tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

平成という時代:アメリカ経済との関係で見れば 1

2018年01月05日 16時00分53秒 | 経済
平成という時代:アメリカ経済との関係で見れば 1
 平成の30年を振り返ってみますと、こんな形だったと言えそうです。

平成元年は、バブルの崩壊直前のバブルの絶頂期でした。
しかし、直後にバブル崩壊が起き、その後、日本経済が初めて経験した超長期のデフレ不況に突入しました。この不況は、中身をよく見ると、2段階の不況になっています(のちに詳述)。
そして、多くの多様な後遺症を残しながら、漸く脱出に向かったのが平成24年でした。
最後の数年間、漸く泥沼の時代を脱出、何とか正常状態を取り戻そうと努力を重ね、後遺症に苦しみながらも、漸く目鼻が付いた時に平成は終わるという形です。

なぜ、世界でも有数な「まじめに働く日本人に」こんな時代が訪れたのか、この辺りは、アメリカ経済との関係を含めて考えないと理解は不可能なのではないでしょうか。

 平成元年、1989年はレーガン大統領の2期8年の最後の年でした。レーガン大統領は、スタグフレーションに苦しむアメリカの大統領になり、いわゆるレーガノミクスを導入しました。所得税の累進税率を低くし、企業減税を行い、富裕層を豊かにすれば、豊かさは下に及ぶというトリクルダウン仮説の実証にとりくみました。

 然し実績はなかなか上がらず、今の日本ではありませんが、「今のアメリカでは親の代のような豊かな暮らしは出来ない」と言われた時期でした。(成果を刈り取ったのはクリントン大統領)
 その脱出策の一環でもあったのでしょう。1985年、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5で日本に対する円切り上げの要請があり、日本代表の竹下蔵相は「OK」を出した「 プラザ合意」があったわけです。

 プラザ合意については今まで何度も触れているので要点だけ言えば、その後2年で円レートは$1=¥240から¥120になり、円は2倍に切りあがったのです。
 その結果、日本産業の多くは国際競争力を失い、海外進出を始め、産業空洞化が言われ始めました。

 アメリカの助言もあったようで、日本政府は、産業空洞化回避のために「内需拡大策」を指向し、大幅な金融緩和政策をとりました。その結果がバブル時代だったのです。
 金融機関は競って貸し出しに狂奔し、当時の土地神話と重なって、地価は急騰、それは都市近郊から全国に波及し、原野商法などと言う「土地さえ買っておけば」といった行動を生み、付随してゴルフ場の会員権など、土地に関わるものから、さらには書画骨董に至るまで暴騰しました。

 勿論、株もその先頭に立っていました。1990年の日経平均39,000円という記録もその時のものです。日本企業が、NYのロックフェラーセンターや、ティファニーを買ったといったニュースの流れました。
 「良くアメリカは文句を言わないね」などと言う評論家もいましたが、今考えれば、アメリカは冷静に、「いずれバブルはつぶれる、その時に安値で買い戻せばいい」と読んでいたのでしょう。

 国際的には2倍にハネ上がった円でコストを払っている日本の製造業、国際関係のサービス(通信、航空、海運など)の窮状を理解せず、円が高くなったことは、「日本の力量が認められたことで、日本の価値が上がったのだから結構な事」などと言う説も大手を振って罷り通っていたのが平成の始まった時期です。

 一方アメリカは対日貿易赤字削減の効果も大きかったようです。万年赤字と言われた経常赤字も一時ゼロに近づいています。

 バブルに浮かれていた日本では、そのすぐ後に円高地獄が迫っている事に気づかない人が殆どという状態でした。