思想や理念と政治の現実は一致しない
新自由主義をテーマに、経済、社会、金融などの側面から新自由主義と政治との関係を見て来ました。
その中で何か気になるのは、考え方、思想、学究としての新自由主義は理念の在り方としては理解できるものですが、それを政治の場に持ち込んだ時、かなりの「うさん臭さ」があるという事です。
これは、政治家が新自由主義の何たるかをきちんと理解していないという事もあるでしょうし、新自由主義を纏うころで、政策の正当性を補強しようとかいう理念とは違った邪念が入り込むからかと推量される所です。( 共産主義も同様
ですね)
特に覇権国であるアメリカの場合は、これまでも、デファクト・スタンダード、とかアメリカン・スタンダードとか言われますように、覇権国の権威や力で作られるスタンダード化するのですが、往々にして自己都合的なものであったりしますし、現在の米中貿易戦争のように、新自由主義から駆け離れて進化(変化、退化)しているものもあるわけです。
そんなわけで、今日の状況を前提にする限り、新自由主義などという言葉を使ったり、あてはめたりして、現実の政治との関係を論じるのは、多分あまり意味のないことではないかなどと思っていまします。
とはいえ、自由というのは、人間社会における大変重要な概念で、今、世界でも日本でも、大変不自由なことが多いので、思想や主義主張とは関係なしに、人間社会の中で、自由という概念をいかに生かして使うかという問題を、市井に住む一般庶民の立場で考えてみたいと思います。
思想的、哲学的には大変難しいことを、現実に社会生活をしている一般庶民は同考えればいいのでしょうか。
これは、日常の生活の中で、日々自由と不自由とを感じてみれば、その中から自然にヒントがでてくるもののように考えられるところです。
「自由」の反対は「規制」でしょう。世の中では自由と規制のせめぎ合いがいろいろな場で起きているのでしょう。
そして、自由でなければいけないとか、規制すべきだとかの議論が行われるのです。新自由主義の主張では「規制緩和」「規制撤廃」などといわれることが多いですね。
それでも規制を全部無くすことは、如何に新自由主義でも全く考えていないでしょう。多分規制はなるべく少ない方が良いということでしょうから、結局、議論になるのは「どの程度の規制が最適か」という妥協点を探す、つまり、立場のそれぞれに違う人が集まって、出来るだけ多くの人が納得できる妥協点を探すことが大事という事になります。
ここで、「出来るだけ多くの人が」という言葉が出て来るのですが、これが、政治のシステムとしての「民主主義」の原点でしょう。
自由と規制の妥協点を探すのには「民主主義」という政治システムが必須なのでしょう。その意味では、「自由民主党」という政党の「党名」は素晴らしいですね。
毎日のニュースを見て、その名にふさわしい政治をしてもらいたいと思いながら、庶民の考える現実的な自由と規制の考え方を、次回、取り上げてみたいと思います。