平成という時代:アメリカとの関係で見れば 3
前回、バブル崩壊後の日本のデフレ不況が、長期なものになった原因はプラザ合意による2倍の円高に日本経済が適応するため長期にわたるコストカットが必要だったことによると書きました。
そして確かに日本企業は、何とかそれをやり遂げました。しかし国内にはアジア諸国に進出した日本企業やアジア諸国の製品が急激に増えました。ブランドは日本企業でも、裏を見ればMade in Taiwan、Madein Malaysiaなどと書いてあるのが当たり前になりました。
通信や航空の世界では日本発はアメリカ発より通信料や運賃が大幅に高いという問題を、必死の努力で解決してきました。
価格を下げ、売り上げが下がれば、その分コストを下げなければ赤字・倒産というのが企業です。それを乗り越え、何とか >「減収減益」から「減収増益 」、つまり、売り上げ減より余計にコストを減らすといった状態に一部の企業が行き着いたのが2000年頃でした。
しかし、このプロセスは非正規従業員の著増をはじめ、多様なひずみを日本経済・社会に残しています。
この点についてはまた別途述べなければならないと思いますが、いずれにしても日本経済は10年余をかけて、2倍の円高を乗り切ったのです。
しかしその間、バブルに踊った証券会社や金融機関は、累積した不良債権の荷重に耐えかねて、山一證券、北海道拓殖銀行などなど、消え去ったり、政府の援助で再生など、「そういえばそんな銀行ありましたね」といったことになったのが1997年でした。
「不況がこんなに長くなるとは…」と予想外の長期不況に苦しんだ金融、証券業界だったようです。
この間アメリカは経常赤字の減少もあり、レーガノミクスの効果も出、さらにはITビジネスという新しい産業が興り(シリコンバレーが世界で有名に)経済の回復は著しく、1995年にはクリントン大統領・ルービン財務長官のコンビが「強いドル」政策を打ち出すなど、変化はありましたが、2000年にはITバブルがはじけ、その余波は日本にも及び、病み上がりの日本経済回復のスタートは2年遅れて2002年からの「いざなぎ越え」となったと認識しています。
前回、バブル崩壊後の日本のデフレ不況が、長期なものになった原因はプラザ合意による2倍の円高に日本経済が適応するため長期にわたるコストカットが必要だったことによると書きました。
そして確かに日本企業は、何とかそれをやり遂げました。しかし国内にはアジア諸国に進出した日本企業やアジア諸国の製品が急激に増えました。ブランドは日本企業でも、裏を見ればMade in Taiwan、Madein Malaysiaなどと書いてあるのが当たり前になりました。
通信や航空の世界では日本発はアメリカ発より通信料や運賃が大幅に高いという問題を、必死の努力で解決してきました。
価格を下げ、売り上げが下がれば、その分コストを下げなければ赤字・倒産というのが企業です。それを乗り越え、何とか >「減収減益」から「減収増益 」、つまり、売り上げ減より余計にコストを減らすといった状態に一部の企業が行き着いたのが2000年頃でした。
しかし、このプロセスは非正規従業員の著増をはじめ、多様なひずみを日本経済・社会に残しています。
この点についてはまた別途述べなければならないと思いますが、いずれにしても日本経済は10年余をかけて、2倍の円高を乗り切ったのです。
しかしその間、バブルに踊った証券会社や金融機関は、累積した不良債権の荷重に耐えかねて、山一證券、北海道拓殖銀行などなど、消え去ったり、政府の援助で再生など、「そういえばそんな銀行ありましたね」といったことになったのが1997年でした。
「不況がこんなに長くなるとは…」と予想外の長期不況に苦しんだ金融、証券業界だったようです。
この間アメリカは経常赤字の減少もあり、レーガノミクスの効果も出、さらにはITビジネスという新しい産業が興り(シリコンバレーが世界で有名に)経済の回復は著しく、1995年にはクリントン大統領・ルービン財務長官のコンビが「強いドル」政策を打ち出すなど、変化はありましたが、2000年にはITバブルがはじけ、その余波は日本にも及び、病み上がりの日本経済回復のスタートは2年遅れて2002年からの「いざなぎ越え」となったと認識しています。