23日(日)。昨日の朝、西巣鴨交差点近くの小学校の桜が咲いていました ケータイで写メして、ブログ掲載用にとメールに添付して送信したのですが、「サイズが大きすぎます。添付できません」という無慈悲な表示が出てきます せっかく証拠写真を撮ったのに残念です 近くの染井霊園の”ソメイヨシノ”はまだ咲いていないので、別の種類の桜だと思います
閑話休題
昨日、初台の東京オペラシティコンサートホールで東京交響楽団オペラシティシリーズ第78回公演を聴きました オール・ハイドン・プログラムで①交響曲第1番、②ピアノ協奏曲ハ長調、③ピアノ協奏曲ニ長調、④交響曲第104番「ロンドン」です。指揮は東響音楽監督最後のコンサートに臨むユベール・スダ―ン、②と③のフォルテピアノ独奏はピート・クイケンです
オケがスタンバイします。コンマスはグレブ・ニキティンです。最初はハイドンの交響曲第1番ということで、オケの編成は25人規模です 交響曲なのに何故か指揮者の正面にフォルテピアノが置かれ、ソリストのピート・クイケンがスタンバイします プログラムを読むと、通奏低音を担う楽器としてフォルテピアノが使用されることが判りました
ハイドンは「交響曲の父」と言われます。この第1番の交響曲が作られたのは1759年と言われており、この日後半に演奏される最後の交響曲第104番が1795年に作曲されたということですから、36年もの長きにわたり交響曲を作曲し続けたことになります 年齢で言えば27歳から63歳までに当たります。ただ交響曲を作っただけではなく、一曲一曲に新しいアイディアを盛り込んで実験を続けていった訳ですから、まさに「交響曲の父」に相応しい偉人と言えるでしょう
第1番は第1楽章「プレスト」、第2楽章「アンダンテ」、第3楽章「プレスト」の3楽章から成ります。いずれハイドンは「4楽章形式」を確立しますが、若きハイドンの作品はまだ3楽章です。午前中、アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカのCDで予習しておきました
いつも通りスダーンはタクトを持たずに登場します。アイ・コン・タクトで十分です ハイドンの時代を考慮してか、指揮台も使いません。スダーンの合図で第1楽章が開始されます。溌剌とした明るい音楽で、若きハイドンの意気込みが感じられます 第2楽章では通奏低音のフォルテピアノが活躍します。第3楽章では再び溌剌とした音楽が展開します
ここで管楽器奏者とヴィオラ奏者が退場します。プログラムに「お詫びと訂正」が挟み込まれていましたが、その内容は、次に演奏するピアノ協奏曲ハ長調の楽器編成についてでした (誤)独奏フォルテピアノ、弦5部→(正)独奏フォルテピアノ、弦4部(ヴァイオリンⅠ、Ⅱ、チェロ、コントラバス)となっています プログラム編集者は、まさか弦楽セクションからヴィオラだけが除外されるとは思ってもいなかったのではないかと同情します
ピアノ協奏曲ハ長調は、ハイドンが初めて手掛けた鍵盤楽器のための協奏曲で、初期の作品です 「別の作曲家による作品ではないか」という佐村河内守問題さながらの疑問が出されているようですが、聴く限りにおいて、ハイドンらしい曲想です だいいち、当時は新垣隆氏は居ませんでしたしね
ここで全4プログラムのうち2曲が終わったため、休憩時間と勘違いしたお客さんが席を立ってドアから出て行きました が、係員に説得されたのか、また戻ってきました。人のことは笑えません。私もそうしようかと思っていたので
舞台上に、再び管楽器奏者とヴィオラ・セクションが戻ってきて3曲目のピアノ協奏曲ニ長調に移ります。この曲は1782年から84年にかけて作曲されたと言われています 第1楽章「ヴィヴァーチェ」、第2楽章「ウン・ポーコ・アダージョ」、第3楽章「ハンガリー風のロンド」から成ります。第1楽章は、やはり溌剌とした明るい感じの曲想で、今の春の季節に相応しい曲です 第3楽章は標題にあるようにハンガリー風の舞曲に影響を受けた面白いメロディーで、楽しめました お恥ずかしい話ですが、私はそもそも、ハイドンのピアノ協奏曲を聴くのは初めてで、というか、ハイドンがピアノ協奏曲を書いていたとは知りませんでした。モーツアルトの陰にすっかり隠れていたのではないかと推測します
会場一杯の拍手に、クイケンはハイドンの「アダージョ・ハ長調」を静かにしみじみと演奏しました
ここで本当の休憩時間になりました。20分後、席に戻る時、あたりをきょろきょろして席に座ろうとする指揮者・井上道義氏の姿が見えました。彼の場合、すごい目立ちたがり屋なので、いかにも「オレは、ここに居るぞ」的な威圧的なオーラが何とも言えません。怖くて言えません
交響曲第104番ニ長調は通称「ロンドン」と呼ばれていますが、これはロンドンで作曲・初演されたから付けられたものです しかし、ロンドンで作曲したのは第93番から第104番までのすべての曲です。最後の曲だからと、代表して付けたのでしょうか?不明です 第1楽章「アダージョ~アレグロ」、第2楽章「アンダンテ」、第3楽章「メヌエット アレグロ」、第4楽章「フィナーレ スピリトーソ」から成ります。この曲もドラティ指揮によるCDで予習しておきました
この曲は第1楽章冒頭の4つの音符で聴く者の心を鷲づかみにします ハイドンの交響曲の集大成に相応しい堂々たる名曲です スダーンの指揮は、かつて聴いたシューベルトの交響曲全曲演奏会でもそうでしたが、東響から持ちうる最大限の力を引き出します。何よりも演奏者が「この人の指揮に応えて良い演奏をしよう」という気持ちになり、全力で演奏に臨んでいる様子がよく分かります
最後の一音が鳴り終り、スダーンの右手が宙を指すと、会場のそこかしこからブラボーと拍手 の嵐が巻き起こりました。演奏した楽員からも惜しみない拍手が起こります 何度も舞台に呼び戻されたスダーンは深々と頭を垂れ、なかなか頭を上げません。その慎み深い姿に一層の拍手が注がれます 私は一瞬、目の前が霞んで見えなくなりました こういう演奏を聴くとハイドンがますます好きになります。こう思わせる演奏こそ”名演”と呼ぶのが相応しいと思います
スダーンは今月一杯で2004年9月から10年にわたり務めてきた東京交響楽団の音楽監督を退き、4月から桂冠指揮者に就任します 個人的には前述のシューベルトの交響曲全曲演奏会、シューマンの交響曲全曲演奏会、モーツアルトの交響曲を始めとする数々の名演奏を忘れません また、楽員が定年退職する際には、奏者のところに行って花束を手渡し、ねぎらいの言葉をかけていたシーンが忘れられません。スダーンの温かい人柄と、音楽だけでない立派な人格に心打たれました。あらためて、この10年間のご苦労に”お疲れ様”と言い、これまでの名演に”ありがとう”と言いたいと思います
さて、この日はオール・ハイドン・プログラムということで、古典派の基礎を作った大作曲家の演奏を楽しんだわけですが、彼の曲を聴きながら、私は何故かモーツアルトと比較してハイドンを考えていました
ハイドンの曲を聴いて、モーツアルトの曲を聴くと、どこかハイドンの曲に物足りなさを感じる。それはいったい何なのだろうか
黒沢明監督映画を見た時に感じたことを書きます
映画「影武者」を観た時に感じたのは、黒沢監督の映画の特徴は”様式美”だということです どの瞬間を切り取っても”絵になる”のです。それはハイドンの完成された”様式美”に通じているのではないか。「乱」を観た時にも同じように感じました
一方、同じ黒沢映画でも「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」を観た時は”理屈抜きの面白さ”、あるいは”絶え間のない変化”を感じました これはモーツアルトの音楽に通じているのではないか
人は、きちんとした”様式美”に魅かれます。気持ちが良く清々しい思いがするものです しかし、理屈抜きに面白いものには”本能的に”魅かれるものです。モーツアルトはその魅力を備えている その面白さとは「疾走する哀しみ」と言われたり、「陰と陽の同居」と考えられているものではないかと思います もちろん、ハイドンは素晴らしい。しかし、どちらかを選べ、と言われたら、躊躇なくモーツアルトを選ぶ、そんな存在ではないか。さて、あなたはどうお考えでしょうか