tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

生成AIは社会の進歩かリスクか

2023年05月01日 15時03分25秒 | 文化社会
チャットGPTに象徴される急速な「生成AI」の進歩については、ヨーロッパ中心にその社会に与える混乱のリスクを懸念し、規制の必要を重視する考え方から日本やアメリカの様にその活用によるメリットを重視し更なる進歩を重視する立場まで広がりがあるようです。

群馬県高崎市で開かれていたG7のデジタル・技術相会合では、先月30日「生成ATのリスクを共有して、G7に議論の場を置くことを決め、基本原則やガイドラインを示すことを目指すという閣僚宣言をまとめたとのことです。

オセロでは人間はAIには勝てない、将棋でも碁でも、余程上達しないとAIに勝てないなどと言われるようですが、世のなかのあらゆる問題についてAIが普通の人間より良い答えを出すようになると色々問題が起きてきそうです。

ヨーロッパが一番心配しているのは恐らく人間の仕事の中で、AIに置き換わる部分が大きく、雇用問題に大きな影響が出るという、かつてのラダイト運動、近くはME化と雇用問題という系譜の意識の様に感じられます。

しかし、活用やメリットを重視する日本やアメリカでも、従来のコンピュータではなかった問題が出て来る可能性もあるという意識が、共有されているとの認識も矢張りあるのではないでしょうか。

それは、AIが「人間と区別がつかない様な言葉」で、その持つ「知識(人間がインプットした知識)のすべてを使って」、「与えられた命令に従い」「質問の趣旨に最も適切」と思われる内容を「瞬間的に」作りだすという事になったからです。

「質問の趣旨に最も適切」というのは、プーチンの意向の沿った内容の文章を作る」ことも、「NATOの意向に沿った文章を作る」ことも即座にできるという事でしょう。

勿論、その両者とも全く違った趣旨の意見も、誰かが命令さえすれば、即座に生成されるでしょう。そして、それを見た人間は、それを作ったのは人間かAIか判別できないといった状況、誰が責任者かという問題にきちんと対処する必要があります。

上記の閣僚宣言には「民主主義の価値を損ない、人権の享受を脅かすAIの誤用・乱用に反対する」と盛り込まれたとのことですが、これを如何に実現するかは容易ではないでしょう。

現状の論議は、まず、AIにどこまでの情報をインプットするかという事にあるようですが、今地球上のインターネットには、ありとあらゆる情報が蓄積され(放り込まれ]ています。

例えば、AIが、自分で、インターネット上のあらゆる情報を検索し選択して、あらゆる質問に答えるようになれば、インプット制限は対策にならないでしょう。

それは、今の人間がそれぞれにやっている事ですが、AIが、それを極限までの検索とスピードでこなすことになり、一方、多様な目的を持った人間が、AIに勝手な命令をし、AIが回答や意見を出し、その情報が、更なる情報のデータになると何が起きるのでしょうか。

人間には、自分の知らない事をまことしやかに説明を受けると結構信じてしまうというところが多分にあるようです。

生身の人間は今でも情報の洪水の中で、選択の判断を迷っているのですが、それでも「人間」については表現の自由、言論の自由は認められるべきものでしょう。しかしAIの発言はどうなのでしょうか。だれが責任を持つのでしょうか。

SFの世界の事と思っていた人間とロボットの関係を、G7が本気で議論する時代が来てしまったとすれば、やはりこれは大変なことだと考えざるを得ないのではないでしょうか。

ロボットには考え付かない良い知恵を、G7が出してくれることを願うところです。

カジノ誘致という情けない根性を嘆く

2023年04月19日 16時54分24秒 | 文化社会
政府と大阪はいよいよ大阪湾の夢洲にカジノ主体のIR(統合リゾート)を作ることを決めたようです。

トランプさんがアメリカの3人のカジノ経営者と共に安倍さんに頼んだ、という話があって始まった事のように聞いていたものです。
トランプさんが大統領でなくなって、北海道は誘致反対を宣言、横浜も誘致賛成の市長が辞めて、立ち消えかと思っていましたが、政府と大阪の合意で、実現という事のようです。

もともとカジノは賭博場で、どう理屈をつけてもそれが健全な人間を育て、付加価値を創る経済活動ではないのですから、私的なものは禁止です。
しかし、政府だけに賭博が認められていて、政府公認の賭博は競馬や宝くじなど存在します。

競馬はスポーツとして認められ(これも少し変ですが)、宝くじは庶民の慈善寄付に楽しみを付けるという意味で、認められているのでしょう。

カジノは純粋の賭博で、これを政府が認めるという事は,その収益の大部分を地方自治体などの収益として確保できる、つまり税金で取れない分の穴埋めとして意味を持つという事でしょう。

確かに、税金で取ろうとすれば、税金が高すぎると反政府運動が起きるでしょうが、ギャンブルで損した人は自己責任ですから文句の言いようがありません。

ただ、日本人は、世界でも数少ない「お金の出自を区別する」人たちなのです。
貴いのは「額に汗したカネ」で「あぶく銭は悪いカネ(悪銭)」と感じるのです。そして「悪銭身につかず」と言うのです。

これは今の経済学でいえば、「インカムゲイン」と「キャピタルゲイン」の区別で、「キャピタルゲイン」は「悪銭」の仲間です。理由は付加価値を創らない、単に、カネがAさんからBさんに移るだけの活動だからです。

カジノというのは、この「悪銭」を最も原始的な賭博という形で、政治の権限を使って得ようという事ですから、本来日本人の気質から言えば「合わない」ものでしょう。

カジノでは損をする人が殆どで、損するだけではなくギャンブル依存症になって、家族や社会に迷惑をかけ、人間として破綻するような人も多く出るので、今度のIR計画では政府はギャンブル依存症対策に随分気を使っているようです。

そういう犠牲者を出しながら、ギャンブルで上がったカネで例えば「社会保障を充実する」と言っても、すんなり納得する人は多くは居ないでしょう。

こうした問題を孕みながら、経済効果が年に近畿圏で1兆1,400億円、更には大阪府、大阪市の財政が良くなると言われても、もう少しましな、日本の伝統文化を生かすようなインバウンド誘致の政策があるのではないかという市民としての健全な感覚を大切にする、政府、地方自治体であって欲しいとつくづく思うところです。

諺とツイッター

2023年04月14日 21時45分23秒 | 文化社会
諺とツイッター
電気自動車のトップ企業「テスラ」の創業者で、世界トップクラスの資産家と言われるイーロン・マスク氏がツイッター社を買い取って、経営合理化のために従業員を半分に減らすのだそうで、大変なことのようですが、経営の問題はさておき、ここでは情報伝達手段としての言葉の問題です。

ツイッターでは英語でも日本語でも140字以内でないといけないという事で、長い文章は書けません。
(ツイッター・ブルーという400字というのもあるようですがあまり使われてはいないようです)

日本語で140字はまだいいとして、英語の140字では、些かword数が足りないような気がします。

いずれにしても、常人には、そんな短い文章で、自分の意思や情報をきちんと伝えることは至難でしょう。

「寸鉄人を刺す」ような名文や警句を即座に編み出すなどは、バーナード・ショウやプア―・リチャードならともかく、2~3日かけて考えても駄目でしょう。

日本人は、それでも、俳句、短歌、川柳、狂歌という伝統文化もありますから、まだいいのかもしれません。

そういう意味で感心するのは「諺」です。
「諺」は決して長くありません。しかし、聞くと誰もが素直に感心し納得するものが多いからこそ、何百年、何千年も語り継がれているのでしょう。

しかし、そうした諺でも、場合によっては大変な誤解を生じる場合もあります。
例えば
「君子危うきに近寄らず」と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」は意味が反対。
「一石二鳥」と「二兎を追うものは一兎を得ず」も同様。
「待てば海路の日和あり」と「待ちぼうけ」も同様。

こうした諺は、直接「やれ!」とか「やめろ!」とかいうのではなくて、何かに託して考え方を伝え、その場に適切であれば説得力を持つのです。しかし状況が違うととんでもないことにもなります。

例に挙げたのは極端な、並べてみれば正反対の意味のものですが。言い回しの巧みさもあって、状況とタイミング次第で効果的な、納得性のあるものなのです。

ツイッターなども、こうした諺のように、厳しく鋭い発言の趣旨をソフトに「例え」や「ユーモア」や時には「ペーソス」などに包んで、巧みに表現すればいいのかもしれませんが、常人にはとても可能という感じがするのです。

常人がそれをやろうとすると、長文の説得調になるか、端的な肯定や否定の言葉になるか、場合によっては誹謗・中傷、悪口雑言のようなものになりかねません。

トランプさんをはじめ、政治家もツイッターを多用するようですが、それは単純に、自分の意見に賛成か反対かの反応を知るためが多いようです。
単純な反応で物事が済むようになると往々人間社会は賛否の分断の兆候が出て来ます。

こうして、「短文」が広く社会に行き渡ることは、表現の単純化から思考の単純化、行動の単純化を生むような気がしてなりません。

イーロン・マスクさんが、ツイッターを買収したのも、ツイッター文化に何らかの問題点を感じ、何ら化の改革を試みようと思ったからでしょうが、さて、ツイッターはどんなことになるのでしょうか。

新型コロナはいよいよ終息でしょうか

2023年03月27日 16時04分42秒 | 文化社会
この所、東京の新規コロナ感染者が減少を続けて来ていましたが、この2日ほど、先週比で増加しているようです。
まさかこれが第9波の始まりではないと思っています。矢張り終息は世界的な傾向のようですから、多分安心だろうと楽観派を決め込んでいます。

それにしても、この3年間、世界も日本も、世間も我が家も、コロナ非常時とでもいうような生活を経験しました。

外に出る機会が極端に減ったので、私の場合、脚力がめっきり落ちました。それはこれからの日課の散歩で取り戻せるかもしれませんが、取り返しのつかない3年間という場合もいろいろあるようです。

例えば、中学3年間がコロナの3年と重なってしまったこの3月の卒業生、3年前の4月に憧れの大学に合格したけれども、勉強は非対面が多いし、新しい友人をつくり、クラブ活動の楽しさを期待していた大学生活に残された時間は1年だけです。

こうした人たちにとっては、コロナ禍の3年間は、まさに取り返しのつかない生涯の損失になりかねません。
これがこの世代の人達の生涯にどう影響するかは、今後、教育学の研究テーマになるのかもしれません。

企業社会においても、対面の機会は大きく減り、リモートワーク、テレワーク、在宅勤務、ネット会議など対面の機会は、呑み会を含めて大きく減りました。

こんな状態が始まったころ「転んでもただでは起きるな」と書いた記憶があります。このコロナ禍によって強いられた状態を逆手にとって、より効率のいい、時間もコストも削減できる仕事の仕方を開発できる可能性もあると考えたからです。

そして産業社会、企業社会の場合、多様な努力がなされ、そういった面でも、新しい技術開発、会議の形式、対面を要しないより効率的な仕事の仕方など、多くのノーハウ、それへの合理的な対応の仕方が実験・実習され、生産性向上に貢献した面もあるようです。

特に目立ったのは、NTTの、勤務は原則在宅、出社した場合は主張旅費支払という徹底したトライアルなどでしょう。

ある意味では、アフター5も含め、濃密過ぎた日本流の対面重視の企業世界が、デジタル社会の進展の中で、どこにベストの合理性を発見するかも検証されるでしょう。

在宅勤務の経験が家庭における夫婦の家事分担に影響を与えたことも想像できます。

個人にとってみれば、コロナの3年間は、その3年が人生のどの部分にあったかで、個人個人に与えた影響は様々でしょう。

然しその経験をそれ以降の人生にどう生かすか、個人も企業も社会も、「転んでもただでは起きない」ように仕上げて行かなければならないようです。

梅と桜

2023年03月04日 14時32分08秒 | 文化社会
我家の遅咲きの豊後梅もようやく花を開き始めました。



梅一輪 一輪ずつの 暖かさ (嵐雪)
今日は土曜日で、暖かい良い日です。これで世界に戦争などなければとつくづく思います。

気象庁によれば今年は桜も早いようで、東京では3月中に満開を迎えるようです。梅から桜へ、日は伸び、コートもいらなくなり、一番良い季節なのではないでしょうか。

梅と桜、日本を代表する花ですが、その昔は、「花」と言えば梅だったと聞きます。桜は900年ごろ古今和歌集あたりからとの説が一般的のようです。

梅は、香りがよく、寒さの中でぽつぽつと花を開き「枝振り」と「花」との取り合わせが微妙な線と点のバランスを生むのでしょう。絵になるのが「梅」の美しさでしょうか。 

一方桜は、木全体を花がつつんでその重なる枝の、まさに「万朶の桜」が濃艶な量感のある景観を作り出す「ソメイヨシノ」を代表に、一斉にぱっと開き旬日の命で落花の舞となる潔い美しさが人の思いを深くするのでしょうか。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」などと言われますが、これもそれぞれの花をその美しさの特徴を確り捉えて観賞するための極意に繋がる諺でしょう。

梅と言えば、誰も思い浮かべるのは天神様、菅原道真公でしょう。これは学問の神様、今では受験のお守りの象徴的存在です。

桜は菊とともに日本の「国花」ですが、かつては「軍国思想の象徴」でした。
「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りませ国のため」などと歌われました。

花は無心に咲き、人間がそれを見て多様な感覚やイメージを作り上げるのです。かつて日本の軍部は「花は桜木、人は武士」などと言われた潔さのイメージを利用し国民の命を戦争の道具としました。
そうした印象も時間と共に薄れ、花の美しさだけが残るのも自然でしょう。

今また「新しい戦前」などと、戦争の影がちらつく日本ですが、「梅と桜」はともに日本人が美しいと思う花です。

この2つの花に何かイメージを持つとしたら、真のもの、良きものは美しいと考える「真善美」に叶うようなイメージであって欲しいと思うところです。

民主主義と日本社会の劣化を問う

2023年02月10日 12時03分45秒 | 文化社会
ガーシーという先の参院選で当選した議員が、全く出席しないという事で参議院の懲罰委員会にかかっているという事です。

ここでは本人や、所属の党についてとは全く別の話になりますが、こうした問題が発生したという事は政治と国民意識の総体的劣化の片隅の綻びが偶々顕在化したのでしょうから、矢張り考えてしまうのは、民主主義の本質的に持つ問題と、民主主義を善しとする国の国民の在り方という問題です。

このブログでは、さきに「民主主義のトリセツ」を書きました。
民主主義という制度の根幹である選挙を中心に、民主主義というシステムの中に生きるのであれば、民主主義というシステムの中での生き方を十分理解し、民主主義を誤りなく使いこなすように、具体的な思考や行動の在り方も弁えていなければなりません。

町内会や企業の職場訓練などで、消火器の取扱い方の講習などもやります。使えなければ火は消せません。家電製品や各種の工具などを買えば、事細かに安全な使い方の説明、こういう使い方は絶対にしないで下さいといった「危険」を避けるための『取扱説明書』(トリセツ)がついています。読まないと巧く使えません。

これはメーカーに義務付けられているもので、いかに良い「トリセツ」を用意するかを推進する団体もあって積極的な活動を展開しています。

政治も同じで、日本の政治の基本システムである民主主義についても日本政府は義務教育の中で、徹底して国民に民主主義のトリセツを教えているはずです。

それなら、民主主義国家日本では、選挙はその根幹をなす国民の権利であり義務でもあるので、政府は国民に十分に必要な知識を与え、間違っても誤った使い方をしないように心を配っているはずだと思うのですが。

国民もまた、民主主義の理念を十分に理解し、民主主義社会で生きるための生活の在り方、選挙についての考え方など教育の成果を誤りなく活用する事を身に着けて日常の行動をしているはずです。

しかしその割に、選挙の投票率は高くないし、当選した政治家の不適切な言動も頻発するといった現状があります。

という事は、民主主義国の政治家として、適切でない人が選挙の結果当選している可能性が高いという事で、これは選挙する人が適切な判断をしていないからに他なりません。

責任は何処にあるのかというと、明らかに選挙民にあるという事になります。選挙には誰も出られますが、選ばれる政治家の質は選挙民の質の反映です。

真面目で勤勉な日本人なのに、何故困った事が起きるのか、原因はいくつかあると思います。①義務教育で教わった事を結構忘れている。②テレビからツイッター、U-チューブまでメディアの進化が早すぎる。③政治への絶望感→無関心(これが最も恐ろしい)など。

そんなこともあるかと、義務教育で教えてくれない「民主主義のトリセツ」も、当ブログでは考えてみた次第ですが、益々難しくなる世の中で、少しは役立つと思っています。

本来日本人は真面目で勤勉、物事の理解力に優れているのですが、今日のような変化の大きい時代には、それに対応して本来の真面目さに立帰って、確り考えて行動することが必要になってきているのではないかと思っています。

昨日は節分、豆撒きしましたか

2023年02月04日 13時50分18秒 | 文化社会
今日は立春です。都下国分寺では10時ごろから春らしい青空になって、立春に相応しい良い日になって来ました。

今日立春という事は、昨日は節分、皆さんのお宅では「鬼やらい」の豆撒きをされたでしょうか。
我家では家内が生協の毎週の配達に「福豆」を注文し、先週来た豆を1合の酒〼に入れて用意していました。撒くのは私の役目です。

新年は初詣から始まる日本の年中行事ですが、昔から理屈は言わずに、何となく、きちんとやっているような気がします。

やっぱり季節感というのでしょうか、時の流れに刻み目はないのですが、我々の先祖が太陽や月の動きを見て、食糧を得るための採集や栽培との関係を理解し、年、月を決め、人間の生活を自然の変化に合わせてきた知恵の原点のようなものは大事でしょう。

閏秒までは意識出来ませんが、これから日が伸びてくる、これから草木が育つ暖かさになるといった感覚で1年の始まりを感じるための年中行事は、太陽暦であれ、旧暦であれ、大事にして確り感じたいと思うところです。

今も、手紙には「季節の変わり目、健康にご留意を」などと書きますが、昔の人は、季節の変わり目には鬼が出ると思って、「鬼は外、福は内」と言って豆(魔滅・魔目)で鬼を追う払う行事を考えたのでしょう。
明治生まれの私の父は「鬼は外、福は内、鬼の眼(まなこ)を打ち潰せ」と言って豆をまいていました。

昨夕、家内に「撒くのは少しにして下さい。後が大変だから」と言われて、「了解」といって「鬼は外、福は内」と一回り「最後の戸を閉める所だけ豆を撒いたょ」と言っておきました。

今朝「一回りしたけど、鬼はいなかったよ。福の神は居ただろうけど見えなかった」と言いましたら、後から家内が「鬼がいなくて結構でしたね、福の神は見えなくてもいいでしょう。今年もいい年になるでしょう。」と言います。

家内「福は、今見えないものなんですよ。後からあの頃は良かったというのが人間ですから。」
私「・・・・・」
言われてみれば、確かに「人間って、そんなもんだな」と腑に落ちる所でした。

ところで、一歩家から外に出てみれば、世界には戦乱に荒れ果てるところもありますし、日本としても、一歩一歩戦乱の当事国なる可能性に近づいているような現実があります。

日本が「福の神」から「鬼」になれば、節分に関係なく豆ならぬミサイルが飛んでくる可能性も出て来るでしょう。

節分、立春、こうした季節の変化を、心おきなく感じ、楽しめる日本であってほしいとつくづく感じるところです。

コスパとタイパ

2023年01月31日 14時19分39秒 | 文化社会
コスパは「コスト・パフォーマンス」(コスト対効果)、タイパは「タイム・パフォーマンス」(時間対効果)という事のようです。

コスパはビジネス界では一般用語です。専門用語では「投入産出分析」で、れっきとした意味、方法論を持っています。
タイパは、最近コスパになぞらえて、「時間をかけただけの効果があったのか」を個人の感覚で評価する事のようです。

「タイム・イズ・マネー」と言いますが、ビジネスの世界では「時間が掛る事はコストが掛る事」ですからコスパの中には「時間を無駄にしない」ことは当然入っています。
例えば「5S」の整理整頓で「必ず決まった場所に置く」は、探す時間を省くためです。

タイパの説明には大抵、「最近は忙しい世の中になったから」などと書いて在りますが、生活時間の使い方を「ビジネス並みに」効率的にというと、生まれた言葉なのでしょう。

実は「タイム・イズ・マネー」というのも生活の一部の話で、本当は『タイム・イズ・命』でしょう。
人間は自分には解らない『与えられた命』の時間を生きているのです。出生から死亡までが「自分の時間」でそれこそが『生命』なのです。生命はカネでは買えません。

という意味からすれば、タイパは「自分の生涯設計の効率化」という事になってしまって、哲学や宗教の問題になってしまうのですが、今使われているタイパはもっと単純に、1日24時間をもっと効率的に使いたいという事で、「ビデオを倍速で見れば効率2倍」といったことになるわけです。

「あれも見た、これも見た」というためには倍速は効率的ですが、「あのシーンの心理的描写のあの3分間が素晴らしかった」というためには倍速は効果がないでしょう。

「最近は忙しい世の中になったから」という言葉の背景は、情報量が多くなって、いろいろ知っていないと困るから」という環境の中での焦り、「あ、それ見た。あ、それ読んだ。あ、それこういう事だよね。」と言えることが必要という事のようです。

こういうのは世界中共通のようで、ミヒャエル・エンデの『モモ』が世界中で読まれる所以でしょう。
ならば、エンデのいう時間泥棒に振り回されるのではなく、時間泥棒と戦うモモの方が正義の味方という事になるのです。

家事を始め、自分の時間のなかにもタイパを取り入れた方がいい事は沢山あるでしょう。しかし、「本当の自分の時間」を充実したものにするためには、自分の人生、自分の生き方を、自分自身で決める必要があるように思われます。

タイパを上手く活用するのも、「本当の自分の時間」を増やすためにやっているので、「本当の自分の時間」を少しでも長くし、それを自分らしく過ごせるようにするのが、本当の目標でしょうか。

王様、皇帝の支配と民主主義

2023年01月15日 11時48分57秒 | 文化社会

前回は、EUと日本の縄文時代は共通点がある、それは多様性の平和共存だ、という事を指摘してきました。

そして提起した問題は、多様性の平和共存が可能になる社会の枠組みというのは何でしょうかという事でした。それがはっきりすれば、人類社会、国際関係は今よりずっと良いものになるという視点です。

ヨーロッパは王国が乱立していた時代は、戦争が当たり前だったようです。我々が知っている範囲でも、ナポレオンは戦争をしました。そして最後の戦争は、ドイツのヒットラーと、イタリアのムッソリーニという、形は民主主義の中から生まれた独裁者と日本の軍部の独裁も絡んだものでした。

今のヨーロッパは民主主義が行き渡り、独裁者は生まれてこない状態がEUを可能にしているのでしょう。

翻って日本の縄文時代はどうだったのでしょうか。これはよく解りません。しかし考古学者の研究によれば、戦争はなく(殺戮の跡がない)征服、被征服もなく奴隷制もないと見られている背後にはそれなりの社会体制があったはずだと思われます。

古代日本の研究からは呪術、巫女の役割といったものの尊重もあるようですが、その背後にあったのはそれぞれの集落の意思決定がメンバーの総意を反映するようなシステムだったことの様です

日本にはずっと最近まで「衆に諮り」とか「一揆に諮り」といった言葉が使われいました、
聖徳太子の17条の憲法でも、第一条は「和をもって貴しとなす」で最後の17条には「夫れ事は独りにて断(さだ)むべからず、必ず衆と共に論ずべし」」と書いてあります。

恐らく集落の人が集まってその総意に従って物事を決める風習が一般的だったのではないかと想像されます。
つまりは、原始的な直接民主主義のような風習が、戦争などは考えず多様性の共存を可能にしていたのではないでしょうか。

この社会は、弥生時代には外来の文物とともに王制、そして戦争という文化も入って結果は魏志倭人伝の「倭国大乱」に至るのでしょう。


こう見てきますと、戦争は、王、皇帝という政治体制と共にあるように思われます。
王、皇帝という存在は、必然的に「イエスマン」に囲まれた独裁者を作り上げることに繋がり、その独裁者の個人的な征服意欲や、被害者意識がその国の行動を決める可能性を高め、戦争という最悪の社会現象を引き起こすのではないでしょうか。

そう考えれば、民主主義が健全な形で働く社会は、恐らく多様性が平和共存する社会を創っていくという事になるような気がします。

人類は、本来、そうした社会を望んでいると思うのですが、それが上手くいかないで、戦争が起きてしまうのが残念ながら今の現実という事なのでしょう。

EUと縄文

2023年01月14日 14時22分50秒 | 文化社会
今日は土曜日ですので、少し奇想天外に類する話になるのかもしれませんが、表題のようなことになりました。

今、ヨーロッパはロシアとの対立で大変ですが、この問題もいずれ終わるでしょうし、そうすればEUはヨーロッパ全域の平和共存と経済・文化の発展を目指した安定した地域に戻るでしょう。

EUの始まりは、ベネルックス3国の関税同盟でしょう。それがEECになりEUになって、今では27か国に拡がっています。

フランスとドイツにしても、ついこの間まで戦争をしていたのです。
もともとヨーロッパは沢山の国があって王様がいて領土拡張などで戦争をし、興亡を繰り返していたのです。

第2次大戦後は全く変わりました、ドイツとフランスはEUの核という感じで、強い絆で結ばれた間柄のようです。

将来、ロシアが民主国家になれば、EUはユーラシア大陸に拡がって、ユーラシア共同体が出来るかもしれません。

戦争はなくなり、経済や文化の発展にそれぞれの国がその特徴を生かしながら協力する、こんな世界が広がってくるのでしょう。

正に理想郷のような話ですが、長い争いの時代の果てに、そうした事が当たり前になる、、という可能性をEUは示しているのではないでしょうか。

こうした動きは「素晴らしい」の一語ですが、日本人として振り返ってみるとどうでしょうか。

日本には1万何百年かの縄文時代があります。
氷河期代が終わり、日本海が広く深くなって、日本列島はユーラシア大陸から切り離され、そこに取り残された、多様なDNA、生活習慣(歴史)、言語、肌の色などの人々は、それぞれの集落をつくりながら、交易をし、交雑をし、1万余年をかけて「日本人」になったようです(混血の純血化:薄衣説)。
注:日本人は世界でも最多のDNAの混在する国民だとのことです。(崎谷説)
その間、専門家の研究によれば、戦争がなかった、征服・被征服もなく奴隷制もなかった、
一方、交易は列島の中を縦横に進められていたようです。
糸魚川産の翡翠が三内丸山遺跡で発見されるなど、翡翠の道、信州産の黒曜石の道 などが推定されています。

縄文時代の日本列島は、いわば、今のEUの様なもので、人口密度は違うかもしれませんが、それぞれの生活手段(産業)を生かして交流をしながら、多様なルーツの人達が平和共存をしていたという姿が浮かび上がってくるという事になるのです。

21世紀の今、人類が求めている多様性の平和共存が、縄文時代の日本で実現されていたという事は、人類の本質の中に、本来、多様性の平和共存を是とする因子が組み込まれている事を示すものではないかと考えるところです。

EUも縄文も、その因子を生かす社会の在り方を実践しているから、平和共存が可能になっているという事なのではないでしょうか。
(さて、その「あり方」とは何でしょうか)

今日は成人の日です、成人になるとは・・

2023年01月09日 14時07分53秒 | 文化社会
日本の「国民の祝日」は年に16日で、国民の祝日が多い方の国になるようです。最近増えたのは「海の日」と「山の日」でしょうか。まだ増えるかも知れませんね。

「有給休暇があっても半分ぐらいしか取らない日本人だから、みんなが安心して休める国民の祝日が多くてもいいんじゃないの」なんて意見も聞かれます。

話を戻して「成人」ですが、今迄の20歳が、昨年から18歳になりました。
20歳から2歳繰り上がったのですが。心身ともに日本人の成長も早くなったという事でしょうか、「成人の日」の趣旨は「社会人としての責任感を持って生きていく青年を祝い励ます」という事だそうですから2年早めるのもいいのではないでしょか。

ただ行事としての「成人式」は学齢方式で4月を境に20歳になってという自治体が圧倒的なようですし、若年者の心身の健康に取って時に有害でもある「酒やたばこ」は従来通りとか、刑法の規定などは「特定」措置をおくとか、事と次第によって色々あるようですが、それはそれで、それぞれ合理的な方がいいでしょう。

基本的な問題というのは、個人の事情によっていろいろと異なるでしょうが、人間何時かは親などの庇護(扶養)を離れて「自立」しなければならないのですから「依存から独立へ」という通過点は必ずあるという事です。

これがキチンといかないとマスコミの言う「80:50」問題などが起きることになります。
人間何時かは自立し、子供の扶養を受け入れて支え、その子供も、いつか自立して次のサイクルに続くという「世代循環」が順調に回ることで社会は安定した社会という事になるのでしょう。

そういう意味で考えれば、「成人の日」社会にとっても個人にとっても大変大事な重要なエポックを自覚する日という事になるのではないでしょうか。

また少し話が変わりますが、このブログとして、この問題について最も重要な点を考えるとすれば、それは、「若年層の失業問題」でしょう。

OECD主要国の失業率の統計を見ますと、若年層(15~24歳)の失業率(2017年)は
日本:4.7%、ドイツ:6.8%、アメリカ:9.2%、カナダ:11.2%、イギリス12.1%、フランス:22.3%、イタリア:34.8%(資料:OECD、厚労省)
となっています。

日本とドイツの低さが目立ちますが、ドイツはデュアル・システムと言われる働きながら職業訓練をするシステム、日本は新卒一括採用で採用してから企業内訓練というシステムの効果が大きいからです。

政府の働き方改革では新卒一括採用はやめるべきだという事になっていますが、これは政府の働き方改革が現実を無視している事の典型と言われているようです。

民主主義と共産主義という問題の行方

2022年12月29日 16時36分13秒 | 文化社会
今年も今日を入れて3日、コロナもそうですが、国際紛争の問題も「暦」に関係なく困った状態は続いていきます。

戦争を含むあらゆる紛争は、ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中で始まるものであるから・・・」という英国の故アトリー首相の言葉がすべてを説明しています。

そこで人間が何ゆえにそんな心を持つかと考えますと、その人は何か自分の心の拠り所となる考え方を持っていて、それが正しいことだと自分を納得させているからでしょう。
一般的に言えば、それは「イデオロギー」「主義主張」「思想信条」などの言葉で言われるものでしょうか。

この表題でも今、世界を二分するように言われる「民主主義国 vs.共産主義国」の対立も「主義」の違いに根差すものでしょう。

ところで、この民主主義国と共産主義国の対立というのも、実は、自分で書きながらあまり適切ではに様な気がしています。

民主主義に対応する言葉は、専制主義・独裁主義でしょう。これは「政治体制」の問題です。
旧ソ連邦や毛沢東の中国に見られるように、共産主義が往々にして独裁制に陥るという歴史の経験から民主主義と共産主義を対立概念となっているのでしょうか。

ロシアは典型的な独裁制で、プーチンの「心」が戦争を起こし、独裁性のゆえに国民がついて行っているという意味で、民主主義国は独裁主義国を認めないのも当然でしょう。

という事になりますと、共産主義に対応する言葉は資本主義という事になります。これは経済的に生産要素(人間・資本)をどいう配置するかという問題です。

中国は共産党一党独裁の共産主義国ですが、鄧小平以来、改革開放で生産要素の配置は大幅に自由化して資本主義型になっています。しかし、政治の形態は独裁制で、いざというときは政治の力で生産要素の配置はコントロールできるという事のようです。

しかしこれは元々馴染まないものを無理に馴染ませているようなもので、平穏無事の時は問題なくても、経済危機や国際紛争に際して独裁制が適切に機能できるか、いずれ問題になるなどと言われます。

香港では、長い間かなりの混乱がありましたし(今も潜在?)、今回のゼロコロナ政策では、政府は白紙運動を容認する民主的な政策をとっています。これは中国国民にとっては大きな成果でしょう。
白紙運動の容認は、国民の自由が政府の「ゼロコロナ政策」という規制を転換させたという事ですが、これはもう1つの主義の対立「自由と平等」の問題に繋がります。

「自由と平等」も一般的に使われますが、自由主義の反対は、統制(規制)主義のはずで、これは社会体制の問題です。
勿論、人間社会に統制や規制は必要ですが、その範囲は自由主義社会の人たちに任せましょう。

こう見てきますと今、世界を2分するような問題や、紛争、戦争を起こしている状況というのは
民主主義と独裁主義: 政治体制から見て
資本主義と共産主義: 経済体制から見て
自由主義と統制主義: 社会体制から見て
といった事になるのではないでしょうか。

〇〇主義というと、どうしても片意地張ったものになってしまいますが、並べてみれば、どちらが「住みやすい世の中を作か」は誰にも容易に想像がつくのではないでしょうか。

歴史を見れば、時間はかかっていますが、だんだん住みやすい方に動いているのですが、此の所一寸ゴタゴタしています。やっぱり「民主主義のトリセツ」のようなものが必要なのかもしれません。

インバウンドに頼りすぎるな

2022年11月24日 14時51分35秒 | 文化社会
コロナの第8波はどうなるのでしょうか、ワクチン接種は順調のようで、あまり大きな波にならなければいいなと願いながら、五回目のワクチン接種も終えたから、会合に出てもいいかななどと考えています。

もうすぐ師走、今年の年末商戦は、少し元気が出てくれることを期待しながらコロな新規感染者数とのバランスを見ているところです。

同じことが、期待されるインバウンドの増加と新型コロナの流入でも言えそうです。
色々な国からの観光客が、日本の色々な場所を楽しんでいるのをテレビで見るのも結構なことですが、水際作戦は大丈夫かななどと心配になります。

現状、中国のゼロコロナは別として、ワクチンや各種の防御態勢、生活習慣の進歩で、コロナの抑え込みに人類が成功することを願うばかりです。

政府もインバウンドの受け入れの積極化を消費の回復、経済テコ入れの起爆剤のように考えているようですが、偶々大幅な円安も手伝ってくれて、インバウンドの増加については「いい円安」になっているようです。

今の行き過ぎた円安は、いずれアメリカのインフレ鎮静とともに消えていくのでしょうが、例え円レートが120円、110円になっても、インバウンドは確実に増え続けるでしょう。
日本は文化、観光資源、日本食、安全性、居心地の良さといったいろいろな面から見ても、世界の多くの国の人々が、尋ねたい国で当分在り続けるでしょう。

そうであってみれば、政府の、インバウンド推進への積極政策は、容易に成功するでしょう。日本人誰もがそのあたりは、共通に感じている所ではないでしょうか。

こうした結構な条件が一つあるのですが、翻って考えれば、この、世界の多くの人びとが訪ねたいと思う日本で、日本に住む日本人が、低迷する経済と劣化する所得水準、社会保障の先細りで、長期の不況に悩み続けるというのは余りにも情けない話ではないでしょうか。

インバウンド盛況の中で、日本政府は食事や旅行に補助金を出し、賃上げを少しでも高めにした企業には税金を負けてあげましょうなどという政策を取りながら、日本人自体は「笛吹けど踊らず」で実質賃金は低下傾向だったり、個人消費支出は万年不振状況という事になっているのです。

しかし本当のことを言えば、日本の消費需要の不振は、インバウンドではなく、日本国民の消費意欲の向上で解決され、支えられるのが本筋でしょう。

こんな事になって仕舞ったのも、振り返れば「プラザ合意」という経済外交の失敗、アベノミクスという経済実態を理解しない政策、更には最近見られるような自民党を中心にした政治家の人間性の劣化といった日本中枢の退行現象の結果でしょう。

インバウンドに力を入れるのも結構です。しかし外国からの客人の魅力になっているのは、日本国民が築き上げてきた文化や社会の在り方によるものでしょう。

その日本人が、このら所の失政続きでで、政府を信用できなくなり、日本人の勤勉さを、先ずは自己防衛、生活防衛の方向にと舵を切ったことで日本全体の元気が失われる現状を齎したという事ではないでしょうか。

今必要なことは、政府が、国民に信用されるものになること、そして日本人の持つ豊かな能力を自由に発揮できるような社会の枠組みを作る事でしょう。

昨晩のサッカーは良かったですが、毎日、テレビや新聞を見るたびに、この政府を信用しろと言うのか、というような記事にばかり出くわす状況はもう御免です。

今日は勤労感謝の日です、何をすれば?

2022年11月23日 11時45分17秒 | 文化社会
勤労に感謝する日、とてもよい日だと思います。
こんな趣旨の国民の祝日がある国が世界にどのくらいあるのか知りませんが、日本にあるのは素晴らしいと思います。

10月23日というのは昔の新嘗祭(天皇が初穂を召し上がる日)ですが、戦後、占領軍といろいろあって祝日としては残すが、名前を変えて「勤労感謝の日」としたようです。

名前はアメリカのLabor Day とThanksgiving Day(労働祭と感謝祭)を合わせたようですが労働が「勤労」になっているのは日本人の知恵でしょう。

毎年の豊かな実りに感謝する祭りは、世界中に、いろいろな形であるでしょう。これは自然から食料を採集する時期から栽培し農業を発展させる時代に至る中で当然、自然や神に豊穣を感謝する祭り(日本では秋祭り)が年中行事になったことはごく自然でしょう。

勤労感謝の日は、自然や神に感謝する気持ちに加えて、自分たち人間の「働き」にも感謝しようという、まさに現代社会に相応しい祝日ではないでしょうか。

「勤労」というのは大変いい言葉と思うのですが英語には見当たりません。勤勉(industrious, dilgence)はありますが、これは特に「労働に対して」という意味はないようです。

「労働」と言いますと、「労働の対価が賃金」などと言われますように、賃金を受け取って働くというイメージになります。
そうすると年金生活者は、現役の就業者、雇用者に感謝する日になってしまいそうです。

それではちょっとまずいという事で、「勤労ですよ、労働ではないのです」という事になったのではないでしょうか。

「勤労奉仕」という言葉は昔からあります。これは無償の労働です。そして、「大変ご苦労様です、有難うございます」という感謝の念が入った、いわば「尊い活動、働き」という意味を持ちます。

という事ですから、「勤労感謝」の中には、GDPの計算には入らないけれども、社会や家族のためになっているという活動も当然入ってくるのでしょう。

主婦労働、主夫労働、ボランティア、地域における高齢者の多様な活動、今問題になっているヤングケアラー、老老介護などなどです。

勿論、今の労働は肉体労働だけではありません、頭脳労働の方が次第に多くなってきているようです。
その意味では、必ずしも体を動かさなくても、体が不自由でも、社会に役立つことはたくさんあります。

こうしてみますと、人間が、何らかの形で、社会や家庭が「豊かで快適」になるような貢献をしている活動の全てに対して、自分も含めて全ての人に感謝する気持ちを持ちましょうというのが、本当の勤労感謝の日の意味ではないかと考えたらどうでしょうか。

折角ある国民の祝日です、気付いてみれば大変重要で大事な意義を持つ祝日なのだと、それぞれに意義づけして、大切にするのがいいのではないでしょうか。

「ストップ詐欺被害!」を毎日拝見して思う事

2022年11月18日 10時31分30秒 | 文化社会
夕方6時からのNHKの「首都圏ネットワーク」という番組で標記のテーマで、いわゆる「振り込め詐欺」の具体例をいつもやっています。

騙される例は、お年寄りの方ばかりで、金額は、時には30万円。50万円だったり、100万円、200万円だったりいろいろですが、先日3200万円という事例があって、これにはびっくりでした。

週に1回か、2週に1回ぐらい、気が付いて息子に電話したら、「それ詐欺だから、お母さん騙されないでね」と言われたとか、ケータイ片手にATMを操作していたらコンビニの店員さんが心配して来てくれて、結局詐欺だと分かったといったのもありますが、殆どは、電話を信用して騙されてしまたというものです。

手口もいろいろあって、子供や孫を装うだけではなく、銀行協会、市役所、税務署、警察署など、何かドキッとして慌てさせる悪知恵など本当に豊富です。

見ていて感じるのは、やっぱり人間というのは何か虚を突かれるとたちまち信用しまうものなのかな、信じられないけれど、実際にあった例だというから、もともと人間は、多分人の善い人ほど騙されやすいのかなぁ、などと考えながらずっと見ていました。

こういう嫌な社会現象は何とか根絶したいとつくづく思いますし、根絶は無理でも何とか減らしたいものと考えさせられる番組みですが、考えてみれば、そういう詐欺を考えて実行する人がいるからだと気が付きました(当たり前のことですよね)。

そう考えてみると、そうした人の立場でこうした番組を見ると、人というのは、こんなに簡単に騙されるものだ、と考えるだろう、というより、簡単に騙せるものだと知っているからやるのだろうという気がしてきました。

その上で、どうでしょうか、多くの年寄は、人が良くて、こんなに簡単に騙されてしまう、という番組を、そういう人が見れば、やっぱり結構上手くいくものだという気になるのではないかという感じがしてきました。

そのうえ、色々な成功した詐欺の手口も紹介してくれているので、参考になるなどと考える可能性も無きにしも非ずではないでしょか。

そういう目で見ますと、毎回詐欺にあった例では、気が滅入ってしまいますし、それより、こんな「気付き」や「対応」で、詐欺にあわなかったとか、現金やキャッシュカードを取りに来たら警官が待っていたとかいった話なら溜飲も下がります。

それと同時に、詐欺をする方の側から見れば、毎回失敗の例を見ていれば、「やっぱりうまくいかないことが多いな」「失敗したら大変だな」といった強迫観念を植え付ける効果が大きいのではないかといった気もしてきました。

「ストップ詐欺被害!」も、「振り込め詐欺なんて、上手くいかないとが多いよ」「お年寄りだと甘く見ると、とんだことになりますよ」といったメッセージになるような例を、増やしていくというのはどうでしょうか。

そしてその中に、「こう考えたら、ハッと『これはおかしい』と気づいた」といった重要なヒントを確り入れておくと良いような気もします。

特殊詐欺などという嫌な問題をなんとかなくしたいと思いつつですが、皆様いかがお考えでしょうか。