昨日は、手話通訳フォーラムに参加しました。自主的に100人を超える仲間が集まり、自律的に運営しながら長く続いています。
私は健康の分科会に参加しこれまでの事など色々話をさせてもらいました。
手話通訳の健康破壊問題は手話通訳者自身が主体的に取り組むことをしないと解決はしていきません。
その中ではきちんと雇用主の責任も問うていかないといけないでしょう。
忖度しない取り組みの中にこそ前へ進む道は開かれる・・・と僕は考えています。
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昨日は、手話通訳フォーラムに参加しました。自主的に100人を超える仲間が集まり、自律的に運営しながら長く続いています。
私は健康の分科会に参加しこれまでの事など色々話をさせてもらいました。
手話通訳の健康破壊問題は手話通訳者自身が主体的に取り組むことをしないと解決はしていきません。
その中ではきちんと雇用主の責任も問うていかないといけないでしょう。
忖度しない取り組みの中にこそ前へ進む道は開かれる・・・と僕は考えています。
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昨日は夜 広通研の集まりがあったので 手話センターひろしまへ行き マスコバド糖を買ってきました。
袋に「生産者の自立を応援します」とはいっているこの砂糖はフィリピン・ネグロスの砂糖きび農家と製造者を応援しています。ずっと前にグリーンコープの旅行で、ここを訪れたことがあります。
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昨日は手話サークルあすなろのそうめん会
聞こえる人聞こえない人・・・準備が始まりました。
そうめんこれだけで足りるん?
準備も整ったようで
話というより口の動きが・・・・が弾みます。
そうめんはもちろん、広通研で売っている 島原そうめんです。
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9月12日から 手話サークルあすなろの 手話入門講座が始まります。
どなたでも参加できます。ぜひお申し込みください。
申込先は 広島市中区社会福祉協議会です。
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手話サークルあすなろ、恒例のそうめん会 今年は 8月8日18:40から 広島市男女共同参画センター(鷹野橋)ですよ、お間違い無く。 参加費は200円
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今年も手話入門講座が始まります
中央ライオンズクラブや中国新聞社会事業団、広島市ろうあ協会、広島県手話通訳問題研究会などの後援と中区社会福祉協議会のご協力を得て 今年も手話入門講座が始まります。
1974年に始まったんやからもう何年になるんかなあ。
あすなろの会員にずっと引き継がれてきた手話入門講座、ぜひお越しください。
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被害が今以上に広がらんようによく降りましたねえ。各地で被害が出とるようです。今以上に広がらんように願っとります。 今日久しぶりに朝ゆっくり仕事に出かけました。というても10半過ぎには・・・・気づい......
一年前にも「よく降りましたねえ・・」と書いとるようやけど、今日もよう降ったなあ。
できることは一緒に、でけへんことは別々に ちゃうところはしっかりちゃうで!というて・・・とこんなことを計画しました。
司法の手話通訳いうたら、裁判の通訳が多かったんやけど、今監獄法がなくなって、矯正施設でも社会へ出てからの暮らしを立て直すための教育が始まってるわ。まだまだ全部の入所者にとはいかんみたいやけど
聞こえない人はその教育の対象になっとるんやろかなあ。僕はなってないと思うねん、コミュニケーションが難しいから言うて・・・
ここらにも手話通訳者が取り組まなあかんとこはいっぱいあるで。「泥棒やっとんねん」と聞こえない人の中でもさらにのけもんにされとるみたいなとこがあるさかい・・・なあ。
すごいあめやったなあ。
今日は久しぶりに手話通訳の依頼がありました。
学生時代に住んでいた町を自転車で通ったのですが、道が変わってしまっており、「ええここに出てくるんか」とか「このお店話前もあったなあ」とか・・・
広島と手話 呉市広町
先日随分久しぶりに呉市のSさんとお話をする機会がありました。
私が手話を学び始めた47.8年前からずっとお世話になっている方です。
私も4年間ほどSさんの宅の近くの公舎に住んでおりました。
お話を伺っているうちに懐かしい「ひろ」の手話地名が出てきました。
広村は黒瀬川河口部の低地を中心に発達してきた村で1910年当時の内務省が「模範村選奨制度」が始まった際、最初に表彰を受け1000円を受領たそうです。
財政的にも豊かだったのでしょう、広村は1921(大正10)年呉海軍工廠広支廠ができ(2年後には広海軍工廠となります)急激に人口が増え「広市」としての市政施行を目指していたようですが、海軍や広島県、呉市の意向で潰されてしまい独自の都市計画構想は無くなったとのこと。
その後日本が戦争への歩みを急激に進める中で全国で初めて絵の海軍航空機部と機関研究部が作られています。さらに1941年には航空機部が独立して第11海軍航空廠となります。
そんな歴史の中で作られ使われ続けてきたのでしょう「呉市広町」は「複葉機」の形で表されていました。
胸の前で平行に並べた両手を前に出します。
今はこんな手話表現は年配ろう者同士の話の中で時に使われているところを見るくらいです。
日本が憲法で戦争と手を切ってから70年、戦争にまつわる手話地名が再び作られることのないようにと強く願っています。
広島と手話 呉市広町
先日随分久しぶりに呉市のSさんとお話をする機会がありました。
私が手話を学び始めた47.8年前からずっとお世話になっている方です。
私も4年間ほど住吉さんの宅の近くの公舎に住んでおりました。
お話を伺っているうちに懐かしい「ひろ」の手話地名が出てきました。
広村は黒瀬川河口部の低地を中心に発達してきた村で1910年当時の内務省が「模範村選奨制度」が始まった際、最初に表彰を受け1000円を受領たそうです。
財政的にも豊かだったのでしょう、広村は1921(大正10)年呉海軍工廠広支廠ができ(2年後には広海軍工廠となります)急激に人口が増え「広市」としての市政施行を目指していたようですが、海軍や広島県、呉市の意向で潰されてしまい独自の都市計画構想は無くなったとのこと。
その後日本が戦争への歩みを急激に進める中で全国で初めて絵の海軍航空機部と機関研究部が作られています。さらに1941年には航空機部が独立して第11海軍航空廠となります。
そんな歴史の中で作られ使われ続けてきたのでしょう「呉市広町」は
「複葉機」の形で表されていました。
手話「飛行機」の古い表現ですね。胸の前で上下に並行に両手を並べ前へ2回ほど出します。
今はこんな手話表現は年配ろう者同士の話の中で時に使われているところを見るくらいです。
日本が憲法で戦争と手を切ってから70年、戦争にまつわる手話地名が再び作られることのないようにと強く願っています。