階段から踊り場へ、三連の窓から差し込む光はそのまま夢の世界への招待券。 昔見た洋画のワンシーンの中に、こんな踊り場に立って客を迎える美しいヒロインがいたっけ・・
一階から見上げる大広間正面。中央に衣冠束帯の肖像画は『松平直政』公の肖像画でしょうか?記録に残していないので不明。
ポーチ上にある応接室兼拝謁所。『嘉仁親王』は、この部屋で行啓を喜ぶ人たちを迎えたのでしょう。 山陰の5月は日差しも暖かく緩やかで、病弱であった皇太子には過ごしやすかったのではと思います。
ベランダに出れば、コロネードの廻廊が更に想像力をかき立て、話しかける言葉も上品に(笑) まぁ、基本的に単純なので、こういったシチュエーションに出会うと妄想が膨らむのです。
行啓所として建てられた「興雲閣」ですが、昭和に入り戦時色が濃くなると松江地方海軍人事部庁舎、大日本防空協会島根県支部庁舎とし使われることになります。終戦後の混乱で島根県庁が焼けた後は県庁仮分室に、その後、松江市教育委員会事務局庁舎などに転用され、昭和44年(1969)に島根県指定有形文化財に指定。
昭和48年(1973)から2011年まで「松江郷土館」として、松江に関する歴史民俗資料や工芸品などを展示。 その後、2013年から2年間の保存修理工事を経て、2015年10月から一般公開が開始されました。私たちが訪れたのは2011年の5月ですから、紹介した画像は保存修理前の建物ということになります。
市のHPには2011年3月に閉館と有りますが、私たちが訪問したのは5月半ば過ぎ。館内には様々な歴史民俗資料も展示されていたし、普通に係りの方が受付をしてくださり、記念写真のシャッターまで押してくれました。今でも謎のままですが、でもきっと幸運に恵まれたのだという事だけは分かります。頂いた素敵な一時に心から感謝します。
訪問日:2011年5月19日
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