tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

時間は主観的なものか? 客観的なものか?

2023年11月25日 10時12分40秒 | 文化社会
今日は土曜日です。もう大分前のことですが、矢張り土曜日に「時間と宗教」というテーマで書いています。

土曜日は、あまり世俗の現実については書きたくないような気がすることもあって、あの時は何となく「時間と宗教」の関係を考えてみようと思ったのです。

それなりに納得できる結論になったような気がしています。
時間について広汎な研究体制をお持ちの大阪大学の北澤茂教授によれば、人間の大脳の頭頂葉内側面の後方に位置する脳回の「楔前部(けつぜんぶ)」という所が、経験した事を文字通り時系列に脳に記憶させる仕分けを司る所だということです。

ここは認知症の原因になるアミロイドβが溜り易い所で、それが溜ると時間感覚がうまく機能しなくなる、つまり記憶の整理が巧く行かなくなって認知症になるようです。

ですから、我々が、物心つく頃には楔前部が確り機能するようになり、幼い時らの記憶の連続が頭の中に整理されているのでしょう。

この時間の認識ですが、小学性のころの1年は随分長かったと思うけれども、歳とると1年の過ぎるのが速い事速い事などと言います。

また、友人と会って話が弾んでいるときは、あっと思う間に時間が過ぎますが、手持無沙汰で何かを待っている時間や、つまらない講話を聴いているときなどは時間が随分長く感じられます。

という事は時間というものは、その長短も含めて人間の脳が認識しているもので、それはある意味では人間の脳が時間の認識、つまり時間を創りだしているという事ではないのかという意見も聞きます。

これを突き詰めていくと、時間というものが客観的に存在するのではなく、人間の脳が認識することで生まれて来るという事になるそうです。

時間は人間だけが認識しているもので、その他の動物ははただ「現在」を生きているだけという事になる、つまり「現在」しかないという事なのです。

こうして時間とは何だ? という事になるわけですが、やっぱり時間は客観的に「ある」と考えた方が正しい(人間にとって都合がいい?)のではないかと考えるところです。

おそらく多くの皆様も同じようにお考えだと思っています。
私が居ようと居まいと、総ての人に時間は同じように流れていて、人間の脳がその流れを過去・現在・未来と整理できる能力を持ったという認識のぢ方が、最も物事を上手く説明できると考えるからです。

「時空」と言いますが、時間も空間も結局よくわからない事ばかりです。人間がいなかった時も時間は流れていたようですし、人間が到達できない(光や電波や素粒子を利用しても)空間(宇宙)も広大でしょいう。

ビッグバン以前にも時間は流れていたのでしょうし、ビッグバンで出来た宇宙は拡大中とのことですが、その外側にも「宇宙でない空間」がありそうです。

そんな解らないものが客観的に「ある」のだろうと人間が認識するのですから、やっぱりすべて人間の脳が作り出したものではないのかという気がしないでもありません。 

やっぱり解らない事ばかりですが、でも時にこんなことを考えてみるのも楽しいような気がするというのも不思議です。

人間とはここまで憎み合えるものなのか

2023年11月21日 21時03分26秒 | 文化社会

パレスチナ、イスラエル問題を見ていてつくづく思うのは、人間というのはここまで憎み合えるのかという恐ろしさです。

私も人間ですから、どこかにそんな「性(サガ)」を持っているのかと思うと、何と無く嫌悪感や不安感を感じたりします。

然し人間には「類化性能」の高い人と「別化性能」の高い人がいると言う折口信夫の説を聞きますと、多分私は類化性能の高い人間だから、あそこまで憎みあうような事はないだろうなどと思って少し安心するのです。

恐らくパレスチナにもイスラエルにも「類化性能」の高い人は大勢いて、そういう人たちはこんな人間同士の殺し合いはするべきではないと思いながら、リーダーが決めるのだから、我々にはどうにもならないと嘆いているのではないでしょうか。

「別化性能」の高い人は、俺は格別だ、気に食わない相手は倒す,という「争いの文化」に魅せられて、往々にしてリーダーになり、周囲に別化性能に根差す考え方を振りまきます。

その時に使う有効な方法は「我々は被害者だ。加害者は彼らだ」と敵を作り、被害者意識を梃子にして結束を図り、「争いの文化」の世界を作り上げるのです。

戦争はこうした「人の心の中で生まれる」(ユネスコ憲章の前文)のでしょう。

しかし、争いは人間を破壊し疲れさせますから、多くの人はやめてほしいと思い、その思いが広く共有されれば、休戦、講和も起きます。

パレスチナ、イスラエル問題では「オスロ合意」で争いに疲れた両者が、争そいは平和も幸せも齎さない事を悟り、仲介者の努力もあって安定の可能性を見出したのでしょう。

こうした合意は、その時点では当該国が共に納得したからこそ可能になったのですから、国連や当該国に関係のある国々は、それがまた双方に被害者意識を生まないよう充分留意し「類化性能」が当事国間で一般化するような環境を作らなければならなかったのです。

その意味では当該国をそれぞれ支援する国々が対立する限り、報復の連鎖は終わらないので、そうした国々、そして国連の対応にも責任があるのでしょう。

今回の最悪とも言うべき状態は、パレスチナ、イスラエル双方に多大の殺戮と破壊をもたらし、「争いの文化」の不条理を双方の国民の心に刻みつけたのではないでしょうか。

そうであってみれば、アメリカの努力もあり、近付いているように感じっれる休戦が、パレスチナ、イスラエル双方に「争いの文化」の終焉を齎し、より多くに人たちが持っていると思われる類化性能の高さが広く一般化するような環境条件を齎すものにするような形になることを強く願うところです。

世界の人々に報復の連鎖の無意味さを理解させるような解決の実現を心から期待するところです。

日本人のエネルギーレベルについて

2023年11月20日 15時01分29秒 | 文化社会
日本人のエネルギーレベルについて
日本人は、基本的にエネルギー・レベルが高い国民だと考えています。このブログでも、折に触れてそんな指摘をしてきました。

1990年台から日本経済が極度の不振に陥ってからでも、元気で頑張っているのがゲームやアニメの世界でしょう。

一時、嘗ての通産省が、世界で人気の日本アニメを産業として把握しようとしたことがあったようですが、その後諦めたようです。(諦めてくれて良かった!)
そんな事に関係なく、日本のアニメは世界の重要な文化(もうサブカルチャーではない)としてますます元気なようです。

もう随分以前から日本では、テレビを点ければ食べ物を作るか食べるかの場面にぶつかる、というような状況ですが、その結果が「和食がユネスコの無形文化遺産に指定」という事になり、日本の食文化は世界に名を馳せて、世界の至る所で日本食ブーム、更にインバウンド盛況の要因にもなっているようです。

スポーツでも最近の日本は大変な頑張りです。
野球と言えば、アメリカのメジャーリーグですが、そこで活躍する日本選手はどんどん増え大谷選手は野球世界のシンボル的存在、世界選手権では日本が優勝しても誰も驚かないというれベルになりました。

その他、柔道は別としても、常勝ともいえるような体操、フィギュアスケート、スキージャンプ、最近ぐんぐん力をつけて来ているサッカー、ラグビー、バスケットボールなどなど、多様な外来スポーツで日本は力をつけて来ているようです。

日本人は特に体格が優れているわけではありません。しかし、和食の効果でしょうか(?)、最近体格も随分良くなってきました。
更にその上に、バスケットでいえば、3点シュートのような技術的なところでその特徴を発揮しているようです。

また、チームプレー、団体競技でその特性を発揮するという事が言われます。
勿論、個人々々の力が優れて来た事は当然ですが、団体戦で特に力を発揮するという側面は、ある意味では企業経営、企業活動でも共通な面があるようです。

力の平行四辺形ではありませんが、個人々々のベクトルが一斉に同じ方向を向いた時、合は最大になります。にほんじんの得意な「人間集団の強み」でしょう。

経済活動では、この所30年も世界ランキングを落とし続けている日本ですが、同時に、日本人のエネルギーが存分に発揮されている分野が広く存在しているのです。

今朝の朝日新聞の2面を開いた時下段の経済図書の広告に目が行きました。
その中で気になったのが『プア・ジャパン』-気が付けば貧困大国-(野口悠紀雄)でした。
確かに、気が付かない内に、貧困家庭の子供が6人に1人と言われたり、1人当りGDPが世界4~5位から28位に転落したり・・・です。

こうした文化やスポーツの躍進と経済の凋落というギャップの原因は何なのでしょうと考え込むところですが、原因はかなりはっきりしていると思っています。

日本人は元々エネルギー・レベルが高いのです。高いエネルギー・レベルが、自由に伸ばせる条件があれば、そこに噴出して伸ばしていかないと気が済まないという事ではないでしょうか。

それなのになぜ経済の不振なのですかと言えば、それは多分、経済については伸ばしにくい条件がそろっているからでしょうという答えが返ってきそうです。

前回の記事も含めて、この所取り上げているこのブログをご覧いただければ、そのあたりはご実感いただけるのではないかと思うところです。

2つの戦争、どちらも人類の課題ですが

2023年11月11日 15時01分24秒 | 文化社会
誠に残念なことですが、様々な経験を経て、人類の文化や知恵も進歩してきたと考えられていた21世紀に、多くの人々が「悪夢を見ているのではないか」と思うような熾烈な戦争が起きてしまいました。

ロシアのウクライナ侵攻は、もう1年10カ月になろうとしていますが、解決の兆しすら見えない人類の悲劇として続いてしまっています。

そして、この10月にはハマスのイスラエル攻撃から始まり、イスラエルの徹底した反撃という熾烈な戦争が起きてしまいました。

人類の調和と発展が言われ、世界平和への希求が、人類の歴史の中でも最も強くなったと思われ、人類の共通の課題は、地球環境の回復、温暖化防止、そのためにSDGsが広く叫ばれるようになった地球社会の中で、こんな人間同士の破壊と殺し合いが起きるなど、あり得ないと思う人が大部分ではないでしょうか。

しかし2つの戦争は、現実に進行中で、破壊と人類同士の殺傷は今日も続いています。

そして、マスコミの世界では、長期に続いて来ているロシアのウクライナ侵攻より、イスラエルのハマス殲滅作戦に紙面や時間を割くことが多くなってきているようです。

こうしたマスコミの情報提供のボリュームの変化に従って、ロシアからの不条理な侵攻に自由世界の支援を得て戦うウクライナについての関心が薄れることについてウクライナのゼレンスキー大統領が懸念しているという報道があったりします。

マスコミはその本来の性格として、新しいもの、より変化の多いものを取り上げるのは、ある意味では自然なのかもしれませんが、地球人類はこの2つの戦争をどう認識し、如何なる関心と判断を持って観て行かなければならないのでしょうか。

勿論それは、それぞれの人の立場によって違うでしょう。現に戦争の中で、まず自分の命を考えなければならない人から、相争う陣営の中でそれぞれの立場や信条による人も当然いるわけです。

しかし、人間の本性に立ち帰って考えれば、先ずはそうした争いをしない事でしょう。戦争があれば、早く終わることを願う心が人間の本来の心でしょう。

その上で、更に考えてみると、ハマスとイスラエルの争いは、宗教という面もあるものの、実態は、垣根をめぐる隣同士の感情的怨念の報復の連鎖という面が強いのではないでしょうか。相互理解を進め、互いに良き隣人となることを願うばかりです。

それに対して、ロシアのウクライナ侵攻は、領土という争点を掲げながら、その背後には、人類の歴史の中で克服してきた専制主義、独裁主義が、人類の望む平和を実現する社会体制である自由主義、民主主義に対して、改めてその存在を主張しようとする、「人類社会の在り方への挑戦」、人類社会の求める進化の方向を逆転させようとする、異常な動きと認識すべきものではないでしょうか。

勿論、戦争は早くやめてほしいと誰しも考えています。しかし同時に、その戦争の意味するもの、その戦争の解決の在り方が人類社会に何を齎すかも見定めておかなければならいように思うところです。

向こう3軒両隣、安定社会構築の原点

2023年11月04日 15時29分20秒 | 文化社会
日本には昔から「向こう3軒両隣」という言い方があります。

今、ネットで見ますと、引っ越しの時の挨拶の範囲などという形で「向こう側が3軒、こちら側は自宅は別ですから2軒の5軒はご挨拶すべきでしょう」などと解説してあったりしますが、この言葉にはもっともっと深い人間社会の基本的な考え方があるような気がしています。

欧米では「良い垣根は良い隣人を作る」という言葉もあるような記憶がありますが、これも基本的には、同じ人間社会の良い関係の在り方、作り方を言っているのでしょう。
そういえば、今のパレスチナ・イスラエル紛争などは、悪い垣根の典型なのかもしれませんね。

「隣は敵、隣の隣は味方」などという言葉もあるようですが、これも人間社会の関係の難しい面を言っているのでしょう。

「向こう3軒両隣」は良い悪いは何も言っていませんし、他にも「ご近所さん」などという言葉もありますが、個人にしても、国にしても、先ず、直接の周囲とは良い関係を持たなければという安定した社会構築の基本を指しているという事でしょう。

しかし、現実には「隣同士で仲が悪い」という事は良くあることです。騒音や地境、植木の枝、落ち葉など、お互い気を付ければ解決することが多いですが、地境の問題は、正確な測量がないとこじれるようです。

これが国どうしの問題になると大変なことになるのです。
何故に、多くの国は領土問題になると、紛争や戦争を起こし、多くの人命や建設蓄積した資産の破壊までして領土のために争うのか、その理由が問題です。

それは単なるメンツのためにでしょうか、それとも実利のためでしょうか。
日本がアジアに軍を進め、領土拡大を狙った大日本主義の中で、既に大正時代、石橋湛山は、小日本主義を唱え、台湾や朝鮮半島は手ばなし中国の経済発展を促し交易により双方の繁栄を図ることが望ましいと主張しました。

戦後日本は、北海道、本州、四国、九州の4つの島になって世界も驚く高度成長を実現、世界第2の経済大国になりました、台湾、韓国、中国の経済発展は日本経済の発展にも大きな役割を果たしています。

徒に版図を拡大することは国家経営の負担とコストを増やし、国力を衰亡させる要因になることは歴史が教えています。

他国を征服するのではなく、その経済発展を援助し交易を活用してwin=winの関係を作ることが、自国にとっても、世界にとっても経済社会の発展への最も優れた道であることには、恐らく異論はないでしょう。

にも拘らず領土的野心、相手国を倒して、版図や権力や拡大を目指して行動する国というより国のリーダー)が絶えないという事は人類として誠に情けない事ではないでしょうか。

日本はその歴史の中で、その愚かさに明治維新をきっかけに気づき、太平洋戦争の敗戦により、国家間の争いにも終止符を打ちました。

しかしまだ、国内で庶民が作ってきた経験知というべき「向こう3軒両隣」の背景をなす人間関係本来のあり方に、十分気づいていないリーダーもいそうな気配です。
政治家として地位を得ても、庶民の知恵を忘れては、人類社会の基本を見失う惧れがある事に気づいてほしいものです。

文化の日に考える:共存の文化、分断の文化

2023年11月03日 16時20分43秒 | 文化社会
文化の日に考える:共存の文化、分断の文化
6年前、2017年の文化の日に「争いの文化」と「競いの文化」を書きました。
「争いの文化」は相手を倒して自分が上に立とうという文化、「競いの文化」は相手を超えることで上に立とうという文化で、例えれば戦争の文化とオリンピックの文化という趣旨のものです。

ネットで「競いの文化」と入れて検索しますと、このブログが出て来ます。

相手を倒せばそこで進歩が止まりますが、相手を超えようとすれば進歩はいつまでも続くという意味も含んでいます。
人類社会にとっては「競いの文化」こそが大事という事になります。

しかし現実の人類社会では、未だに戦争が絶えません。破壊と殺戮で相手を倒すというのは人類社会の中でいつまでもなくならないのでしょうか。

今日、6年後の文化の日はロシアのウクライナ侵攻が続き、新たにパレスチナのハマスとイスラエルの争いが熾烈な戦争に発展中です。

現場での一般市民の悲痛な叫びが鼓膜に響くような状態の中で、今日は「共存の文化」と「分断の文化」について考えてみました。

「共存の文化」はシェアリング(分かち合い)の文化でしょう。そして「分断の文化」は孤立の文化に陥り、進歩の無い文化に堕すでしょう。

「共存の文化」は、中世のような技術革新のない時代でも協力する経済圏の拡大でより豊かな社会になり得たでしょうし、技術革新で生産性向上が可能の現代では「競いの文化」を生み、広汎な切磋琢磨で人類社会の発展・高度化、より豊かで快適な社会の実現を可能にすると考えられます。

一方分断の文化は社会の単位を小さくし、豊かさのためには領土や資源の確保のための「争いの文化」を生みやすく、戦争による破壊と惨禍の多発を生むでしょう。

こうした違いは、人間の心の持ち方の違い、それによる社会政治体制の違い(民主制か独裁制かなど)によるところが大きいと思われます。

6年前、「争いの文化」と「競いの文化」を書いた時、その背景には折口信夫の造語である「別化性能」と「類化性能」の意識もありました。物事の違いを強調する別化性能は「分断の文化、共通点に注目する類化性能は「共存の文化」とそれぞれ共通点のある人間の心と文化の概念でしょう。

そういう意味では、美しい自然を維持してきた地球環境の中で、今後の人類社会の安定発展を考えた場合、「共存の文化」を生かし。「競いの文化」の活用でより豊かで快適な社会を目指すのがより適切な選択肢という事が見えてくるのではないでしょうか。

今も残っている「争いと分断の文化」は中世の限られた豊かさの中で、生存、存続のために争った時代の人間の心の残滓ではないでしょうか。

そのためには、同じ人類として「類化性能」への一層の注目が大切になるような気がします。

敬老の日が過ぎて

2023年09月21日 15時04分36秒 | 文化社会
先日は「敬老の日」でした。
先日はと書いたのは、かつて敬老の日は9月15日でしたが、今は、9月の第3月曜日になっていて、暦にも今年は9月18日と書いてあります。

変わったのは2002年で、それまでは9月15日は95歳に通じるので、そこまで長生きできればという意味もあるのかな、などと思っていました。

働き者で休まない日本人を連続休暇に馴染ませるためでしょうか、それとも連続休暇を増やして消費需要の活発化を意図したのでしょうか、国民の祝祭日も一部は連休優先方式(成人の日、海の日、敬老の日、スポーツの日の4日)になって「この祝日は何月何日」と言えなくなりました。

動かせるものは連休にした方が休みやすいという事でしょうか。働き者の日本人にしてみれば、安心して休める国民の祝日を増やして、出来るものは連休方式にするというのも結構なアイデアかもしれません。

話が横道にそれましたが、敬老の日は、国民として何をすればいいのでしょうか。
祝日の趣旨は「社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という事だそうで、私も老人の仲間なので「社会に尽くしてきた老人」の資格ありやと反省するころです。

老人にとっては反省の日かもしれませんが、もう一つの「長寿を祝う」というのはどうでしょうか。

政府は平均寿命の長さについては世界に自慢するでしょうが、年金の遣り繰りについては四苦八苦、高齢者の負担は増え、給付は実質減少というのがこれまでの実績です。

本音ではお前たち高齢者の働きが悪かったからだ、と言いたいのかもしれませんが、これまでの経緯で見れば、日本経済低迷の原因は、プラザ合意以来の円高容認政策が根本原因で「あの頃の政治や外交担当者の失政が原因だったのではないですか」でしょう。

繰り言を言っても生姜ないので、大事なことは、失敗の経験を将来に生かすことで、このブログも、それに協力しているつもりです。

それは兎も角、「長寿を祝う」というのは、人間始め生きとし生ける物は無条件で納得するのではないでしょうか。

自分の意思で生まれたのではないのですが、生まれて来てよかった、生きることは自分にとって意味ある事というのは、人間以外の生物は本能で認めているのでしょうし、ホモサピエンスに進化すれば、脳の機能でそう感じ、考え、認める所でしょう。

生きることを良い事と感じ、長い人生を生きて、それぞれに多様な活動で社会に役立ってきた老人の人生に敬意を表し、長寿を祝う、という人間の自然の気持ちを素直に感じることが出来れば、それは「敬老の日」に相応しい心ではないでしょうか。

個人と社会の関係進化の行方を観る

2023年09月09日 15時18分57秒 | 文化社会
個人と社会の関係進化の行方を観る
人間は「社会的動物」と言われます。もともとの言葉は英語で Social Animal というのでしょう。
人間はその本性として「社会を作って生活する」動物のようです。

人間以外でも、オットセイのハーレムやサル山のように、動物が集まって生活する場合もありますが、これは多分本能のままに集まっているのであって、一見、社会を作っているようにも見えますが、人間の作る「社会」とは本質的に違うのでしょう。

人間だけが時間の概念を持ち、その延長線上にあると思われる宗教や文化を持ち、より良い社会を作ろうという目的意識を持つのです。
アリストテレスは、人間は「社会(ポリス)的動物」と言い「人がより良く生きるための社会」といった認識を持っていたようです。

歴史の中で、人間は、確かにより良い社会を創るために努力をしてきています。
但し、その足跡は残念ながら試行錯誤の連続で、今日現在の社会も、ロシアのウクライナ侵攻や核による脅しといった正に試行錯誤の真っ只中です。

しかし、人類の歴史から見れば、長い時間を掛けて、人間の作る社会は進歩してきていると判断してよいのではないでしょうか。

世界中どこに住む人間でも宗教を持ち、成熟した宗教は経典(教典)を持ち、それらは社会の基本となるべき人間の生き方を示しています。
矢張り人間は基本的に「社会的動物」ですから、自分たちの住む社会をより住み易い良いものにするための教えを記しているのです。

人間が「社会的動物」と言われる所以は、こうした所にもはっきりと表れているのではないでしょうか。

そしてこの考え方は次第に広く深くなり、人間社会に共通であるべき行動の指針が世界に広まりつつあると感じ、それが人間社会の進歩と認識されているのでしょう。

基本は世界のあらゆる社会に存在する宗教や文化における「個人の倫理観」でしょう。その中からユニバーサルに、どの社会にも共通しうるのを、国際的な「社会の在り方」として広めていこうという努力が次第に浸透しているのです。

個人の倫理観から、家族間のより良い関係の維持構築、更に、多様な組織、就中企業の在り方の共通した倫理の確立とこの動きは着実に進んできています。

始まりは、欧米でいえば、は権力、経済力を持つ人間に対しての「ノブレス・オブリージュ」という社会規範などだったのでしょうか。

この動きは、今日では、個人より力を持つ組織、特に企業の行動規範としての、CSR:「企業の社会的責任」にまで進んできています。
日本では、経営道義、企業倫理といった言葉で、明治以来、浸透してきていました。

こうした動きは、「社会的動物」である人間の在り方が、個人から権力者へ、さらに大きな力を持つことになった組織、特に企業へと拡大され、より良い人間社会の実現に貢献する進化の道を確実に進んでいることの証左でしょう。

そして今、この動きは、大きな壁に突き当たりつつも、これまでの試行錯誤の経験を活かして、「国家」という最大の社会組織についても拡大されようとしています。

ロシアという国の時代錯誤は、社会的動物である人間も進化にとって大きな試練でしょう。
しかしこの問題を乗り越えた時、「社会的動物」としての基本である人間のあるべき行動指針を、人間は、企業などの組織を大きく超えて、人間の作る最大の組織である「国家」のレベルにまで浸透させる可能性を掴むのではないでしょうか。

「国家の人間社会に対する責任」が、世界の共通の認識になった時、「社会的動物」である人間の望む「あるべき社会」実現の基礎工事が完成することになるのでしょう。

モーターとエンジンは、どう違う!?

2023年08月05日 14時31分18秒 | 文化社会
モーターとエンジンは、どう違う!?
今日は土曜日で、何となくのんびりです。最近気がついたことで、言葉の遊びのような事になってしまいますが、言葉は世につれです。

その前に、昨日のマイナカードと健康保険証の問題について、当方の間違いで説明部分に欠落があり、誠に申し訳ありませんでした。今朝、訂正いたしましたので、ご寛恕のほど伏してお願い申し上げます。

ところで、最近のEVブームの中で何となく気になっていたのが、自動車メーカの社名です。

かつて長く世界一を誇ったGMは「ゼネラルモーターズ」ですし、フォードも「フォードモーターズ」です。

日本でもトヨタモータース、日産モーターと名のつくのがトヨタ系、日産系の会社では一般的です。ホンダの場合もホンダモーターサイクルという会社があってこれは二輪車ですが、名前はモーターですが、皆エンジンで走っているのが当たり前でした。

最近でこそ、EV・電気自動車の出現で「モーター」で走っている車が出て来ましたが、未だエンジンで走っている車の方が多いでしょう。

という事で、「みんなエンジンで走っているのに何でモーターやモータースなの」という事になるのではないでしょうか。

日本語の「自動車」というのはその点では大変的確な名前ではないかと思うところです。
何故なら、機関車は、蒸気機関車でも電気機関車でもレールの上しか走れませんし、電気機関車の場合には架線から電気をもらわないと走れません。

自動車は、その点、動力源を自分の体内に持っていて、何処へでも行ける車、まさに自力で走る車「自動車」です。その点中国の汽車より実態を表しているように思われます。

考えてみれば、動力というのは、もともと人間は馬や牛に頼っていたので「馬力」・「HP」が力の単位になっているのでしょうが、それが、ワットの蒸気機関(これはスチームエンジンで「エンジン」ですね)の発明から始まってそれが、ガソリンエンジンになり電気モーターにと変わってきているのです。

私の子供のころは正確に「電気モーター」と言っていた記憶がありますが、欧米ではもともと「モーター」と言えば「動力源」の意味だったのでしょう。

そう考えればエンジンで走る自動車のメーカの名前が「モータース」であっても当たり前でしょう。

日本では、ヤマハ発動機、大阪発動機(ダイハツ)の様にエンジンを「発動機」と名付けていたり、原動機(原動機付きバイク)、内燃機関ともいってきています。

最近のマスコミでは、EV・電気自動車を筆頭に、HEV・ハイブリッド車、PHEV・プラグインハイブリッド車、FCV・燃料電池車、e-POWER(エンジンで発電してモーターで走る)などと電池とモーターの車からエンジンと電池とモーターを組み合わせた車、は燃料電池(FC)に電池とモーターを組み合わせた車など、いろいろな車が走るようになりました、

昔と違って、エンジンと(電気)モーターを確り区別して両者の関係を正確に理解しないと何でどのようにして走っているのか解りません。

自動車というのは大変うまい名前だなと思いますが、「自動」の中身がどうなっているのか理解するのも結構難しい世の中なって来たようです。

時間と宗教について考えてみました

2023年07月15日 13時33分38秒 | 文化社会
今日は土曜日、世界も日本も多事多端ですが、少し勝手なことを考えてみたいと思っています。

というのは、先月5日に、折口信夫の言った「類化性能」と「別化性能」について書きながら、何と無くこんな事を書いていました。

「原始の時代から人間には宗教がありました。これは人間だけのものでしょう。人間の脳が時間の概念を持っているからかもしれません。」

後から何故あんなことを書いたのだろうと気になっていたのですが、理由は、宗教を持っているのは人間だけだという事、そして時間の概念を持っているのも多分人間だけだろうという事からの連想だったのだと思います。

考えてみますと、人間以外の動物は「今」を生きているようです。もちろん犬や猫にも記憶装置はあるでしょう、「餌を呉れる人はこの人」とかです。
しかしそれは壁に記憶した絵が貼ってあるようなもので自分にとっての重要性によって絵の大小はあってもあくまで平面的なものだろうと思います。

人間も、やっぱり「今を生きている」のですが、その記憶は、「昨日のこと」「去年のこと」小学生の時のこと」というように、総て時間軸の中で整理されています。
これが出来ているのは人間だけでしょう。

つまり、人間は時間の概念、大変精密で正確な「時間という概念と組合わされた記憶の整理機能を持っているという事になります。

「今」という瞬間は1秒であっても、その背後には自分の年齢だけの時間=記憶の蓄積があるのです。

哲学者はその記憶をしっかり持ちながら、しかし自分が死ねば、それは全て無くなる。この世は本当に存在するのか、「自分は現実に存在しているのか」などと思索し、こんなこと考えているのは「自分」なんだ、だから『われ思う、故に我在り』なのだ、などと考えたのではないでしょうか。

しかし「今」は記憶の終点で、未来は解りません。「今」が時間軸上を進んで行って、未来が今になり、過去になって記憶に蓄積されるのです。

それが人生ですが、問題は死です。こうして生きてきた自分が死後はどうなるのか、臨死体験などはあっても、死後は解りません。

しかし、解らなくても、人間はそこまで「考える」ことは出来るのです。そこに生まれるのが宗教なのではないでしょうか。
ある意味では、哲学(自分の存在)を死後にまで延長して思索するところに必然的に宗教が生まれるということなのではないでしょうか。

そう考えれば、人間だけが哲学を持ち、宗教を持つことが出来るという事、それは、人間が時間軸という概念を意識出来るからという所に行きつくように思われます。

人間の脳がそれを可能にしている、人間の脳だけが時間軸を意識できるのであれば、人間の脳がいかなる形でそれを可能にしているかが問題です。この研究は、「人間の脳と時間概念」という形で、今、研究が進んでいるようです。

アメリカのユネスコ復帰を喜ぶ

2023年07月12日 13時27分43秒 | 文化社会
アメリカのユネスコ復帰を喜ぶ
ユネスコ、日本語では「国連教育科学文化機関」で、第二次世界大戦終結の直後に企画され1956年に発足しています。

国連傘下の機関の中で人類がその歴史の中で育てえ来た多様な文化を尊重し、科学的な視点で、正しい教育によって、人類の歴史文化の保存、今後の進歩に貢献しようという役割を持っています。

このブログでは折に触れて、ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中で始まるものであるから、平和の砦は人の心の中に築かなければならない」という文章を引用紹介しています。

この人類文化の尊重をうたうユネスコから5年前、トランプ大統領は脱退を宣言しました。理由は「反イスラエル的だ」といったものでしたが、トランプさんは、地球環境問題の「パリ協定」や「国連人権委員会」からも離脱するなど、のトラブルメーカぶりでした。

既にパリ協定や人権委員会には、復帰しましたが、今回のユネスコ復帰で、アメリカもやっと正常な国際活動に戻ったという事でしょうか。

世界が第二次世界大戦の惨禍に終止符を打ち、世界の平和と文化の交流、それによる発展と平和共存の好循環を実現した1960年代ぐらいまでは、世界中の国々に。ユネスコ国内委員会や、多様なユネスコを支える組織が生まれ、学校などの教育機関の中のクラブ活動でも「ユネスコクラブ」といったクラブ活動は日本でも盛んでした。

その後、多くの先進国の経済不振などもあり、ユネスコと言えば世界文化遺産でしょうといった認識になり、最後にはアメリカの脱退で、財源の20%を失い、活動の幅を大きく制限されたようでしたから、人類の国際文化活動にとって、今回のアメリカの復帰はまさに喜ぶべきことと言えるでしょう。

時あたかも国際情勢が混乱の度を深め、世界の国々の憂慮や心配が改めて深刻化するのではないかといった中で、世界の平和の核心に触れる「憲章前文」を持つユネスコの活動の積極化が期待できるようになるのは何よりです。

世界の平和と質の高い人類文化への発展向上が益々希求される中で、改めて、アメリカのユネスコへの復帰を喜びたいと思います。

「争いの文化」と独裁制、最近の日本は

2023年07月08日 17時13分21秒 | 文化社会
今日は土曜日です。言葉か概念の遊びをと思いましたが、書き始めるとそうもいかないようです。

まずは夏目漱石の「虞美人草」の一節です。
「粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻紾(しゅちん)か、これも喜劇である。英語かドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。生か死か。これが悲劇である。」

やっぱり人間にとって最も大切なのは生命でしょう。与えられた命をその可能性を出来るだけ生かすように生きる。
本能に従ってか、大脳で考えてか、よく解りませんが、人間はそうあるべきなのでしょう。

それを知っているからでしょう、政府は「国民の生命と財産を守る」ことを第一の目的にしているようです。
生命だけでなく財産も守ってくれるというのは有難いことです。

戦前、戦中にかけて、「お国の為に命を捧げる事が最も良い事」と教わり、私もそう信じていました。
1945年の8月15日を境にこの価値観は雲散霧消し、「自分の思うようにいきなさい」という事になりました。

この解放感は今もはっきりと覚えています。「そうか、これが本来の人間が生きるという事だったのか」そして自分の生き方を、自分なりに考えるようになりました。

冒頭の「虞美人草」の一節は、人生は自分なりに選ぶもので、大方は喜劇である。しかし、せいか死かの選択は、そこで人生がなくなるという意味で、人間にとって最も重要な意味を持つ事でしょう。

しかし、いま世界を見渡せば、この重要な生と死の問題を物の破壊と同じようなレベルで考えている国のリーダーが未だに存在するのです。

それだけではありません、いまの日本においても、部分的にそうした可能性が起きることを認める動きがあり、それが「新しい戦前」などという言葉で話されているのです。

更にこうした動きの原因を探っていきますと、かつてこのブログで提起し、折に触れてれて取り上げている「争いの文化」の存在があるようです。

「争いの文化」の対極は「競いの文化」です。「争いの文化」は相手を倒して自分が生き残ろうとする文化、「競いの文化」いつかは相手を超えようと励む文化です。

そして、政治的、社会現象的には、「争いの文化」は、競うべき相手を倒し、専制・独裁という社会を作ります。
一方「競いの文化」は民主制を善しとし、共存と切磋琢磨によって可能性に挑戦し向上を目指す社会を作ります。

現に存在する「争いの文化」の典型はプーチンの目指すロシアの文化であり。「競いの文化」は、本来の国連の求める文化であり、スポーツではオリンピックの文化です。

最後に一つ、先ほども触れた問題を指摘しますと、日本社会の中にも、自民党が安倍政権になって以来、「争いの文化」に与する要素が顕著に増殖している事です。「争いの文化」は往々にして戦争を肯定します(平和のための戦争という詭弁)。

相手を倒し、自分が生き残ると、結局進歩が止まり衰退する社会になります。日本人として心しなければならない状態ではないでしょうか。

「別化性能」と「類化性能」と今日の世界 (2)

2023年06月06日 12時21分23秒 | 文化社会
前回は久方ぶりに「別化性能」、「類化性能」という折口信夫の造語を取り上げ、今日の世界情勢の中でこの使い分けの在り方が重大な問題になって来つつあることを見てきました。

世界の大国であり、国連の中枢機構、安全保障理事会の常任理事国であるロシアと中国が独裁国の色彩を強め、「我々の考え方は自由世界とはちがう」という形で「別化性能」を強調するようになって、今日の国際関係、人類社会の安定は大きく阻害される事になりました。

自由世界の国々はそれぞれに多様ですが、多様なりに「同じ地球世界に住む人類なのだから、助け合いながら仲良く人類社会の安定と発展を目指していこう」という事になっていると思うのです。

この「みんな同じ人間じゃあないか」というのが「類化性能」のいい所なのでしょう。

これに対して「我が国は本来こういう国であり、国境線はこうで、外国とは違う」と同じ人間でも国が違えば違いを強調するのが「別化性能」の困ったところです。

プーチンは「別化性能」の権化のような人間のようです。長く組織のトップの座にいると人間は自分を特別視するようになり、「別化性能」が助長されるのかもしれません。

こうして「別化性能」が助長強化されると、自分の領域が狭くなることを恐れ、排他的や侵略的になるという事ではないでしょうか。

中国が版図の拡大を求め、国境線に異常にこだわるのも同様の原因からのように思われますし、習近平政権が長期化するとさらに「別化性能」が強化されるかもしれません。

プーチンの場合には、すでに戦争に発展し、戦況が不利になれば、核の使用も辞さずという発言もありますから、「別化性能」の終着駅は人類社会の破滅につながる可能性もなしとしません。

こうして見ると「別化性能」は人類にとって無用な性能のようにも見えますが、前回、私自身も「別化性能」を求める気持ちがあると書きましたが、その気持ちは誰にもあり、「別化性能」が人類社会の進歩発展の役割を果たしている意義も大きいように思います。

「別化性能」は、自分が他人と違う事を重視する能力でしょう。他人のやらない事、他人より優れた事をやりたい、というのは人間の、そして人類社会の進歩発展の原動力でしょう。「類化性能」の共通な点を重視するだけではそうはいきません。

結局問題は、人間、人類社会が、「別化性能」と「類化性能」をいかに上手く組み合わせて活用するかという「至極あたりまえな」結論になるのですが、そこで留意したいのが「争いの文化」と「競いの文化」という問題です。

「争いの文化」は相手を倒すことによって自分の優位を保つという考え方であり、「競いの文化」は相手と抜きつ抜かれつの競争を善しとする考え方です。

「競いの文化」は、「類化性能」をベースにし、そおの上で「別化性能」を働かせるという事に大事な意味があるのではないでしょうか。

考えてみたら、結局動物が種の保存のために、本能によってやっている事と同じではないかという気がしてきましたが、どうでしょうか。

「別化性能」と「類化性能」と今日の世界 (1)

2023年06月05日 16時08分42秒 | 文化社会
大分前ですが2014年9月に「最近の国際情勢と折口信夫」を書きました。

「別化性能」、「類化性能」というのは、折口信夫の考えた言葉で、「別化性能」というのは物事の違いに注目して考える能力、「類化性能」というのは物事の共通点に注目して考える能力という事のようです。

折口信夫自身は、「自分は「類化性能」がとても発達している」と考えていたそうですが、この考え方に接したとき、私は私自身も、「類化性能」の方が発達しているような気がすると思っていました。

しかし、考えてみると、自分の気持ちのどこかに「別化性能」を求めるところがあるようだなとも思っていました。

恐らく、誰もがその2つの要素を持っていて、時と場合によって、自然に使い分けているのではないのだろうかという事なのでしょう。

ただ、折口信夫が言うように、自分はどちらの能力がより発達しているという事はあるのでしょう。

そして同時に、折口信夫はやっぱり典型的な日本人なのではないかと考えるのです。
というのは、いろいろ考えてみますと、日本人というのは、どうも世界中でも「類化性能」に優れているという点が特徴のように思えるからです。

原始の時代から人間には宗教がありました。これは人間だけのものでしょう。人間の脳が時間の概念を持っているからかもしれません。(宗教を持っているのは人間だけ)

そして宗教は人間集団の数だけあって、それは皆違った神様を持っているようです。そして神様が違うと人間集団は互いに相容れない事が多いのです。

多分宗教という文化(?)は、人間にとって「別化性能」の発揮を必要とするものなのでしょう。

ところが日本では、神様と仏様が仲良く共存しています。本地垂迹説といった考え方も生まれ。国が「廃仏毀釈」を言っても、今に至る殆どの家には神棚も仏壇もあるのです。

欧米人には考えられない思考方法「神も仏も人間を救うためにあるのでしょう。それならもともとはみんな同じなのかもしれない」というのが「類化性能」の極致でしょう。

日本人は、多様な宗教を容易に容認します。多様な宗教の祭りは次々に日本に入って来て、大勢の人が楽しんでいます。
  
ところで、現代は宗教とともに、主義主張、思想信条が人心を支配することも多くなっています。
そして、困ったことに、これが種々の争いや紛争を起こし、更に戦争に発展し、核の時代にいたっては人類社会の存亡にまで影響する可能性を持っています。

これは「別化性能」を極限まで推し進めた結果でしょう。
今や生物多様性、種の保存、絶滅危惧種の救済、などに一生懸命の人類が、宗教やイデオロギーの違い(利害)のために何で殺し合うのかです。

「類化性能」を重視すれば、同じ生物、同じ人間が何故、快適に共存する社会を作れないのか「別化性能」の発揮は人類社会の別のところで必要なので、そちらで発揮してくださいという事にしてほしいものです。

生成AIは社会の進歩かリスクか

2023年05月01日 15時03分25秒 | 文化社会
チャットGPTに象徴される急速な「生成AI」の進歩については、ヨーロッパ中心にその社会に与える混乱のリスクを懸念し、規制の必要を重視する考え方から日本やアメリカの様にその活用によるメリットを重視し更なる進歩を重視する立場まで広がりがあるようです。

群馬県高崎市で開かれていたG7のデジタル・技術相会合では、先月30日「生成ATのリスクを共有して、G7に議論の場を置くことを決め、基本原則やガイドラインを示すことを目指すという閣僚宣言をまとめたとのことです。

オセロでは人間はAIには勝てない、将棋でも碁でも、余程上達しないとAIに勝てないなどと言われるようですが、世のなかのあらゆる問題についてAIが普通の人間より良い答えを出すようになると色々問題が起きてきそうです。

ヨーロッパが一番心配しているのは恐らく人間の仕事の中で、AIに置き換わる部分が大きく、雇用問題に大きな影響が出るという、かつてのラダイト運動、近くはME化と雇用問題という系譜の意識の様に感じられます。

しかし、活用やメリットを重視する日本やアメリカでも、従来のコンピュータではなかった問題が出て来る可能性もあるという意識が、共有されているとの認識も矢張りあるのではないでしょうか。

それは、AIが「人間と区別がつかない様な言葉」で、その持つ「知識(人間がインプットした知識)のすべてを使って」、「与えられた命令に従い」「質問の趣旨に最も適切」と思われる内容を「瞬間的に」作りだすという事になったからです。

「質問の趣旨に最も適切」というのは、プーチンの意向の沿った内容の文章を作る」ことも、「NATOの意向に沿った文章を作る」ことも即座にできるという事でしょう。

勿論、その両者とも全く違った趣旨の意見も、誰かが命令さえすれば、即座に生成されるでしょう。そして、それを見た人間は、それを作ったのは人間かAIか判別できないといった状況、誰が責任者かという問題にきちんと対処する必要があります。

上記の閣僚宣言には「民主主義の価値を損ない、人権の享受を脅かすAIの誤用・乱用に反対する」と盛り込まれたとのことですが、これを如何に実現するかは容易ではないでしょう。

現状の論議は、まず、AIにどこまでの情報をインプットするかという事にあるようですが、今地球上のインターネットには、ありとあらゆる情報が蓄積され(放り込まれ]ています。

例えば、AIが、自分で、インターネット上のあらゆる情報を検索し選択して、あらゆる質問に答えるようになれば、インプット制限は対策にならないでしょう。

それは、今の人間がそれぞれにやっている事ですが、AIが、それを極限までの検索とスピードでこなすことになり、一方、多様な目的を持った人間が、AIに勝手な命令をし、AIが回答や意見を出し、その情報が、更なる情報のデータになると何が起きるのでしょうか。

人間には、自分の知らない事をまことしやかに説明を受けると結構信じてしまうというところが多分にあるようです。

生身の人間は今でも情報の洪水の中で、選択の判断を迷っているのですが、それでも「人間」については表現の自由、言論の自由は認められるべきものでしょう。しかしAIの発言はどうなのでしょうか。だれが責任を持つのでしょうか。

SFの世界の事と思っていた人間とロボットの関係を、G7が本気で議論する時代が来てしまったとすれば、やはりこれは大変なことだと考えざるを得ないのではないでしょうか。

ロボットには考え付かない良い知恵を、G7が出してくれることを願うところです。