9月25日の土曜日に「変な経済学」を書きましたが、今回は(今日も土曜日ですので)その続きです。
日本の政府は国民が「カネを返せ」と言わないことを良いことに、無闇に国債を発行して国民から金を借り、選挙に有利なようにとカネをバラマキます。
それでもインフレになったり、円安にいなったりしないので、今の世の中、財政赤字でもいいのだというMMT理論が出てきました。
考えてみれば、これは日本とアメリカでしか成り立たないという特殊な状況の下でだけ成立のはずで、普通の国でやったら、忽ちIMF管理下に入るはずです。
アメリカは基軸通貨国で、財政と経常収支がいつも赤字ですが、黒字国は余った金をドル(通常米国債)で持つので、資本収支で遣り繰りが着くのでしょう。
日本の場合は、国民がIMF管理下でもないのに、自主的に貯蓄に励み、政府の借金の2倍もの貯蓄を持っているので、計上収支は万年黒字です。
何故経済が低迷しても赤字にならないのかというと、経済が低迷すると、真面目な国民はますます将来のためにと貯蓄をするので、何時も国民総所得を使い切らずに残し(将来への蓄え)、その分が、経常黒字になるという「キリギリス」ならぬ「アリ型」の経済になっているからです。政府にとっては「アリガタい」ことでしょう。
そんな特殊な場合のみ成り立つMMT理論がまかり通るのなら、逆提案で「こんなのもアリですか」と提起したのが「ますます変な経済理論」です。
政府がカネを印刷して、お金がなくて困っている国民に貸したらどうかという提案です。
国民が政府に「カネを返せ」といわないのと同じように、政府も返せとは言わない、出世払いでいいですというわけです。借金は相続して子供や孫が金持ちになったら返せばいいという事にします。
国民はカネが無くても、いつでも「政府サラ金から国債と同じゼロ利息、催促なしのカネ」を借りられますので、どんどん消費をし、景気は良くなり、みんな幸せになるのです。経済は活況、誰も金には困らない、こんな良いここはないという経済理論です。
国民が政府にゼロ金利で、返済の催促もしないカネを貸しているので、その逆を政府が国民に対してするのです。
これが成り立ったら、こんな良いことはないのですが、巧くいくのでしょうか、というのが問題です。
これに対して答えを考えてみました。
例えば、国民が政府に貸しているカネ、国債残高と、この「変な新理論」で政府が国民に貸しているカネが同額になったら、どうでしょう、お互い様で棒引きにすれば、国民と政府の貸し借りはチャラになって、「もう貸し借りなしよ」で一件落着・・・、とはいかないですよね。
政府は1人ですが、国民は大勢で、政府に金を貸しているのは金持ち、借りているのは貧しい人、です。
それを纏めてチャラでは、突然政府経由の徳政令で、金持ちから貧しい人に富が移転することになり、金持ちは納得しないでしょう。
本来は年々税制と社会保障の組み合わせで、高所得者から低所得者に所得の再配分がなされているべきだったという事でしょう。その必要性が、こうして見ると、ますますはっきりするという事でしょうか。
更に考えてみれば、貧しい人が政府から金を借りすとき黙って信用して貸すべきかという問題があります。
国民が国債を買う時に、政府が本当に必要なことに使うかどうか解らないのだから、逆の場合も詮索するなという理屈のあるかもしれませんが、曲がりなりにも国会の予算審議はあるのです。
こうしたことが成り立つ条件というのは、政府でも国民でも、金を借りるときは、本当に必要な金だけを借りる、そして真面目に返す努力をするといった倫理感の徹底が必要なのでしょうが、国会の予算審議でもそれが出来ないのに(選挙公約ではさらに)、対個人の場合はもっと大変でしょうし、カネの問題でそんなことを要求するのはもともと無理というものでしょう。
つまり、人間が全て、倫理的に相当程度完全でないとこの「変な経済学」は(本当はどんな経済学でも)成り立たないという事になってしまうようです。
渋沢栄一が「論語と算盤」を書き、アダム・スミスが「道徳感情論」を書いている所以でしょう。 、
日本の政府は国民が「カネを返せ」と言わないことを良いことに、無闇に国債を発行して国民から金を借り、選挙に有利なようにとカネをバラマキます。
それでもインフレになったり、円安にいなったりしないので、今の世の中、財政赤字でもいいのだというMMT理論が出てきました。
考えてみれば、これは日本とアメリカでしか成り立たないという特殊な状況の下でだけ成立のはずで、普通の国でやったら、忽ちIMF管理下に入るはずです。
アメリカは基軸通貨国で、財政と経常収支がいつも赤字ですが、黒字国は余った金をドル(通常米国債)で持つので、資本収支で遣り繰りが着くのでしょう。
日本の場合は、国民がIMF管理下でもないのに、自主的に貯蓄に励み、政府の借金の2倍もの貯蓄を持っているので、計上収支は万年黒字です。
何故経済が低迷しても赤字にならないのかというと、経済が低迷すると、真面目な国民はますます将来のためにと貯蓄をするので、何時も国民総所得を使い切らずに残し(将来への蓄え)、その分が、経常黒字になるという「キリギリス」ならぬ「アリ型」の経済になっているからです。政府にとっては「アリガタい」ことでしょう。
そんな特殊な場合のみ成り立つMMT理論がまかり通るのなら、逆提案で「こんなのもアリですか」と提起したのが「ますます変な経済理論」です。
政府がカネを印刷して、お金がなくて困っている国民に貸したらどうかという提案です。
国民が政府に「カネを返せ」といわないのと同じように、政府も返せとは言わない、出世払いでいいですというわけです。借金は相続して子供や孫が金持ちになったら返せばいいという事にします。
国民はカネが無くても、いつでも「政府サラ金から国債と同じゼロ利息、催促なしのカネ」を借りられますので、どんどん消費をし、景気は良くなり、みんな幸せになるのです。経済は活況、誰も金には困らない、こんな良いここはないという経済理論です。
国民が政府にゼロ金利で、返済の催促もしないカネを貸しているので、その逆を政府が国民に対してするのです。
これが成り立ったら、こんな良いことはないのですが、巧くいくのでしょうか、というのが問題です。
これに対して答えを考えてみました。
例えば、国民が政府に貸しているカネ、国債残高と、この「変な新理論」で政府が国民に貸しているカネが同額になったら、どうでしょう、お互い様で棒引きにすれば、国民と政府の貸し借りはチャラになって、「もう貸し借りなしよ」で一件落着・・・、とはいかないですよね。
政府は1人ですが、国民は大勢で、政府に金を貸しているのは金持ち、借りているのは貧しい人、です。
それを纏めてチャラでは、突然政府経由の徳政令で、金持ちから貧しい人に富が移転することになり、金持ちは納得しないでしょう。
本来は年々税制と社会保障の組み合わせで、高所得者から低所得者に所得の再配分がなされているべきだったという事でしょう。その必要性が、こうして見ると、ますますはっきりするという事でしょうか。
更に考えてみれば、貧しい人が政府から金を借りすとき黙って信用して貸すべきかという問題があります。
国民が国債を買う時に、政府が本当に必要なことに使うかどうか解らないのだから、逆の場合も詮索するなという理屈のあるかもしれませんが、曲がりなりにも国会の予算審議はあるのです。
こうしたことが成り立つ条件というのは、政府でも国民でも、金を借りるときは、本当に必要な金だけを借りる、そして真面目に返す努力をするといった倫理感の徹底が必要なのでしょうが、国会の予算審議でもそれが出来ないのに(選挙公約ではさらに)、対個人の場合はもっと大変でしょうし、カネの問題でそんなことを要求するのはもともと無理というものでしょう。
つまり、人間が全て、倫理的に相当程度完全でないとこの「変な経済学」は(本当はどんな経済学でも)成り立たないという事になってしまうようです。
渋沢栄一が「論語と算盤」を書き、アダム・スミスが「道徳感情論」を書いている所以でしょう。 、