ついつい何度も足を運んでしまう地域と言うのがありますが、この岐阜県もその一つ。2010年、2011年、2012年、2017年、2018年・・振り返って確認すると、自分でも可笑しいくらい、折につけて旅先に選んでいたようです。
さて、この地は滋賀県と岐阜県との県境。中央にある小さな溝、それが中仙道:美濃と近江の国境となっています。
溝の横には「近江美濃両国境」と書かれた標柱が建ち、根元には「初代標柱基礎石」があります。溝の左側が岐阜県、右側が滋賀県。岐阜県側には「寝物語」に関係する碑もありますが、読めません。代りに滋賀県側に「寝物語の里」の碑と説明。
「その昔、奥州に落ち延びた源義経を追っていた静御前は、旅の道中で長久寺の近江側に宿をとりました。隣の美濃側の宿には義経の家来の源造が泊まっており、それに気づいた静御前が「義経に会うために、奥州まで連れて行ってくれ」と源造に懇願した、というやり取りがあったそうです。両国の宿に泊まる旅人が、寝ながらこの話をしていたことから、「寝物語の里」して今もなお語り継がれています。」
某所で見かけた「広重:木曽海道六拾九次之内・今須」にも「寝物語の里」が描かれています。
そこから数百メートル先に、「奥のほそみち 芭蕉道」と書かれた、いくつかの碑。奥にある大きめの碑には「おくのほそ道」と題し、細かい文字がびっしり刻まれています。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」という序文で始まる、馴染み深い文章。文中と〆には【 行春や 鳥啼き魚の 目に泪 】【 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ 】の句。
手前に自然石に刻まれた芭蕉句碑、横に解説と「野ざらし芭蕉道」と句が刻まれた碑。句は、貞享元年(1684)十二月 芭蕉が郷里で越年の為、熱田よりの帰路、今須を過ぎるときに吟じたもの。
【 正月も 美濃と近江や 閏月 】【 年暮れぬ 笠きて草鞋(わらじ) はきながら 】
国境から今須宿方面へ向かい、中山道から少し外れた場所に「車返しの坂」。坂の由来は特記するほどでもなく😅、途中に石碑と頂上に「車返地蔵尊」が安置されています。
今須宿は、中山道美濃十六宿の最西端にあった宿場ですが、当時の面影はあまり残っていません。わずかに今須宿の西端に、文化5年(1808)に京都の問屋・河地屋が奉納した常夜灯が残されています。
「脇本陣・本陣」が建っていた痕跡は、今須生活改善センターの前に立つ碑だけ、流石にこれは・・・😓
日本橋から114番目の「今須一里塚」。往時の一里塚は国道工事で削られた為、改めて復元したものです。
中仙道を更に登り、山間の小さな集落に入ると「常磐御前の墓」と書かれた案内があります。小さな公園の一画、一段高く作られた場所に、ささやかな宝篋印塔と五輪塔が並び建っています。 向かって左が『常磐御前』の墓と伝えられており、木曽路名所図会にもこの墓が掲載されています。『常盤御前』といえば義経の母として有名ですが、その生涯は数奇で謎の多い人物だったようです。
「常磐御前の墓」の傍らに『芭蕉』の句碑。【義ともの 心に似たり 秋の風】 裏面に春香園の句【げに風の 音も澄みけり 秋の松】
芭蕉の句碑の横『化月坊』の句碑【その幹に 牛も隠れて さくらかな】
案内板に書かれていたから紹介できますが、そうでなければ絶対に読めません。
奈良時代に設置された不破関の発掘資料などが展示されている「不破関資料館」。中々興味深くはありますが、芭蕉の句碑探しに手間取ってしまったので外観だけ。
本当なら不破関跡まで行きたかったのですが、徒歩でと言うことなのでここもパス。と言っても、見たかったのは芭蕉の句碑(秋風や 藪も畠も 不破関)だけなんだけどね😄。
訪問日:2018年10月19日
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