守田です。(20110717 22:30)
気仙沼のアビスさんから久しぶりの便りが届きましたので、みなさんに
お届けします。僕自身は「久しぶり」と言っても、アビスさんとは、そ
の後、時々、スカイプなどでお話しして、様子を聞いているのですが、
今回はアビスさんにとっても、久しぶりに被災地の様子をじっくり見て
まわった上での、報告ではないかと思います。
こうした報告が可能になったのは、アビスさんがある方の津波の被災状
況の取材にドライバーとして同行したためです。取材は主に津波にあっ
た漁師さんたちを対象に行われそうです。その中でアビスさんにとって
も疑問だった、津波後に無傷で港に係留されていた船が、船主さんによ
って、どのようにして守られたのかなどが報告されています。
これを読んで僕が思ったのは、ああ、もっと被災地のことを知らなけれ
ばという思いでした。被災から4カ月余り。東北の太平洋側沿岸部はまだ
まだ本当に大変な状況にある。やはりそのことにももっとフォーカスし
なければいけない。もう一度、取材にいかなければならないと強く思い
ました。それには時間と資金が必要です。なんとかひねりださねば・・・
ともあれ久しぶりのアビス節をお読みください。
********************************
気仙沼のアビスさんから
7月16日12時24分
5月の末ぐらいの風邪で、体調を崩し、
その後腰痛に悩まされ、
体調が戻ったころにふと気がつくと、
サイフの中身は栄養失調だった。
そんなこんなでご無沙汰の、近況報告です。
まずは、サイフに、栄養を付けさせてあげなければと言うことで、
あせり始めたタイミングで、
仙台に移り住んだ九州男児の東君から仕事の誘い。
東君は、廃材ライブと称して、
廃材を使った建築、改築などをしている人。
金欠で、困りだしたタイミングに、ジャストなお誘い。
バイトの内容は、気仙沼の大谷という津波の被害を受けた地域で、
家が傾き、行政の解体を待っている建物から、
今は貴重になった屋根材のスレート材。
雄勝石と呼ばれる天然石を加工した屋根材の回収。
親方の東君は、前に獏原人村満月祭で会った、
福島県会津在住の大工さん、脇君と、
被災したドライブインからの仕事で、
ドライブインの前に、コテージの様な屋根をつける仕事。
途中、福島原発のために強制避難することになった
双葉町在住の獏の満月祭でおなじみのファイヤーマン、
棟梁、やっさんが助っ人に来ました。
このプロジェクトは、仙台在住のオータムさんの企画で、
近所にあるSunyDayと言うお店に、寝泊りさせてもらってました。
SunyDayのオナーは、今野君といって、高校の同級生です。
屋根材の回収も順調に行って、バイトが終了。
さあ、どうしようかと言うタイミングで、
オータムさんにアメリカから来たライターさんの、
津波の被害を取材するためのドライバーを探して欲しいと言う依頼。
これは、またまたグッドなタイミング。
その仕事を引き受けました。
今回の津波の被災状況を取材に来たのは、
アメリカ人の、グレーテルさん。
何冊か書かれた本の中で、
「やすらかな大地」と言う本は、
翻訳されているそうです。
シリーズ・ナチュラリストの本棚
グレテル・アーリック/明石三世訳
東京書籍
彼女のH.P http://www.gretel-ehrlich.com/index.html
「やすらかな大地」 http://p.tl/Bv_2
彼女は、日本語はぜんぜんで通訳にNikkiちゃんと言う、
ニュージーランドと日本人のハーフの子が同行してくれました。
Nikkiちゃんのブログ
http://pipsqueak.exblog.jp/
http://ameblo.jp/tokyofreegan/
思いもおらない流れで、3人の取材ツアーと言う流れに、
乗っかることになりました。
グレーテルさんの取材目的は、津波にあった漁師さんたちでした。
取材と言う流れに乗っかったので、
今までには聞けない話がいっぱいありました。
今までに、気仙沼の漁村の避難所へ、物資を届けた時によく目にして、
疑問に思っていたのが、無傷の漁船が何艘か見かけたことでした。
その事について、聞きたかった事は何度かありましたが、
いつも聞くタイミングを外していました。
地震が起きたときに、ちょうど沖で漁をしていたんだろうかと思っていました。
そんなタイミングで津波をやり過ごせた船も、あったそうです。
しかし、地震の起きた時、港にいた船主さん達は、
車を捨てる覚悟で港まで車を走らせ、
船を沖に向けて走らせた人もいるそうです。
そうやって、船を守れた人もいるし、その思いがかなわなかった人も、、、。
今回、話を聞けた岩手県宮古市の漁師さんは、
3月11日から2日間、沖で津波が収まるの待っていたそうです。
津波をやり過ごす時には、水深130mの所まで来れたので、
そんなに大きな波の起伏は感じなかったと言ってました。
ほかで聞いたある漁師さんの話では、崖のように迫り来る波を乗り切り、
やり過ごして助かったと、語っていた人もいました。
港に帰ろうとした頃は、
船の周りは瓦礫で航行に支障があるくらいだったといってました。
生きるか、死ぬかの瀬戸際を乗り切り、船を守った人たち。
やっと辿り着いた港で待っていたのは、津波による諸問題。
そんな中で、今後漁師さんにのしかかって来るのは、
原発事故による彼らの職場なる海の汚染問題。
政府、東電の方々は、
こんな想いで船を守った漁師さんたちがいるなんて事を、
想像する事があるのでしょうかねぇ?
そして、その漁師さんたちの生活の糧になる場所を、
汚染させてしまった事を、どうとらえているんでしょうかねぇ?
岩手県での取材は、ほかにもいろいろありましたが、
通訳のNikiちゃんが、ネットで宮城県牡鹿半島の先端に近い集落で、
食料の不足に困っている所があることを発見。
急きょ、牡鹿半島の新山浜と言う集落に、
食料と物資を届けることになりました。
グレーテルさんと、Nikiちゃんと俺とで、カンパという形で、
米、120kといろいろを、石巻で買い揃えました。
HIBAKU原人村の口座に皆さんから振り込まれた義援金の中から、
1万5千円を、カンパとして出させていただきました。
買い揃えた食料と、俺の家に送ってもらった支援物資を載せて、
牡鹿半島の先端を目指しました。
通れると思った山沿いのコバルトラインという道は、
途中で通行止めになってしまいました。
通行止めになる手前で、見晴らしのいい所から、
風光明媚という表現がぴったりな景色。
そんな景色の中に、女川原発が、山の陰から頭を出していました。
一度来た道を引き返し、海岸線の道を使い新山浜を目指しました。
今回の地震の震源は、牡鹿半島沖。
震源に一番近かった場所。
石巻市鮎川では、地震から15分ぐらいで津波が到着したそうです。
鮎川の半島の山を挟んで北側にある集落が、今回の目的地の新山浜です。
そこの集落は、25世帯に80人ほどが住んでいるそうです。
港から、急な坂道沿いに家が建っているおかげで、
家の損壊は無かったのですが、
生活の糧である漁船が、50隻のうち助かったのは5隻ほどだったそうです。
家は残ったが、船を失い、地震直後は道路状況も大変だったらしいです。
石巻市内に住む、身内の安否を確認したくて、
10時間も歩いて行った人もいるそうです。
牡鹿半島の先に近いところは、文字どうり陸の孤島になっていたようです。
新山浜の港で、隣の集落の漁師さんに、話を聞くことが出来ました。
やっと近々、女川の市場が営業を始めるらしいと、言ってました。
しかし、漁師さんとしては、
近海の海の底は、瓦礫などで網をかけられる状態ではないと言ってました。
生々しい話も聞けましたが、要約すると、
自然界の猛威に晒され、文明と言うとガードを失った人間は、
食物連鎖の頂点にいるわけではないということに、直面する。
いつでも、その連鎖の底辺に近いところに放り出される可能性がある。
今回の津波でも、文明の恩恵を受けることなく、
多くの人が自然の摂理に従って、循環のサークルに組み込まれてしまった。
「板子一枚の下は地獄」そんな状況を職場にした海の男達は、
何かあれば、食物連鎖のピラミッドの底辺に転げ落ちることを、
常に自覚しているから、多くの行方不明者がいる現状では、
近海の漁を自粛している人もいるとのことでした。
グレーテルさんの運転手としての最後の目的地は、
石巻市の北上川沿いにある、お寺さんでした。
そこで、アメリカから来た尼さんにお会いすることが目的でした。
その時、住職さんから聞いた話ですが、
近くにあった小学校が、想定外の津波により避難した所に津波が押し寄せ、
多くの子供達が波にのまれてしまったそうです。
まだ、何人かの子供が行方不明状態だそうです。
そんな中の一人のお母さんが、
はじめはスコップ片手に子供を捜していたそうですが、
最近は、ユンボの免許を取り、個人でユンボを使い、
わが子を探しているそうです。
今回の取材の同行という立場で、普段あえて聞こうとしなかった話を、
いろいろ聞けました。
気仙沼のアビスさんから久しぶりの便りが届きましたので、みなさんに
お届けします。僕自身は「久しぶり」と言っても、アビスさんとは、そ
の後、時々、スカイプなどでお話しして、様子を聞いているのですが、
今回はアビスさんにとっても、久しぶりに被災地の様子をじっくり見て
まわった上での、報告ではないかと思います。
こうした報告が可能になったのは、アビスさんがある方の津波の被災状
況の取材にドライバーとして同行したためです。取材は主に津波にあっ
た漁師さんたちを対象に行われそうです。その中でアビスさんにとって
も疑問だった、津波後に無傷で港に係留されていた船が、船主さんによ
って、どのようにして守られたのかなどが報告されています。
これを読んで僕が思ったのは、ああ、もっと被災地のことを知らなけれ
ばという思いでした。被災から4カ月余り。東北の太平洋側沿岸部はまだ
まだ本当に大変な状況にある。やはりそのことにももっとフォーカスし
なければいけない。もう一度、取材にいかなければならないと強く思い
ました。それには時間と資金が必要です。なんとかひねりださねば・・・
ともあれ久しぶりのアビス節をお読みください。
********************************
気仙沼のアビスさんから
7月16日12時24分
5月の末ぐらいの風邪で、体調を崩し、
その後腰痛に悩まされ、
体調が戻ったころにふと気がつくと、
サイフの中身は栄養失調だった。
そんなこんなでご無沙汰の、近況報告です。
まずは、サイフに、栄養を付けさせてあげなければと言うことで、
あせり始めたタイミングで、
仙台に移り住んだ九州男児の東君から仕事の誘い。
東君は、廃材ライブと称して、
廃材を使った建築、改築などをしている人。
金欠で、困りだしたタイミングに、ジャストなお誘い。
バイトの内容は、気仙沼の大谷という津波の被害を受けた地域で、
家が傾き、行政の解体を待っている建物から、
今は貴重になった屋根材のスレート材。
雄勝石と呼ばれる天然石を加工した屋根材の回収。
親方の東君は、前に獏原人村満月祭で会った、
福島県会津在住の大工さん、脇君と、
被災したドライブインからの仕事で、
ドライブインの前に、コテージの様な屋根をつける仕事。
途中、福島原発のために強制避難することになった
双葉町在住の獏の満月祭でおなじみのファイヤーマン、
棟梁、やっさんが助っ人に来ました。
このプロジェクトは、仙台在住のオータムさんの企画で、
近所にあるSunyDayと言うお店に、寝泊りさせてもらってました。
SunyDayのオナーは、今野君といって、高校の同級生です。
屋根材の回収も順調に行って、バイトが終了。
さあ、どうしようかと言うタイミングで、
オータムさんにアメリカから来たライターさんの、
津波の被害を取材するためのドライバーを探して欲しいと言う依頼。
これは、またまたグッドなタイミング。
その仕事を引き受けました。
今回の津波の被災状況を取材に来たのは、
アメリカ人の、グレーテルさん。
何冊か書かれた本の中で、
「やすらかな大地」と言う本は、
翻訳されているそうです。
シリーズ・ナチュラリストの本棚
グレテル・アーリック/明石三世訳
東京書籍
彼女のH.P http://www.gretel-ehrlich.com/index.html
「やすらかな大地」 http://p.tl/Bv_2
彼女は、日本語はぜんぜんで通訳にNikkiちゃんと言う、
ニュージーランドと日本人のハーフの子が同行してくれました。
Nikkiちゃんのブログ
http://pipsqueak.exblog.jp/
http://ameblo.jp/tokyofreegan/
思いもおらない流れで、3人の取材ツアーと言う流れに、
乗っかることになりました。
グレーテルさんの取材目的は、津波にあった漁師さんたちでした。
取材と言う流れに乗っかったので、
今までには聞けない話がいっぱいありました。
今までに、気仙沼の漁村の避難所へ、物資を届けた時によく目にして、
疑問に思っていたのが、無傷の漁船が何艘か見かけたことでした。
その事について、聞きたかった事は何度かありましたが、
いつも聞くタイミングを外していました。
地震が起きたときに、ちょうど沖で漁をしていたんだろうかと思っていました。
そんなタイミングで津波をやり過ごせた船も、あったそうです。
しかし、地震の起きた時、港にいた船主さん達は、
車を捨てる覚悟で港まで車を走らせ、
船を沖に向けて走らせた人もいるそうです。
そうやって、船を守れた人もいるし、その思いがかなわなかった人も、、、。
今回、話を聞けた岩手県宮古市の漁師さんは、
3月11日から2日間、沖で津波が収まるの待っていたそうです。
津波をやり過ごす時には、水深130mの所まで来れたので、
そんなに大きな波の起伏は感じなかったと言ってました。
ほかで聞いたある漁師さんの話では、崖のように迫り来る波を乗り切り、
やり過ごして助かったと、語っていた人もいました。
港に帰ろうとした頃は、
船の周りは瓦礫で航行に支障があるくらいだったといってました。
生きるか、死ぬかの瀬戸際を乗り切り、船を守った人たち。
やっと辿り着いた港で待っていたのは、津波による諸問題。
そんな中で、今後漁師さんにのしかかって来るのは、
原発事故による彼らの職場なる海の汚染問題。
政府、東電の方々は、
こんな想いで船を守った漁師さんたちがいるなんて事を、
想像する事があるのでしょうかねぇ?
そして、その漁師さんたちの生活の糧になる場所を、
汚染させてしまった事を、どうとらえているんでしょうかねぇ?
岩手県での取材は、ほかにもいろいろありましたが、
通訳のNikiちゃんが、ネットで宮城県牡鹿半島の先端に近い集落で、
食料の不足に困っている所があることを発見。
急きょ、牡鹿半島の新山浜と言う集落に、
食料と物資を届けることになりました。
グレーテルさんと、Nikiちゃんと俺とで、カンパという形で、
米、120kといろいろを、石巻で買い揃えました。
HIBAKU原人村の口座に皆さんから振り込まれた義援金の中から、
1万5千円を、カンパとして出させていただきました。
買い揃えた食料と、俺の家に送ってもらった支援物資を載せて、
牡鹿半島の先端を目指しました。
通れると思った山沿いのコバルトラインという道は、
途中で通行止めになってしまいました。
通行止めになる手前で、見晴らしのいい所から、
風光明媚という表現がぴったりな景色。
そんな景色の中に、女川原発が、山の陰から頭を出していました。
一度来た道を引き返し、海岸線の道を使い新山浜を目指しました。
今回の地震の震源は、牡鹿半島沖。
震源に一番近かった場所。
石巻市鮎川では、地震から15分ぐらいで津波が到着したそうです。
鮎川の半島の山を挟んで北側にある集落が、今回の目的地の新山浜です。
そこの集落は、25世帯に80人ほどが住んでいるそうです。
港から、急な坂道沿いに家が建っているおかげで、
家の損壊は無かったのですが、
生活の糧である漁船が、50隻のうち助かったのは5隻ほどだったそうです。
家は残ったが、船を失い、地震直後は道路状況も大変だったらしいです。
石巻市内に住む、身内の安否を確認したくて、
10時間も歩いて行った人もいるそうです。
牡鹿半島の先に近いところは、文字どうり陸の孤島になっていたようです。
新山浜の港で、隣の集落の漁師さんに、話を聞くことが出来ました。
やっと近々、女川の市場が営業を始めるらしいと、言ってました。
しかし、漁師さんとしては、
近海の海の底は、瓦礫などで網をかけられる状態ではないと言ってました。
生々しい話も聞けましたが、要約すると、
自然界の猛威に晒され、文明と言うとガードを失った人間は、
食物連鎖の頂点にいるわけではないということに、直面する。
いつでも、その連鎖の底辺に近いところに放り出される可能性がある。
今回の津波でも、文明の恩恵を受けることなく、
多くの人が自然の摂理に従って、循環のサークルに組み込まれてしまった。
「板子一枚の下は地獄」そんな状況を職場にした海の男達は、
何かあれば、食物連鎖のピラミッドの底辺に転げ落ちることを、
常に自覚しているから、多くの行方不明者がいる現状では、
近海の漁を自粛している人もいるとのことでした。
グレーテルさんの運転手としての最後の目的地は、
石巻市の北上川沿いにある、お寺さんでした。
そこで、アメリカから来た尼さんにお会いすることが目的でした。
その時、住職さんから聞いた話ですが、
近くにあった小学校が、想定外の津波により避難した所に津波が押し寄せ、
多くの子供達が波にのまれてしまったそうです。
まだ、何人かの子供が行方不明状態だそうです。
そんな中の一人のお母さんが、
はじめはスコップ片手に子供を捜していたそうですが、
最近は、ユンボの免許を取り、個人でユンボを使い、
わが子を探しているそうです。
今回の取材の同行という立場で、普段あえて聞こうとしなかった話を、
いろいろ聞けました。