益田市七尾町、標高約120メートルの七尾山に築かれた「七尾城」。別名「益田七尾城、益田城」とも呼ばれた山城。『益田兼高』が建久4年(1193)に築城したと伝えられ、標高約118mの山頂の本丸跡からは、眼下に益田平野から日本海までを一望する事ができるそうです。でも、二人とも年季の入った根性無しなので、石段上の「国史跡:七尾城址」の幟を見て回れ右(-_-;)
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた『毛利輝元』は、周防国・長門国の2ヶ国へ減封。その折、『益田元祥』も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となりました。遺構として残された七尾城の大手門は、益田市染羽町にある「医光寺」に移築。その後、竹田の番匠によって屋根を黄檗(おうばく)宗寺院の山門にみられる竜宮造に改造。昭和36年「医光寺総門」は、島根県有形文化財に指定されています。
文明年間(1469~1487)画聖:雪舟が、第五世住職として万福寺から移った際に、山崖をそのまま活かして名園を築きました。現在の庭は享保14年(1729)の大火後再建されたもので、池泉観賞半回遊式庭園といわれ、雪舟庭園として国史跡および名勝に指定されています。
中門(市兵衛門)。享保14年(1729)の大火後、中門だけが30年経っても再建出来ませんでした。その時、寺僕の市兵衛は自ら再建を申し出、あらゆる節約・努力の果てに、安永年間(1772年~1781年)に中門の再建を果たしました。
中門:貫の彫刻は獅子と象
屋根を支えているのは力神?それとも、この中門再建の為に、一合の米を三合にのばして腹を満たし、爪に火を点すような節約を続けたと云う「市兵衛」さん?? 私としてはそれも有ではないかと思えてしまう。
中門を入ってすぐ、境内に奉られる「市兵衛地蔵」。その前には市兵衛さんが使ったという臼が、裏返しに埋められています。
鐘楼
境内の一画に設けられた「雪舟灰塚」。晩年、山寺東光寺に入山し、本尊観世音菩薩の下で禅の修業を兼ねて画の制作に励んでいた雪舟。やがて永正三年(1506)87歳(あるいは文亀二年(1502)83歳)、この地で生涯を終えました。東光寺で亡くなった雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)に運ばれ、そこで火葬にふされ雪舟灰塚を建てたと伝えられます。
近くに立ち並ぶ仏塔群
参拝日:2012年11月10日
明日は年代超えて訊ねた雪舟終焉の地「東光寺跡」の紹介です。
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