昨日に続いての「会津鶴ヶ城址」。目一杯後ろに下がって全体を写してみましたが、石垣の上に聳えていない(ように見える)天守閣って、陸に上がったカッパみたい。 6月の青空・・と言うには雲が多すぎますが、この白さなら、間違っても雨になる事は無い筈。
行ったり来たり、お城の周りをこれだけウロウロしていれば、言わずとも「観光客」とわかるようで😅 武者姿の方からお声をかけて頂き、教えて頂いたポーズで記念写真📷 幾つになってもこういうのって単純に嬉しいものです。
広大な鶴ヶ城城址、せっせと歩いているつもりですが、振り返ってみれば、あれもこれもと見逃した場所が出てきます。まぁ、前もってリストがあったわけではないので、これはもう想定内と言う事で。昨日に続いての碑巡り諸々は、会津の民踊を全国的に普及させることに尽力した先駆者。「山ノ内磐水翁 顕彰碑」。生誕120年を記念しての建立です。
「会津磐梯宝の山で 笹に黄金がなり下がる」、耳になじむこのフレーズ??と思ったのも道理。「玄如節」は、民踊「会津磐梯山」の原点となった歌。
当時の市長『横山武氏』の口癖であった「会津人の魂は天守閣だ」「会津が生き残るには観光しかない」。戊辰戦争の後に取り壊され、石垣や堀が史跡として残された城址。そこに天守閣を!その再建は決して容易な事ではありませんでした。賛成、反対・・種々の思惑と人々の想いを受けて、昭和40年(1965)9月17日、鶴ヶ城の天守閣は再建されました。横山武氏の胸像と共に、その経緯が碑に刻まれています。
外観復元された鶴ヶ城天守を背景に。
「伝·上杉謙信公仮廟所跡地」近くに鎮座される「笠間稲荷神社」。御祭神は赤い幟旗に書かれた『正一位笠間稲荷大明神』。
明治時代に笠間市の笠間稲荷神社から御霊を勧請したとあります。城址に二つの稲荷社が鎮座されるのは珍しい気もしますが、どうなんでしょう?
拝殿前の左右には、編み笠とほっかむりで仔狐さんを前足に縋らせる神狐さん。巻物を口に、宝珠に手を置く神狐さんの一対。仔狐さんは、頭からすっぽり赤い布にくるまれて「おくるみ」状態😅
さらに編み笠とほっかむりで米俵に手を置く神狐さん。仔狛を手元で遊ばせる神狐さんの一対。それにしても写真がこれだけという理由が今もって不明。・・よほど急く理由がこの時あったのでしょうか??
「旧会津中学校跡 (私立日新館)」、戊辰の役にて藩校:日新館も消滅。明治12年に初めて開校した福島県二番中学校は翌年に廃止され、明治17年に地方税支弁によって設立された若松中学校も明治19年の「一県一校の定め」により再度廃校。明治23年(1890)、会津復興には教育が不可欠であると、旧藩士たちが困窮にあえぎながらも浄財を出し合い、私立会津中学を開校しました。
復元天守も素敵ですが、やっぱりお濠に影を落とす城址が好みかな😊
「桜ヶ馬場跡」。「一カ月に及んだ籠城戦ののち鶴ヶ城は開城。慶応四年(1868)九月二十二日と二十三日、ここ桜ヶ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代送りとなりました。この時、山本八重は男装し、弟の山本三郎と称して人員検査を通過したのでした。八重の弟の三郎は、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け亡くなっていました。」現地案内より
まちなか周遊バスのバス停に向かう途中に飛び込んできた煉瓦造りの建物は、「會津葵シルクロード文明館」。地元産の慶山石、磐梯石、湊町赤井にあった民家の太い梁や古材、そして耐火レンガ3万個などを再生再利用し1992年4月にオープン。
城址からさほど遠くない会津若松市東栄町にある「会津酒造歴史館」。どれも後ろ髪引かれますが・・時間が足りません。
「会津鶴ヶ城址」散策を終え、次なる目的地「東山温泉」に向かいます。
訪問日:2015年6月29日