会津若松市追手町、会津若松市のシンボル的存在として観光案内などの冊子には必ずと言ってよいほど登場する「鶴ヶ城」、別名「会津若松城」。内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。
戊辰戦争の舞台となり一か月に及ぶ籠城にも持ちこたえた鶴ヶ城は、明治2年に会津藩に代わって発足した若松県の県庁となり、城の管理も県に委任されました。明治6年の廃城令により鶴ヶ城は存城処分となりましたが、若松県権令『沢簡徳』の取り壊し建言を受け、明治7年(1874)に天守をはじめとする建造物はすべて解体、石垣と堀だけが残されました。
城址の堀越しに見る「廊下橋」
城址へと至る真っ直ぐの道。
廊下橋の壁面に築かれている石垣は会津若松城で一番高い高石垣で、高さは20mもあり、上に行くに従って急こう配になっています。打ち込みハギの高石垣は加藤氏の時代に造られたものですが、長い年月を経てもその堅牢さは健在です。
「鶴ヶ城公園功労者 旧会津藩士:遠藤 敬止」碑。白虎隊士:遠藤 嘉竜二の兄。城跡を一括して保存するため、私財2,500円で払い下げを受け、旧藩主松平家に寄付しました。昭和2年(1972)に松平家から若松市へ譲り渡された鶴ヶ城跡は、城下町会津若松市のシンボルとして、市民を初め会津の人々の誇りとなっています。
「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」
城址に残された数々の碑・像、実際にはもっとあったのかもしれませんが、ここでは私たちが実際に見てきた碑を紹介します。まずは「司馬遼太郎文学碑」から・・・「容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。「君臣、相擁し、声を放って哭(な)けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録 は語っている-「王城の護衛者」より」。また裏面には、司馬遼太郎が会津に思いを寄せ、賊軍とされた「会津」の立場を後世の人々に改めて問い直した事の形跡を後世に残す為、文学碑を建てたという趣意が記されています。
仙台出身の詩人「土井晩翠先生」像。
【♪春高楼の~花の宴~・・~昔の光~今いずこ】。会津若松の鶴ヶ城をイメージして作詞したという「荒城の月」。存城処分となった鶴ヶ城はその後取り壊され城址のみが残されました。彼の詩は石垣のみとなった鶴ヶ城に捧げる鎮魂歌にも思えてきます。
「会津嶺(ね)に 葵のきずな重ねつゝ 万葉の庭に 花ほころびぬ」詠み人知らず
「山本八重・像」戊辰戦争に敗北し、鶴ヶ城を開城することになった真夜中の12時ごろ、八重は三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りにかんざしで心情を刻みます。
【 明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月かげ 】
万葉歌碑【 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね 】「秩父宮妃勢津子殿下御筆」。
万葉歌碑の左右に「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」
「秋月悌次郎詩碑」-行くに輿無く 帰るに家無し 國破れて 孤城雀鴉乱る・・・会津藩が降伏した後、秋月は僧侶に変装し、旧知の長州藩士奥平謙輔に藩の寛容な処分を訴えます。その帰途、束松峠に立ち、憂う気持ちを「北越潜行」の七言絶句に残しました。
参拝日:2015年6月29日