16日(土)。昨夜、NHK-Eテレの「あらら?クラシック」、じゃなくて「らららクラシック」を観ました 「心に寄り添う音楽」と題して、ピアノ=ランラン、仲道郁代、フルート=パユ、ギター=朴キュヒ、ヴァイオリン=庄司紗耶香、ハープ=メストレ、チェンバロ=鈴木優人、チェロ=ケラス、ソプラノ=森麻季といった世界を代表する9人のアーティストが登場し、それぞれ「巣ごもり」を余儀なくされた人々のためにメッセージを寄せ、5分程度の演奏を繰り広げました 私が注目したのは選曲です。9人のうちランラン、庄司、鈴木、ケラスの4人がバッハの音楽を取り上げていたのです 人間の力ではどうすることもできない新型コロナウイルスという不条理を前にして、「心に寄り添う音楽」として多くの演奏家から選ばれるのがバッハであることの意味は大きいと思います こういう時こそバッハなのでしょう
バッハついでに、昨日「バッハ・コレギウム・ジャパン」から5月24日開催予定の定期演奏会の延期と、それに伴うチケット代の取り扱いについて連絡がありました それによると、同公演は12月16日(水)19時から東京オペラシティコンサートホールに延期となりました。払い戻しを希望する場合は同封の申込書に必要事項を記入しチケットと供に送付することになっています 私は12月16日に予定が入っていないので振替公演を聴くことにしました
6月の「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン」の公演中止に伴う払い戻しが昨日から始まりました 私は11公演分の払い戻しになりますが、チケットの購入先で払い戻す必要があります。葵トリオほか全5公演についてはWEBで取りましたが、発券がセブンイレブンだったのでセブンイレブンで払い戻しをしました 残りの6公演(アトリウム弦楽四重奏団)については6枚セット券をWEBで取り サントリーホール窓口で発券しました この場合は①現在閉鎖中のホール窓口の営業再開を待つ、②チケットぴあ(株)のメールセンター払戻係に所要事項を書いたメモとチケットを同封して送付する、のいずれかを選択することになります ②の場合は実際の払い戻しがかなり先になりそうなので、営業自粛要請は6月1日に解除されるだろうという見込みのもとに、①を採ろうと思います
それにしても、毎日のようにコンサートが中止になった、とか、払い戻しをした、とか、いつまで書いていれば良いのだろうか、と自分でもイヤになってきます まだ続きますが
ということで、わが家に来てから今日で2054日目を迎え、トランプ米大統領は14日放映のFOXビジネステレビのインタビューで、新型コロナウイルスへの中国の対応について「とても失望している。私たちは多くの措置を取ることができる。中国との関係を遮断することもできる」と重ねて不満を述べた というニュースを見て感想を述べるモコタロです
米国民は貴方の初期対応に失望している 貴方との関係を遮断することもできる
昨日の夕食は「ニラ玉」と「サバみそ」でした ニラ玉はニラをたっぷり入れましたが、卵と一緒に食べるととても美味しいです
今日はモーツアルトの「弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516」が完成した日です この曲はウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)が1787年春ごろに作曲し、同年5月16日に完成させた作品です ほぼ同時期に作曲された「弦楽五重奏曲 第3番ハ長調K.515」とは姉妹作品で、明るい曲想の第3番、憂いに満ちた第4番と、対照的な性格を持っています 第4番K.516 は、完成直後の5月28日に死去することになる父レオポルトの病気の悪化が影響しているのではないか、という指摘があります
第1楽章「アレグロ」、第2楽章「メヌエット:アレグレット」、第3楽章「アダージョ・マ・ノン・トロッポ」、第4楽章「アダージョ ~ アレグロ」の4楽章から成り、楽器編成はヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ1です
この曲の第1楽章は小林秀雄の珠玉のエッセイ「モオツァルト」の中で引用されていることで、あまりにも有名です それは次のような文章で表されています
「スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根底は tristesse(かなしさ)というものだ、と言った。定義としてはうまくないが、無論定義ではない。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽がtristesse を濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesse を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトの tristesse は縁がない様である。それは、凡そ次の様な音を立てる。アレグロで。(ト短調クィンテット、K.516)
※ここに K.516の第1楽章「アレグロ」冒頭の楽譜が掲載されている
ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引き摺っていないだけだ。彼は悲しんでいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない」
私を含めて、どれほど多くのモーツアルティアンがこの文章の影響を受けたことでしょうか
私は今、アマデウス四重奏団とセシル・アロノヴィツ(第2Va)によるCD(1950年録音:ウエストミンスター盤)でこの曲を聴きながらブログを書いていますが、アマデウス・クァルテットのモーツアルトは最高です