8月24、25日 夏休みを締めくくる 取手愛宕神社 例大祭

2019年08月15日 12時59分30秒 | 【お知らせ】
毎年8月の終わりにJR取手駅東口広場を中心に「愛宕神社」の例大祭が賑やかに開催されます。 
 愛宕神社は「火伏せの神」として信仰され日本全国に約900もあります。その中のひとつがJR取手駅近くの愛宕神社(取手市新町)です。
●二度の移設を経て 
 もとは大鹿城(おおしかじょう・現在の取手競輪場)の近くにあり、江戸時代に水戸街道開通に伴い利根川土手近くの新町地区に移設されています。大正8年の利根川渡し場の古写真には、萱葺きの神殿を見る事が出来ます。 
 その後、昭和36年には国道6号バイパス建設のために現在の高台に移設されました。 
 この国道建設とその後の鉄道建設によって、現在の氏子地区(本町、新町、八重洲ニュータウン)は、国道6号と常磐線をまたがっています。例大祭が取手駅西口の神殿とは反対側の駅東口側で行われているのはこのためです。
大正8年の古写真。左奥に神殿の屋根が見える。写真手前に利根川の渡しがあった。
  ●愛宕神社のお祭り 
 毎月第1日曜日には氏子のみなさんが社殿に集い、平和と安全を祈り、月次祭(つきなみのまつり)が行われます。 
 例大祭は、昔は秋祭りでしたが、現在は8月第3、または、第4の土日に取手駅東口前広場を中心に行われます。
 ●夏休みの締めくくり

 今年は8月24日(土)と25日(日)の二日間、国家安泰・五穀豊穣・商売繫盛を祈願して、高さ2・4メートル、重さ450キロのお神輿を約50名で担ぎます。
 夏の終わりに威勢良く練り歩くお神輿、屋台やカラオケ大会など、みなさんでお楽しみください。


巨大屋外ビアガーデン 「きたよ取手の夏」

2019年08月15日 12時33分35秒 | 【お知らせ】

今年もやってきました「ソニックガーデン」

毎年好評の巨大屋外ビアガーデン。
人気の地元飲食店続々出店しています。
仲間とワイワイ、ひとりでまったり思い思いの楽しみ方で素敵な時間を過ごしませんか。

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14:00

スタート

14:30

ダンススタジオBiTS

14:50

子どもチアダンス

15:20

スタジオハッピー

15:40

ハーラウククイマイカヒキナ

16:10

ブラッキージュニア

16:20

守谷市子どもミュージカル

16:50

マカラプア

17:20

飲食店紹介

17:50

HK

18:00

リセイユ

18:30

TOMO

19:00

ファリークバスマ

19:30

東北を繋ぐ架け橋プロジェクト

20:00

飲食店表彰式

20:30

本陣太鼓

21:00

閉会

ハートランドビール<生>が飲める

麦芽100%のプレミアムビール
ソニックガーデンではハートランドビールを「生」で提供いたします。
「生」が飲めるのは珍しいのです。この機会に是非!

B級グルメグランプリ開催!

会場に来た皆様が決める取手のB級グルメグランプリ開催いたします。

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会場
取手西口駐車場ビル平面駐車場
(取手駅西口から徒歩1分)

 

 

 


マイク・ホンダ元米下院議員「安倍首相は慰安婦問題で謝罪せよ

2019年08月15日 11時15分41秒 | 社会・文化・政治・経済

安倍首相は謝罪しなければならない。簡単だ。それがそんなに難しいのか?」

13日にソウル市庁で開かれた日本軍慰安婦国際シンポジウム行事後に中央日報取材陣がマイク・ホンダ元米下院議員に「慰安婦問題に対し謝罪しない安倍首相に言いたいことはあるか」と尋ねた。彼は「(安倍首相が)謝りなさい」と答えた。彼は「謝れば良い。簡単だ。それがそんなに難しいか?」と反問した。「個人的には難しくないと考えるが安倍首相には難しいようだ」と記者が再び尋ねるとホンダ元議員は「それがまさに私が言いたい話」と話した。

韓日問題に関心を持つ理由を尋ねると、「関心がある人ならだれでも日本軍がアジア、特に韓国で行った慰安婦問題を知っているだろう。韓国は他の国がわかるように声を高めなければならない。そうして日本の謝罪を引き出さなければならない」と話した。続けて「これは親韓・反日の問題ではない。これは『正しいこと』をすることだ。安倍首相は謝らなければならない」と改めて強調した。

ホンダ元議員は日系米国人で、2000年に米国下院入りした。2007年に米国下院で日本政府に日本軍慰安婦問題を認め謝罪するよう圧迫した。同年に歴史的責任を全うし真相究明を要求する内容を盛り込んだ決議案を発議し通過させるのを先導した。

これに先立ちシンポジウムでホンダ元議員は「米国は日本軍慰安婦被害問題に沈黙し日本政府に謝罪しろと積極的に話さなかった。この部分に米国の責任がある」として米国の態度変化を促した。彼は「(米国の)政治家らを説得できる強い情報が必要だ。われわれが持つ情報で米国人が自分たちの責任を感じるようにする必要がある。日本政府が世界の慰安婦に謝罪するよう米国が積極的に出なければならない」と話した。

彼は「(われわれが)体系的に動かなければ日本政府の謝罪を受けることはできない。体系的に動かなければならない。研究者が力を合わせて情報を集め、海外で尽力する人たち、また記者らとメディア従事者が安倍首相に謝罪を促さなければならない。安倍首相はアジア各国との関係のため謝罪しなければならない」と話した。

最後に「今後私は米国でこのことを一緒にやっていくようにしたい。米国議会がみなさんと文在寅ムン・ジェイン)政権とともに(日本政府の)謝罪を引き出せるよう努力したい」と話した。

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慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。
このとき日本政府が「責任を痛感」して「おわび」したのは「軍の関与」である。軍の管理した慰安婦はいたが、公権力による強制連行という「慰安婦問題」は存在しない。このとき約束した10億円は、韓国の「和解・癒やし財団」に対する拠出金であって賠償ではない。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

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元慰安婦の方々に対する
小泉内閣総理大臣の手紙
拝啓

 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。

 いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。

 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。

 末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなものとなりますよう、心からお祈りしております。

敬具
平成13(2001)年
日本国内閣総理大臣 小泉純一郎


満州開拓団の実相

2019年08月15日 10時35分56秒 | 社会・文化・政治・経済

西田 勝 (編集), 鄭 敏 (編集, 原著), 孫 継武 (編集, 原著)

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

「開拓団」は満洲で何をしたのか!?60年の時を経て、今語られる日本人の知らない「王道楽土」の裏面。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

「満洲開拓」というと、言葉の魔術で、彼ら移民が地の果てまで続く「満洲」の大地を開拓した筈だと思うでしょう。しかし、実態は全く違うのです。彼らは開拓など、ほとんどしていないのです。だから、私は、今日の演題を御覧のように「満洲開拓」という言葉に括弧をつけることにしています。生き残って帰ってきた移民たちは戦後、その一部が岩手の山奥や富士山麓に入って原野を開きました。だから、これは言葉の本当の意味での開拓で、移民たちは「満洲」でではなく、むしろ日本に帰ってきて初めて開拓を経験したのです。
当初は「開拓」あるいは「開拓団」という言葉は、使われていませんでした。「移民」あるいは「移民団」といわれていました。「満洲国」政府が正式に日本人移民を「開拓民」、移民地を「開拓地」、移民政策を「開拓政策」と呼んだのは、一九三九年二月のことです。
ですから、当初は「移民」あるいは「移民団」と呼ばれていました。しかし、「移民」といっても、この「満洲」移民というのは、ハワイ移民やブラジル移民とは性格が全く違います。ハワイやブラジルへの移民は、いわば平和的移民ですが、こちらは武力を背景とした移民、そういう言葉を使えば、「侵略移民」だったということです。
 「満洲移民」も入植するに当たっては、一応は「買収」の形式を取っているものの、最初は、関東軍が強制的に中国人から土地権利証を取り上げ、勝手に安い値段を押しつけて買収し、その土地を日本からきた移民に配分したのです。後になると、あまりに露骨だというので関東軍は後景に退き、「満洲国」の外郭機関である「満洲開拓株式会社」というのが前面に出て買収に当たりますが、事柄の本質は同じです。通常の買収ではなく、武力を背景としての略奪でした。中国人が奪われたのは、長い間、彼らが耕してきた土地だけではありません。住み慣れた住居さえ奪われているのです。
 なぜ、このような「満洲移民」が行われたかといいますと、背景には世界恐慌下の農村の余剰人口、つまり農家の次男や三男坊をどうするか、という問題がありましたが、何よりも大きな、そして決定的な契機となったのは、日本軍部の対ソ戦略です。ソ連に攻め込むための予備戦力、そのための食料基地を確保するという目的がありました。そこには、もう一つ、抗日ゲリラへの対策というのもありました。つまり「屯田兵」です。だから最初期の移民は「武装移民」と呼ばれました。
 いわゆる「満洲開拓」の?史は、およそ三つの段階を経ています。第一段階は一九三二年一〇月から一九三六年五月までで、この「武装移民」の行われた時期です。一般に「武装移民」期あるいは「実験移民」期と呼ばれています。いわゆる「満洲事変」が起きた、というより起こしたのが一九三一年九月一八日、そして「満洲国」が作られたのが翌年の三月ですから、その七ヵ月後に第一次の「武装移民」が日本から「満洲」に送られたのです。具体的には、それ以前に日本で募集され、茨城県にあった加藤完治の経営する日本国民高等学校で速成の訓練を受け、ソ連領に近い佳木斯(チャムースー)地方に送られて行った。「屯田兵」ですから、普通の農民では、すぐには役に立ちませんから、すべてが在郷軍人でした。そこもハワイやブラジルへの移民とは全く違うところです。そういう意味では、「満洲移民」は一種のフアシズム運動だといえるでしょう。
 日本のフアシズム運動がいつ始まったかというと、私の見るところでは、一九二三年九月の関東大震災です。一九一〇年代の初頭に始まった、いわゆる「デモクラシー」運動は元はといえば陸軍の二個師団増設の反対から始まった巨大な軍縮平和運動で、そのなかから吉野作造による、軍部の独走を許す「帷幄上奏権」の廃止という主張も生まれました。もし、この「デモクラシー」運動が、軍部の独走を許す「帷幄上奏権」というものを廃止することに成功していたら、「満洲事変」は言うまでもなく、それを発端とする一四年間に及ぶ戦争もありえなかったでしょう。日本の近代史の中では日露戦争前後が軍人の評価が一番高かった時で、「娘を軍人に嫁がせるのは名誉」という風潮が支配的でしたが、「デモクラシー」運動の発展とともに、社会での軍人の地位は急速に下がり、「娘を軍人には嫁がせたくない」というように空氣が変化してきます。そこで、「デモクラシー」運動の前途に恐怖を抱いた軍部が大逆転を狙ったのが、関東大震災時の混乱に乗じての大虐殺でした。
 アナーキストの大杉栄や伊藤野枝の虐殺、すぐれた労働運動の指導者だった平沢計七をはじめとする南葛の労働組合運動の活動家の虐殺は直接、軍部が行なったものですが、数千人に及ぶ朝鮮人や五〇〇人余の中国人を主として殺したのは、軍部の謀略に踊らされた、地域住民によって組織された「自警団」でした。その「自警団」の中核になったのは誰かといえば、在郷軍人でした。非常時とはいえ、人間を殺すということは、普通の市民にはなかなか出来がたいことです。
 数千人に及ぶ近隣民族の虐殺―これは、日本における「水晶の夜」だったといえるでしょう。私は、この関東大震災での朝鮮人や中国人の大虐殺を「一四年戦争」の起点だと考えています(詳しくは拙著『近代日本の戦争と文学』所收の「戦争への起点としての関東大震災」参照)。私は「一五年戦争」とは言わずに、「一四年戦争」と呼んでいます。「満洲事変」の勃発から敗戦までは一三年と一一ヵ月です。今は年月を満で数える時代なので、この言葉の成立事情が全く忘れられた結果、「一五年間」戦争が続いたと誤認する人が多くなっています。そこで、何年か前に「一四年戦争」と呼ぶようにしたらどうかと提案したことがあるのですが(「気になる戦争の呼称」、朝日新聞一九九三年八月三〇日夕刊。前掲書所収)、あまり広まりませんでした。
 それはとにかく、この関東大震災での「自警団」の活動は、それから数年後、関東軍によって学習され、「満洲国」を「建設」する際のお手本になりました。「満洲国」は「満洲事変」後、中国東北部の各地域に、中国人の協力者を引き込んで「自治政府」なるものを作り、それらを積み重ねて「満洲国」をでっち上げて行くのですが、それをソフトの面で担ったのが「自治指導部」と呼ばれたグループで、それを各地域で支えたのが在郷軍人でした。つまり、軍部は関東大震災では、在郷軍人を中核とした「自警団」を操って大虐殺を行ない、「満洲国」を作る時にも、同様な方法で在郷軍人の協力をえて、その「建国」を実現して行ったのです。
 前に戻っていえば、この「武装移民」も、関東軍による同様な発想で企てられたもので、第一には対ソ戦略のための関東軍の補助勢力として、第二には、そのための食料基地として、第三には、抗日ゲリラの活動に対する抑えとして、まさに一石三鳥を狙って企てられたものなのです。

 ■「自作農主義」から「地主経営」へ
 ここに日中戦争が始まる直前の一九三七年三月、満鉄―正確には「南満州鉄道株式会社総裁室弘報課」が発行した『満洲は移民の楽土』というパンフレットがあります。こういうパンフレットを作って満鉄も「満洲移民」を勧誘したのです。
 このパンフレットには三種類の移民村が紹介されています。一つは拓務省が主として農民を対象にして募集した移民で、「拓務省移民」と書かれています。さきほどの第一次「武装移民」もこの中に入ります。第一次「武装移民」は東日本一一県在住の在郷軍人を対象に集満鉄発行の小冊子写真めて、編成された者ですが、後になると、拓務省は山形や長野の貧しい小作人たちを村単位、単位、地域単位に編成して送り出して行きます。その人たちもこの中に入ります。
 二つは「鉄路自警村」といわれるもので、満鉄の鉄路を防衛するのを目的として編成されたです。このの場合は、現地で関東軍を除隊した者たち、要するに新規の在郷軍人を中核にして作られたものです。興味深いことに、そこには、はっきり「鉄路自警村」というのは「いはば一種の武装移民であり、また特殊な屯田兵のやうなもの」であるとはっきい述べられています。
 三つは「集団的自由移民」というもので、主として都市から集団で移民してきた人たちです。こ
こには、東京の深川の失業者を組織して送り込んで出来た「天照村」と、天理教の信者で作られた「天理村」とが紹介されています。
 満鉄発行のこのパンフレットは、タイトルが示すように、「満洲」がどんなに「移民の楽土」かと
いうことを伝えるために作られているわけですが、ではどんなふうに「移民の楽土」として描き出されているかといえば、「満洲」は「冬は最低零下三十度に下るところもあるが、五・六・七月は北緯四十度にある青森よりも却つて気温が高い。また夏は日が永く、日中相当に温度が昇ることは北満洲の農業上有利」で、地味も肥えていて、当初はいろいろ困難はあったが、今は医療や敎育設備も完備し、鉄道も敷設され、「移民たちは、自分で造つた米の飯を食べ、やはり自製のお酒や煙草をのんで暮らすといふ、内地では思ひもよらぬ明朗な明け暮れを送つてゐるのである」と謳い上げているわけです。
 では、実際はどうかといいますと、たしかに、このパンフレットができた頃には、「内地では思ひもよらぬ明朗な明け暮れを送つて」いたようですが、第一、「自分で造つた米の飯」と謳い上げていますが、ほとんど自分では作ってはいないのです。米はほとんど朝鮮人の小作人にやらせ、畑作についても大抵は中国人の労働者を使って行ない、手に余った土地は中国人や朝鮮人に小作をさせていたのです。このパンフレットでは、「拓務省移民」について触れているところでは、ぼかして曖昧に書いていますが、東京深川の失業者によって作られた「天照村」を紹介しているところでは、露骨に「日本に在つては一介の失業者も、ここでは立派な地主といふ訳で、現在一人当り十六町歩の耕地を担当して農業に、牧畜に相当な成績をあげてゐる」と述べています。事実は、これ以上だったと思います。
 まとめていえば、移民たちは「開拓」など、ほとんどしていないのです。中国人が耕していた土地や住んでいた家屋をタダ同然のお金で奪い取り、土地を奪われた中国人農民を雇ったりして畑作を行ない、手に余った土地は朝鮮人や中国人に小作に出し、日本では一介の貧しい小作人や失業者だった者が「移民地」では豪農でなければ地主になっていたというわけです。
 説明が後先になりましたが、「満洲開拓」の第二段階は、本格的移民期といわれるもので、日本政府と「満洲国」政府によって「満洲移民百万戸移住計画」というものが策定された一九三六年五月から「大東亜戦争」が始まる前までが、それに相当します。なぜ「満洲移民百万戸」なのかといいますと、今後二〇年間に「満洲国」の人口が五〇〇〇万に達すると見立て、その際、日本人が「指導民族」として、その一割を占めなければならないとの計算から、一戸当たり五人として一〇〇万戸の移住が必要となったのです。つまり、この満鉄のパンフレットものです。
 しかし、この「本格的」な移民事業も、一九三七年七月に始まった日中戦争の開始と進行によって停滞を余儀なくされます。なぜかというと、日中戦争の拡大と、それが日本国内にもたらした軍需景気によって、一方では兵隊として、他方では軍需産業の労働者として、移民供給源だった農村の余剰人口や都市失業者が、それらに吸収されて、移民する者がすっかり減少してしまったからです。そのために日本政府は二つの政策を立てます。一つは、「分村」や「分郷」の名で半ば強制的に貧しい農民たちを移民団に編入させて送り出すことと、二つは忠君愛国イデオロギーで少年たちを絡め取って「満蒙開拓青少年義勇軍」に組織し、「満洲」に送り、将来に備えることでした。
 他方、「満洲産業開発五ヶ年計画」の開始で、鉱山や土木部門に、高賃金のために農業労働者が流れ、また日中戦争の進行とともに出稼ぎ農民の渡来も減少して、移民団や移民の中には自作を放棄し、小作に依存する傾向が次第に濃くなって行きました。
 第三段階は、衰退・崩壊期と呼ばれるもので、「大東亜戦争」の開始から敗戦までが、それに相当します。戦局の悪化とともに、航路の安全も保障されなくなり、第二段階の終わり頃には、すっかり先細りになっていた移民団の送り出しもばったり途絶えてしまいます。そして、それに追い打ちをかけるように、敗戦直前には、関東軍による、移民団内の壮年男子の根こそぎ動員があり、移民地は、ほとんど年寄りと女子供だけが残されるという有様となりました。つまり、一九四五年八月、ソ連軍が参戦を表明して「満洲」に進駐してきた時には、男らしい男は移民地にはいなかったのです。だから、それだけに移民たちの避難行は悲惨なものになりました。
もともと関東軍の武力によって成立した「開拓」あるいは「開拓団」ですから、その武力が崩壊すれば、一挙に崩壊に至るのは当然です。

 ■土地だけではなく家屋も奪われた中国農民
 ところで、元に戻りますと、関東軍によって土地と家屋を追われた現地の農民たちは一体どこに行ったのでしょうか。彼らのうち、土地に残った人は、日本の移民団あるいは移民の小作人になるか、その農業労働者になりました。
 その点をもう少し詳しくいいますと、この農業労働者には三種類の階級がありました。第一は「年工」(ルビ ニエンコウ)、といって、一年契約の農業労働者です。第二は「月工」(ユエコン)といって、一月ごとの契約者です。第三は「日工」(リーコン)でいって、いわゆる日雇い労働者です。どうして、このように異なる雇用形態の農業労働者が生まれていたかというと、これは当時の中国東北農業のあり方からきています。当時の中国東北の北部一帯の農業というのは、大豆・トウモロコシ・高粱などを作る大規模農業で、耕作はもっぱら馬と馬橇を使ってやります。「満洲」は四月の終わりに一挙に春と夏が一緒に来て一〇月初めには、ぐっと寒くなるので、農作業時期はわずか半年です。土地が肥沃なので、肥料をやらなくても作物が育ったそうですが、それだけに雑草もすごく生育するので、それを刈り取るのも大変な仕事です。四月から五月にかけては耕作や播種、それから草取りと収穫、そのために大量の農業労働者が必要となります。これらの仕事をするために、大量の「日工」や「月工」を雇うわけですね。その中身は主として中国本土からの出稼ぎ農民で、彼らは三月か四月頃に山東省や河北省から大連などを経由して現地に行って働き、収穫が終わる一〇月の終わりには再び故郷に帰ってゆく。だから、「燕人」とも呼ばれました。「年工」というのは日本の作男のようなもので、移民団か移民の家に住み込み、大規模な農作業では「月工」や「日工」の監督もします。
 では村に残れなかった者たちはどこへ行ったのでしょうか。彼らのほんどは、さらに奥地に追いやられて、文字通り荒野の開拓に挑みました。彼らは「県内開拓民」と呼ばれ、なかには山間の鉱毒の滲み出る湿地帯に追いやられ、風土病で村民がほとんど死滅するというひどいケースもありました。死者が次々に出るので、最初は死者を飼葉桶に入れて埋葬したが、次には古い板で作った棺桶に入れ、それも出来なくなると、最後には死体を裸のまま凍り付いた川辺に放り投げたいいます。
 さらに、この「県内開拓民」にもなれなかった者たちはどうしたかというと、乞食になって放浪し、野垂れ死にした者も少なくなかった、ということです。
 これらのことは、この『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』という本の中に収められた証言や記録のなかに、つぶさに語られています。興味のある方は、ぜひこの本について見て下さい。

 ■中国農民の憎悪を煽った「少年義勇軍」や「開拓団」の犯罪
 それだけではありません。現地の中国農民は、その耕作していた土地や、住んでいた家を奪われただけではなく、日常生活でも、さまざまな被害を受けています。殴打は日常茶飯事で、暴行を受けたり、家畜を盗まれたり、女性たちはレイプを受けたりしました。
 「満蒙開拓少年義勇軍」―「満洲国」では「軍」というのは露骨だというので、「開拓青少年義勇隊」と呼ばれていましたが、まず彼らの犯した犯罪について触れますと、たしかに彼らは大方が農村の非常に貧しい農家の子弟で、当時の格差社会の犠牲者でした。しかし、その犠牲者の彼らが「満洲」では中国人や朝鮮人に対する残酷な加害者として現われたということです。現在までにおびただしい数の「開拓団」や「青少年義勇軍」の回想録が出されていますが、ほとんどが自分たちの犯した犯罪については口をぬぐっています。特にレイプについては全く触れていない。また「開拓団」や「青少年義勇軍」について書かれた本や映画も、敗戦後の悲惨な逃避行については、これでもか、これでもかとエンエンと描き出していますが、彼らの犯罪については、ほとんどが沈黙しています。唯一の例外は児童文学評論家の上笙一郎さんが一九七三年に書いた『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書)で、上さんは「青少年義勇軍」も根本的には犠牲者だから、心情的には書きたくないのだが、事実は事実として明らかにしておく必要があるといって、こんなふうに述べています。
 「…義勇軍の少年たちは、どのように中国人をいためつけたかといえば、まずもっとも多かったのは盗みであった。中国人の飯どきを狙ってに遊びに行き、粟飯や包米飯(「包米パオミー」とはトウモロコシのことです)にありつくというのからはじまって、放し飼いにされている鶏・家鴨・犬・豚などを密殺し、さらには包米・豆・芋・西瓜畑などに忍び込んで作物を盗むのだ。
 西瓜などはせいぜいリュックサックに背負って盗む程度だったが、主食となる包米となると、盗みの規模がちがっていた。寧安訓練所成沢中隊が出した『ああ満蒙開拓義勇隊東海浪始末記』の一文によると、《四、五人で馬車を用意して、誰にも遠慮なく堂々と出かけ》、もし畑の持ち主の中国人がいたら、広大な《畑の裏側に回って馬車を横付けにして悠々と…よくみのったものばかりを選んで,たっぷり盗ってくる》のだという。(後略)
 そうして休日などに町に出れば、中国人の商店から品物を掻っぱらった。その手口は、まずひとりがわざと見つかるように品物を盗って逃げ出し、商店主が後を追いかけると、その時を待っていた他の連中が店に殺到し,持てるだけの品物を持って四方に散らばって逃げるのである。
 中国語で泥棒のことを《小盗児(シヤオタオル)》といい、少年たちも自分たちの行為を《小盗児》〉と呼んだが、中国の農民たち義勇軍そのものを《小盗児義勇隊》と呼んでいたということだ。
 こうした盗みに次いで多かったのは、女性への凌辱を含む身体的暴行である。盗みを働いている現場を中国人に発見されれば、かえって高圧的に腕を振り上げたりしたほか、相手の顔が気に入らないとか、先輩になぐられたのが癪にさわるといった無茶な理由で、殴打したり蹴飛ばしたりしたのである。
 ただ、さすがに女性に対する凌辱に関しては、たくさん出ている義勇隊中隊史のいずれもが、申し合わせたように口を閉ざして、ただの一行も言及していない。だが誰一人語らなかったと言って陵辱事件がなかったのではない。(中略)中国女性への凌辱は,殴打と同じくらいの頻度で行われていた。…
 名前を明記することは避けるけれど、ある旧義勇隊員が私に証言してくれたところによると、義勇軍のある部分は、盗んだ酒のいきおいを借りて中国人へおしかけ、女性と見れば手あたり次第に姦(おか)したという。彼らは若い娘であろうと、有夫の婦人であろうとみさかい無く毒牙にかけ、ときにはわざと家族の眼前で事をおこなった。そしてその女性の父母や夫はといえば、そのように悪虐をつくした義勇隊員に向かって地面に両手をつき、《謝謝(シェシェ)謝謝》という以外に許されなかった-ともいうのである」
 少年たちの悪戯ともいうべき段階を超えて、明白に犯罪と見なければならぬこれらの行為に対して、満洲警察と日本軍は見て見ぬふりをしていたといえよう。植民地警察としての満洲警察には、日本人の義勇軍を捕える力も勇気も持たなかったし、事件を黙視しにくくなって調査にやってくる憲兵も同じ日本人を法律の犯罪人にしたくないという気持ちがあるためか、義勇軍の訓練所長や中隊長に懐柔されて、〈微罪につき取り上げず〉という処置で済ましてしまうのが常であった」。
 以上です。上さんの本は満蒙開拓青少年義勇軍の全容を簡潔にまとめた、すばらしい本ですが、彼らの犯罪を明らかにしたためか絶版になっています。何者かによる出版社への圧力があったためと聞いています。
 「青少年義勇軍」の犯罪は、犯罪例が多くて、すべてを抹殺することができなかったのか、「満洲国最高検察庁」が「大東亜戦争」が始まった年の一九四一年に出した「満洲国開拓地犯罪概要」という文書(一九七八年五月・新人物往来社刊の山田昭次編の『近代民衆の記録6満洲移民』に所收)の中でも一章を設けて取り上げています。「第八章 満蒙開拓青少年義勇隊ノ犯罪」というのが、それですが、そこには、こんな興味深い「概説」がつけられています。
 「青少年義勇隊ノ犯罪ハ増加ノ傾向ニ在リ。犯罪ノ種類ハ騒擾、殺人、傷害、暴行等甚ダ粗暴ナルモノノ多イノハ何レモ血気ニハヤル年代ノ人達ノ為デアロウ。コノ他、隊ノ物品ヲ横領或ハ窃盗シ、コレヲ隊外ノ飲食、遊興ニ充当シテ居ル傾向モ各地ニ見受ケラレル。騒擾、暴行、殺人、傷害等ノ原因ヲ見ルト、幹部ニ対スル不満或ハ訓練不充分ノ為余暇アルコトヤ、満人トノ言語不通、優越感等ニ発スルモノガ多イ。
 此ノ内、尤モ注目スべキコトハ指導者ニ人ヲ得ナイト言フコトニアル。」(原文には句点がないが、読みやすくするため句点をほどこし、また適当に読点も加えてある。以下も同じ)
 まあ穏当な説明ですが、問題は、この「優越感」の中身です。中国人や朝鮮人を人間以下のものと見て、彼らに対して何をしたって構わないというものですね。この章には、三〇近い事例が記録されていますが、一つだけレイプに言及しているものがあります。参考のために、その一例を読み上げてみます。お手元にある資料を御覧になりながら、耳を傾けて下さい。それは「騒擾 山崎義雄 外百七名」として立件した事件で、こんなふうに記録されています。

 「一、開拓青年義勇隊満鉄豊栄訓練所ハ十六歳乃至二十一歳ノ訓練生三百三十名ヲ収容シ居ルモノナルトコロ
 (イ)康徳七年(一九四〇年)十月六日午後七時頃、池田健蔵外五名ハ永安二道溝(ヨンアン・アルタオゴー)ニ赴キ、民孫喚章(スン・フアンチャン)ニ対シ鶏ヲ貰ヒ度キ旨要求シ、家人ヨリ之ヲ拒マレタルニモ拘ラズ鶏1羽ヲ捕ヘ、又連行シタル畜犬ガ食ヒ殺シタル鶏1羽ヲ所持シ、隣接セル趙国喜(チャオ・クオシー)方ニ立寄リ、鶏卵二十個ヲ要求、無償ニテ貰ヒ受ケタル上、更ニ隣家干延海(ユイ・エンハイ)方ニ立入ラントセシニ、同家ハ訓練生ノ来ルヲ知リ、逸早ク門ヲ閉メタル為、入門スルコトヲ得ズ、片言ノ満語(中国語のことですね)ニテ開門ヲ迫りタルニ、家人ガ大声ヲ発シタルニ依リ、民数名来集セルヲ以テ訓練生ハ其ノ場ヲ引揚ゲ、帰所後,他ノ訓練生ニ対シ自己ノ不当行為ハ之ヲ秘シ、民ヨリ不法ニ包囲セラレ、又ハ追跡セラレタル如ク吹聴セルヲ以テ之ヲ聞知シタル五十余名ノ訓練生等ハ報復センコトヲ企テ、小銃三挺、銃剣三挺、短刀、木剣、棍棒十数本ヲ用意シ、同夜九時半頃、私(ひそか)ニ訓練所ヲ出デ前記干方ニ到リ、実包数発ヲ威嚇的ニ発砲シ、閉扉セル門ヲ破壊シ、家屋内ニ侵入シ、戸、障子、其ノ他ノ器物ヲ破壊又ハ家人ヲ殴打シタル上、翌七日零時半頃帰所シ、
 (ロ〉更ニ前夜ノ暴行ヲ以テ満足セザルノミナラズ、其ノ際訓練生1名軽傷ヲ負タルタメ、翌七日早朝來、一部訓練生内ニ於テ更ニ襲撃ヲ為サンコトヲ企図シ、各訓練生ニ伝エタトコロ同意者九十七名ニ及ビタルヲ以テ、前回同様小銃三、銃剣三、短刀、木剣,棍棒等十数本ヲ用意シ、午前十時頃、三々五々訓練所ヲ立チ出デニ到着、二隊ニ分カレ、一組ハ二十里站、1組ハ二道溝及頭道溝(トウタオゴー)ニ侵入、小銃十数発ヲ発砲シ、民ヲ威嚇シ、約二十戸ニ侵入、戸、障子、家財道具数十点ヲ破壊シ、家禽、家畜類ヲ殺傷、其ノ他小道具、衣類、食糧品、小額の現金等数十点ヲ強奪シ、避難セントシタル民ヲ追跡シ、銃剣ニテ斬付ケ、棍棒ヲ以テ多数ノ人民ヲ殴打セル他、婦女子ニ短刀ヲ突キ付ケテ脅迫シ脱袴ヲ為サシムル(ズボンを脱がせるということですね)等ノ暴戻ナル行為ヲ為シ(つまり女性たちをレイプしたということです)、重傷者一、軽傷者五名ヲ出サシメ、強奪品ヲ所持シテ午後二時半頃、帰所シタルモノナリ」(丸括弧内は講演者。以下同じ)

 以上は「犯罪事実」の記録ですが、御覧のように、この後に、この事件に対する処置と、原因に対する所見が書かれています。これも読んでみましょう。

 「二、処置  県ヨリ警務科長以下十二名出動シテ検挙、司法事件トシテ捜査ヲ開始、一方宣撫と負傷者ノ治療ニ当ル。
 三、原因  訓練生ノ精神的弛緩、誤レル優越感、少年ノ面白半分ノ気分、度々ヨリ家畜ヲ窃取スルタメ,干延海等ガ不快ニ思ヒ、冷遇セルヲ侮辱セリト考ヘ、血気ニ逸リ本件ヲ及ブ。
 民ニ与ヘタル精神的影響ハ実ニ重大、元来開拓ハ元住民ノ土地買収、転住等相当深刻ナル犠牲ヲ彼等ニ与エ居ル際、斯(かか)ル非行ハ一層開拓民ニ対スル反感ヲ唆リ、開拓政策ニ対シ一大暗影ヲ投ジ、満人層ニ反満(反「満洲国」と言うことですね)反日的ナル一大底流ヲ作ルモノナリ」

 この中にも「元来開拓ハ元住民ノ土地買収、転住等相当深刻ナル犠牲ヲ彼等ニ与エ居ル際」と言っているように、「満洲国」政府の役人は、少なくとも「満洲国最高検察庁」の検事たちは「開拓」が決して開拓ではないことを、はっきり知っていたわけですね。また「満蒙開拓青少年義勇隊」の隊員による度重なる蛮行が「反満反日的ナル一大底流ヲ作ルモノ」であることも分かっていたわけですね。分かっていながら、外に向かっては、「開拓」と言い続けていたのです。
 ■「満人ハ轢殺シテモ差支ヘナシ」
 しかし、日常の生活においても、現地の中国農民に対して被害を加えていたのは、「血気ニハヤル」「青少年義勇隊」の隊員だけはなく、残念ながら普通の「移民団」の人たちも例外ではなかったことで、この「満洲国最高検察庁」の文書も、「第八章 青少年義勇隊ノ犯罪」に次いで一章を設け、「第九章 一般移民団ノ犯罪」として、やはり冒頭に「概説」を措き、そのあとに犯罪事例を列挙しています。まず「概説」から読んでみましょう。
「本件モ殺人事件、傷害事件等、甚ダ多キヲ特色トス。又業務上過失致死モ、他ノ犯罪ニ比シテ甚ダ多シ。犯罪ノ原因ヲ通覧スルニ、満人ニ対スル優越感ニ依リ切捨御免ノ思想或ハ言語ノ通ゼザルコト等ヨリ発スルヲ見受ラル。業務上過失多キハ自動車運転ノ技術ヲ習得セザルニ不拘(かかわらず)無謀ノ運転ヲ為スニ起因ス。コレ亦満人ハ轢殺(ひきころ)シテモ差支へナシト思ヒ居ルニ非ラズヤト思ハルルハ遺憾ナリ」
 この部分では、中国東北の農民たちへの「優越感」の中身が、ズバリ「切捨御免ノ思想」であると明示しています。
この章でも数多くの注目すべき事例が挙げられていますが、そのうち二つだけ取り上げてみたいと思います。まず自動車による轢殺事件です。

 「罪名 業務上過失致死  XXXX  年齢 当三十年 所属団名 鶴立(ハーリー)県東
海村開拓団(この「東海」というのは、日本の東海地方の東海です)
  犯罪事実の概要 被疑者ハ鶴立県東海村開拓団員ナルトコロ、康徳七年(一九四〇)四月七日。東海村三重分村付近ニ於テ37式フオード貨物自動車ヲ運転中、先行荷馬車ヲ追越ントシタルが、馬ノ狂奔ニ驚キテ自動車側ニ飛出シタル満人韓少先(ハン・シャオシエン)(十五)ヲ轢殺(れきさつ)シタリ。
  犯罪ノ原因動機 業務上必要ナル注意ヲ欠ク」

 この「37式フオード貨物自動車」というのは、一九三七年式のフォード社のトラックのことです。「おや外車?!」と思われるかも知れませんが、あの当時は、国産のトラックとしては日産などが作ってはいたものの性能が悪く、日中戦争で活躍した自動車部隊というのは、その実態は殆どが、このフォードのトラックでした。そこから考えても、日本が「大東亜戦争」に突入することは無謀なことでした。
 もう一つの事例は、強盗殺人です。読んで見ます。

 「罪名 強盗殺人 XXXX 年齢当二十五年 
 犯罪事実の概要 被疑者ハ第四次開拓団員ニシテ密山(ミーシャン)県城子河(チャンズーホー)ニ於テ農業ニ従事シ居タルモノナリシ処、康徳七年(一九四〇)五月十日、密山県密山県ヨリノ帰途、同所ヨリ鶏西(チーシー)屯ニ通ズル鶏冠山(チークワンシャン)中腹約二百米ノ旧道路上ニ於テ、同日午後五時頃、密山県永長(ヨンチャン)屯居住尹雅東(イン・ヤートン)所有ノ荷馬車ニ出逢ヒタルヲ以テ便乗シ、鶏西ニ向ヒ進行中ノ荷馬車ノ満洲馬1頭ヲ強奪セムコトヲ企テ、所携ノ護身用短刀(刃渡4寸)ヲ以テ突如傍ラニ同乗シ居タル尹雅東ノ右頚動脈ヲ切断シ、尹ヲ殺害シタル後、馬車夫陳忠礼(チェン・チョンリー)右肩先其ノ他数ケ所ニ斬リ付ケ、傷害ヲ与へ、前記馬一頭ヲ強奪シタルモノナリ。
 犯罪ノ原因動機 満洲ニ於テハ如何ナルコトヲ為スモ差支ヘナシトノ思想ニ基キ非道ノ欲望ヲ達ス」 

 本当に恥ずかしいことですね。こんなひどいことをやっていたから、関東軍が彼らを見捨てて主力を南部に移してしまった時、ほとんど年寄りと女子供になってしまった「開拓団」の人々は、こんどは自分たちが地獄の憂き目に遭うことになったのです。一般に「開拓団」の話になると、敗戦後の悲惨な逃避行だけがクローズアップされ、なぜそのような悲慘な逃避行になったのかという反省が乏しいですね。
 私の知り合いにYさんという佳木斯近くの移民村に「大陸の花嫁」として嫁ぎ、その悲惨な逃避行を経験し、生き延びて帰ってきた女性がいますが、彼女は夫が召集され、背中に幼子を背負って逃避行に参加し、途中、何度か暴徒化した農民に襲われたことがあったそうですが、その時、彼女は「私たち《開拓団》は中国人に、いろんな、とてもひどいことをしてきたから、殺されても仕方がないと思いながら歩いた」と回想しています。彼女はその逃避行で子供を失っていますが、彼女のように自分を、このよう客観的に見ている人は稀です。
 この本(『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』)にも、レイプのことが出ています。「青少年義勇隊」の隊員が、正月に餅を売りに来た若い朝鮮人の女性を家の中に引き込んで輪姦したことや、「義勇隊」の訓練所の将校が白昼、夫の留守だった農家に押し入り、その妻を陵辱した事件が証言されています。その妻の場合は、その後、自殺しています。
 ヒロシマやナガサキの問題でも、日本人は被害ばかり言うが、加害については深く考えない傾向があります。アメリカによる原爆投下は、言うまでもなく、戦争犯罪であり、きびしく裁かれるべき問題です。しかし、それが少なくとも近隣諸国への一四年間に及ぶ侵略戦争の結果であることも事実です。
 北朝鮮の拉致問題でも、同樣で、日本人は自分たちの被害ばかり主張して、相手方にあたえた加害については、ダンマリを決めています。拉致は、もちろん、許されるべきことではありません。私はこれまで平和運動や学術交流で北朝鮮には六回ほど行っています。もっとも、この一〇年くらいは行っていませんが、その経験からいいますと、彼らは、心のなかで、こう考えていると思います。「日本は一人のメグミちゃんで大騒ぎしているが、こちらには何千何万のメグミちゃんがいる」と。
 私の考えをいえば、拉致問題の解決は簡単なことです。鳩山さんが平壌に出かけて行って、小泉さんのように一泊もせずに帰ってくるのでなしに、クリントンさんさえ一泊したのですだから一泊とは言わず、二泊も三泊もして、まず戦時中に日本が沢山の住民を拉致連行したことをふくめて、少なくても三五年間に及んだ植民地的支配に対して深く謝罪し、それ相応の補償を行なうことをはっきり言明し、約束したら、拉致問題は一挙に解決すると思います。鳩山さんが「友愛政治」を言うなら、そこまでやらなくては「友愛」とはいえないでしょうし、「東アジア共同体」の実現を本当に考えているなら、まずそれをすることが追い風になるでしょう。

 ■むすび
 「満洲移民」とは、一言でいえば、当初はソ連侵攻をめざした関東軍の補完武力勢力ならびに食料基地として、のちには「満洲国」を支える日本人の組織として関東軍によって始められ、その武力によって維持された「侵略移民」でした。だから、関東軍が崩壊するとともに、消え去りました。もし「満洲移民」が平和的な手段で進められ、本当に「開拓」を行い、現地中国農民との間に友好的な関係を作り上げていたら、「満洲国」とともに消え去ることはなかったでしょう。実際、「侵略移民」ながら、現地の中国農民との間に友好的な関係を築くことができたところでは、暴徒化した民衆から守られています。
 しかし、上さんも言っているように、「満洲移民」に組織され、動員された人々は根源的には犠牲者でした。彼らはもともと全体として日本国内で、きびしい生活難に喘いでいた貧しい小作人であり、失業者でした。ところが、彼らは「満洲」では、やはり全体として関東軍の武力に依存し、あるいは荷担して、現地の貧しい人々に対する加害者となり、敗戦後に再び被害者になりました。
 これは、言ってみれば、現代格差社会の象徴的な出来事といわなくてはならないでしょう。イラク戦争でも、その最前線でイラク人を殺し、あるいはイラク人のテロで命を落としているアメリカ兵は、もとはいえば、食うために、あるいは出世するために戦場に赴いた貧しい青年たちだということです。
 「満洲開拓」が現代にあたえる最大の教訓は、この格差社会では、貧しい人々が、まやかしの「国家の正義」にからめとられて、他国の貧しい人々の加害者となり、また被害者となることだと思います。

【付記】以上は、二〇〇九年一〇月三日、現代女性文化研究所で「《満洲開拓》を中国現地農民からみると」と題して行なった講演速記録の一部に加筆したもの。

 西田/勝

1928年、静岡県に生まれる。1953年、東京大学文学部卒業。法政大学文学部教授を経て、西田勝・平和研究室主宰、東北師範大学客座教授(長春)、植民地文化研究会代表 

孫/継武
1926年、中国遼寧省丹東市に生まれる。1952年、東北師範大学卒業後、同校で教鞭を執った後、吉林省社会科学院日本研究所に入る。同所所長を経て、東北淪陥十四年史編纂委員会秘書長 

鄭/敏
1947年、中国遼寧省蓋州に生まれる。1982年、東北師範大学歴史系卒業後、研究員となる。現在、吉林省社会科学院日本研究所副所長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


満州開拓団の悲惨な結末

2019年08月15日 10時27分29秒 | 社会・文化・政治・経済

1.日本の政治は軍部に乗っ取られた
渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期~二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。

渡部名誉教授は第459頁~第460頁で「廣田内閣が残したものは、
①【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
②【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
③軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」

「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実は
あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。

2.満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。

2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。

 

しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約32万人といわれる。

3.関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の
関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。

 


上智大学グリーフケア研究所

2019年08月15日 10時03分55秒 | 社会・文化・政治・経済

悲しみの奥の問い

上智大学グリ-フケア研究所は、グリーフケアにかかる研究とグリーフケア、スピリチュアルケアに携わる人材を養成を通して、日本におけるグリーフケアの理解・啓発を行い、グリーフを抱える者「悲嘆者」がケアされる健全な社会の構築に貢献することを目的として設立されました。

現在、東京の四谷キャンパスと上智大学大阪サテライトキャンパス(大阪市北区)の2つのキャンパスで研究教育活動を行っています。
グリーフケアの必要性とグリーフケア研究所の設立

「グリーフ」とは、深い悲しみ、悲嘆、苦悩を示す言葉です。

「グリーフ」は、さまざまな「喪失」、すなわち、自分にとって大切な人やものや事柄を失うことによって起こるもので、何らかの喪失によってグリーフを感じるのは自然なことであります。

人生にはさまざまな喪失がつきまといます。最も大きな喪失は、家族やかけがえの無い人との死別です。特に災害や事件・事故、あるいは自死など、予期せぬ形で家族と死別することは、最悪の喪失体験であり、大きなグリーフとなる可能性があります。

1999年、世界保健機関(WHO)は、健康の定義について「身体(phisical)」、「精神(mental)」、「社会(social)」そして「スピリチュアル(spiritual)」の4つの領域があることを提案しています。

グリーフケアとは、スピリチュアルの領域において、さまざまな「喪失」を体験し、グリーフを抱えた方々に、心を寄せて、寄り添い、ありのままに受け入れて、その方々が立ち直り、自立し、成長し、そして希望を持つことができるように支援することです。

現代日本は、稀にみる高齢化社会を向かえつつあります。戦後、多くの日本人が都市に移り住み、そして大家族から核家族へと変化が進みました。かつては自宅で亡くなる方が多かったのですが、近年は病院で亡くなる方が大半となり、近親者の死を身近に経験する機会、死と向き合う機会が減少しました。また、伝統的な宗教が弱体化し、葬送儀礼も形骸化しつつあります。同時に、地域社会も弱体化し、葬送に対する地域社会からのサポートも減少しています。死生観が空洞化し、悲嘆を抱える方々を支える場、癒しの場が少なくなっています。

多元価値社会とも言える現代は、一人ひとりが、自らの生きがいを求める時代、人間らしい死に方を求める時代であると言うこともできます。それは、医療や先端科学技術の現場はもとより、福祉や介護の現場、災害や事件・事故の現場、教育の現場、葬儀の現場など、さまざまな現場において、グリーフケアが必要とされる時代となっています。

上智大学グリーフケア研究所は、グリーフケア並びにスピリチュアルケアにかかる学術研究とグリーフケア、スピリチュアルケアに携わる人材を養成するとともに、我が国におけるグリーフケアの理解、啓発を行い、グリーフを抱える者「悲嘆者」がケアされる健全な社会の構築に貢献することを目的として設立いたしました。


グリーフケア研究所設立の経緯

グリーフケア研究所は、グリーフケアの必要性の高まりを受けて、日本で初めてグリーフケアを専門とした教育研究機関として、2009年4月に設立されました。

2005年4月25日にJR西日本の福知山線で発生した列車脱線事故の教訓を生かし、社会に役立つ取り組みの一環として、事故のご遺族の方々をはじめとした悲嘆者に対するグリーフケアを実践するために役立つことを目的に、JR西日本及び公益財団法人JR西日本あんしん社会財団の全面的なご支援により、公開講座「『悲嘆』について学ぶ」、そしてグリーフケアの実践を遂行できる専門的な知識・援助技術を備えた人材を育成するグリーフケア人材養成講座を開講しました。

2010年4月、グリーフケア研究所は上智大学に移管され、上智大学大阪サテライトキャンパス(大阪市北区)と東京の四谷キャンパスの2ヶ所で活動しています。

上智大学グリーフケア研究所は、グリーフケアや死生学に関する研究、研究会の開催、諸文献の収集及び紀要、著作などの刊行を行うとともに、「グリーフケア人材養成講座」を、大阪サテライトキャンパスでは2009年度から、東京四谷キャンパスでは2014年度から開講しています。
また、2010年度からグリーフケア公開講座「悲嘆について学ぶ」を東京四谷キャンパスで開講しています。また、2016年度に、龍谷大学との共催により、京都でグリーフケア公開講座「悲しみを生き抜く力」を開講しました。
2017年度から大阪サテライトキャンパスに場所を移してグリーフケア公開講座「悲嘆について学ぶ」を開講しています。

上智大学グリーフケア研究所 島薗 進所長

(上智大学大学院実践宗教学研究科委員長)

死別や喪失による悲嘆は人間の複雑さや奥深さを如実に表す経験です。
かつては堅固な型をもった宗教が悲しみに向き合い、悲しみから力を得ていく場を提供していました。だが、現代人は型通りの祈りや儀礼を通してだけではなかなか満足できません。
自らの納得がいくような死生観や癒しの方法を身につけたいと願っていることが多いです。それはまた自らの人生や環境にふさわしい創造的な向き合い方を生み出していくことにも通じます。
上智大学グリーフケア研究所はこうした求めに応じ、現代人にふさわしいグリーフケアのあり方を学ぶ場を提供します。それはまた、ケアの仕事とスピリチュアリティの出会いの場を作っていくことでもあります。
「慈悲」や「無常」の語に代表されるように、日本文化は悲しみを表現する豊かな伝統をもってきました。ここで深めようとしているグリーフケアの学びは、日本人なりのスピリチュアルケアのあり方を探っていくことにもなるはずです。

 


グリーフケア研究所に関するニュース

2019.08.01
グリーフケア研究所特別講習会「悲嘆とともに生きる」を開催します
2019.03.19
2019年度春期グリーフケア公開講座「悲嘆について学ぶ」(東京開講・大阪開講)の受講生を募集します
2019.01.25
JST/RISTEX公開シンポジウム「地域社会と宗教者-グリーフケアと災害・防災」を開催します。
2019.01.25
公開シンポジウム「支え合う、はぐくむ、宗教の力-格差と孤立を超えて-」を開催します。
2019.01.25
トークイベント「いま宗教に向き合う」を開催します。


ともに悲嘆を生きる

2019年08月15日 09時15分57秒 | 社会・文化・政治・経済

 グリーフケアの歴史と文化

島薗 進 (著)
 
その歴史をどう見るかの違いが対立を生み、死者を偲び哀悼の気持ちを新たにするよりも、政治的対立に関心を寄せざるをえなくなっている。

ともに悲嘆を分かち合うことがしにくくなっているのだ。
かつてお盆の時に人はよく泣いたが、文明の社会に進むことによって泣くのが下手になった-柳田國男

商品の説明

内容紹介

●災害・事故・別離等、「ひとり」に耐えて生き抜く力の源とは。
宗教学の泰斗が現場と対話を重ねながら、
宗教、物語、悲嘆と望郷の「うた」を歴史的文脈で捉えなおす。
グリーフケアの待望の基本図書。

フロイト「喪の仕事」、内村鑑三の悲嘆文学、柳田國男の『先祖の話』、
こうの史代『この世界の片隅に』……。

喪失による悲嘆は、人生の意味が問われる大きな経験だ。私にとってもそうだった。 アカデミックな場以上に、悲嘆を抱える方々、また悲しむ者に寄り添おうとする方々とともに学び、考えてきたことが大きい。(著者「あとがき」)

●超高齢社会で大切な人を喪失する悲嘆は身近である。災害や事故による非業の死に向き合ってきた日本人。現代の孤独な個々人は、どのように生きる力をよびさますグリーフワークを行えばよいのか。フロイト、ボウルビィ、エリクソンの医療や心理学での喪失の理論をたどり、近代日本の内村鑑三の『基督信徒のなぐさめ』に悲嘆文学の先駆性、柳田國男の『先祖の話』での家と霊魂、戦争による悲嘆の分かち合いの困難に注目する。JR福知山線脱線事故の遺族ケア、震災後の移動傾聴喫茶、看取りの医療、「遺された親の会」……現場の声に耳を傾けながら、死生学、スピリチュアリティなどの近接領域でも活躍する宗教学者が、第二次大戦から現代までの宗教、物語、詩歌などの文化的装置を歴史的文脈でとらえなおす労作。『日本人の死生観を読む』(朝日選書885)の続編。


◯〈目次〉より、抜粋
【序章】
戦争と災害の後に 喪失と悲嘆の記憶が力となる 悲嘆が分かち合われる場・関係

【第1章】悲嘆が身近になる時代
JR福知山線脱線事故 スピリチュアルケアの知識と経験 『悼む人』の悼む作法 水子供養の背後の悲嘆 無念の死・見捨てられる死 公認されない悲嘆 悲嘆を分かち合う場と関係を求めて

【第2章】グリーフケアと宗教の役割
災害支援と仏教僧侶の活動 悲嘆に寄り添う仏教の実践 移動傾聴喫茶カフェ・デ・モンク 震災で見えてきた伝統仏教の力 岡部健医師の歩み 「お迎え」による安らぎ 死をめぐる宗教文化の再認識 

【第3章】グリーフケアが知られるようになるまで
フロイトと「喪の仕事」 心にとっては「いる」が、現実には「いない」 子どもの愛着と喪失 母親を失った子どもの心理 あいまいな喪失 なぜ、喪失がつらく、長引くのか 

【第4章】グリーフケアが身近に感じられるわけ
悲しみを分かち合う文化の後退 悲嘆の文化の力とその回復 喪の段階と喪の課題 意味の再構築という枠組み 「遺された親の会」 死生学とホスピス運動(死の臨床) グリーフケアと文化

【第5章】悲嘆を物語る文学
文学者としての内村鑑三 『基督信徒のなぐさめ』と悲嘆の文学 『後世への最大遺物』のスピリチュアリティ 特定宗教の枠を超えて 悲嘆文学としての先駆性

【第6章】悲しみを分かち合う「うた」
復活した(?)「故郷」 故郷から遠くへ去った子ども ロンドンデリーの歌 アリランの歌詞 吉本隆明「大衆のナショナリズム」 「大衆のナショナリズム」の底上げ? 悲しみを分かち合うことの困難

【第7章】戦争による悲嘆を分かち合う困難
八月一五日の悲嘆の分かち合い 軍人・兵士の死をめぐる不協和音 戦没学生の遺した文書――『はるかなる山河に』 『きけわだつみのこえ』の刊行 『新版 きけわだつみのこえ』での復元 反戦、殉国、戦争責任…… 悲嘆の共同性と共生という課題

【第8章】悲嘆を分かち合う形の変容
死者・先祖への信仰とお盆行事 死霊・祖霊信仰こそ日本の固有信仰 『先祖の話』で問おうとしたこと 仏教寺院と悲嘆をともにする文化 「寺院消滅」の時代 悲嘆をともにする活動としてのグリーフケア 

出版社からのコメント

超高齢社会をむかえて、喪失体験と悲嘆は身近だ。宗教学の泰斗がフロイトやエリクソンなどの理論から物語、詩歌、映画を題材に、自助グループなど現場との密接な対話を重ねて、グリーフケアの歴史と文化をたどった、待望の初の基本書籍。

内容(「BOOK」データベースより)

災害・事故・別離等、「ひとり」に耐えて生き抜く力の源とは。宗教学の泰斗が現場と対話を重ねながら、宗教、物語、悲嘆と望郷の「うた」を歴史的文脈で捉えなおす。グリーフケアの待望の基本図書。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

島薗/進
1948年、東京都生まれ。宗教学者。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。東京大学名誉教授。現在、上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所所長。主な研究領域は近代日本宗教史、死生学。2012年に『日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ』(朝日選書)で第6回湯浅泰雄賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?

2019年08月15日 01時23分55秒 | 社会・文化・政治・経済


JST | 2015年11月26日 

木村幹・神戸大教授に聞く

そもそも日韓の歴史「認識」問題とは何なのか。両国の認識の違いが表面化した背景には何があり、今後、隣国との関係はどうなっていくのか。
ここ数年、第2次世界大戦中の旧日本軍の従軍慰安婦問題など、主に1945年以前の歴史を巡る認識(歴史認識)での対立が目立つが、そもそも歴史「認識」問題とは何なのか。両国の認識の違いが表面化した背景には何があり、今後、隣国との関係はどうなっていくのか。
『日韓歴史認識問題とは何か』(ミネルヴァ書房)を出版し、ハフポスト日本版や韓国版のブロガーでもある木村幹・神戸大大学院教授を招き、大学生向けに講義してもらった。

きむら・かん 1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。著書に『朝鮮半島をどう見るか』、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『徹底検証 韓国論の通説・俗説』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(吉野作造賞)など。

木村:そもそも「歴史認識問題」って何でしょうか。従軍慰安婦「問題」は1990年代以前に誰も議論しなかった。それだけでも単に過去に問題があったからと言って、いつも同じように問題があったわけではないことがわかる。考えてみれば1945年から70年遡ると、明治維新の直後。「戦前」とは、それぐらいの時間が経っているわけです。当然そこにはいろいろと変化がある。

だからこそ、現在からの観点には、時間の経過の結果、バイアスがたくさんかかっています。例えば、一番素朴なバイアスの例としては、特に大学生の世代は「なんか日韓って常に歴史認識問題で議論してきたよね」というイメージがあるでしょう。僕も授業で「韓国
って軍事政権だったんですか」と驚かれたりすることがあります。逆に言えば、今の大学生が生きている20何年間、日韓はずっと歴史認識問題を議論してきたんですけど、その前の50年間も同じだったか、というと必ずしもそうではない。
まず最初にやらないといけないのは70年間の全体像を把握すること。ここでは韓国の朝鮮日報という新聞で、記事のタイトルやキーワードに、「慰安婦」や「靖国」などが入っている記事の本数を拾い、日本に関する記事全体の中での割合を計算してみました。現在問題になっている竹島や靖国神社参拝、慰安婦、教科書といったような問題は、ほとんど90年代以降になって活発に議論されていることがわかります。
また、この表から第2次世界大戦から今日までの時期はおおまかに、3つの時期に分けられることがわかります。最初の時期は、第2次世界大戦の処理を巡って、現在進行形の問題で議論されていた時期です。これが1965年の日韓基本条約で終わります。そして、ここからしばらく、日韓の間で歴史認識問題がほとんど議論されなかった時期がありました。
念のために言っておくと、歴史認識問題が議論されなかった時期において、日韓の間でトラブルがなかったわけではありません。例えば1973年には金大中拉致事件がありました。当時はどちらかというと韓国の民主化や軍事政権の問題、あるいは日本の自民党政権と韓国政府の癒着問題など、過去ではなくその時の問題について議論していた。だけど90年代からは、逆に過去の問題を議論するようになった。ここからこのあたりで、何かが変わったということがわかります。80年代から90年代に何かが動いて、ここに現在の状況の原因があるだろうと考えられるわけです。

そして同時に、非常に奇妙なことがわかる。例えば、1980年代頃はまだ韓国に留学するのがとても大変だった時代です。僕がはじめて韓国に留学したのは1992年なんですけど、ソウル大学の韓国史学科に留学しようと思ったら「あそこは日本人は受け入れない」なんていう話が正々堂々と言われた時代でした。それに比べて90年代後半からどんどん交流が活発になっていった。にもかかわらず状況が悪くなっているのは、なぜなのか。

交流がだめだって言っているわけじゃないですよ。だけど、交流の増加が歴史認識問題の解決にあまり効果がないのではないか、少なくてもデータから推測できることになります。

■「日本の右傾化」「韓国の反日」は理由として正しいか

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
1987年6月15日、韓国・ソウルの民主化運動

日韓関係の状況が悪くなっているのは、なぜなのか。これに対してよく次の2つの答えが返ってきます。1つは「日本が右傾化しているからだ」。特に韓国ではよく言われます。でも、仮に1980年代からずっと右傾化してきたのなら、1960~70年代の日本の政権はとてもリベラルで、韓国に好意的だったはずなのに、そんなことはない。実際、60~70年代の岸信介、佐藤栄作などはものすごく保守的な政治家でした。そもそも右傾化って何だろうという話にもなります。

もう1つは「韓国人は議論したかったんだけど、軍事政権だったからできなかった」という意見。これはある程度当たっているんですけど、考えてみると教科書問題は80年代に始まっています。80年代の韓国はまだ軍事政権(全斗煥政権)です。歴史認識問題は政権に都合が悪いから弾圧したというのは、実はその前の朴正熙大統領(朴槿恵大統領の父)が1979年に暗殺されるまでの話です。だからこの理屈で80年代の状況は説明できない。

もう1つ、「韓国人は反日だからだ」という議論があります。通俗的に韓国の民族性とか反日教育と言いますけど、考えてみれば、こう人たちが言うところの「反日教育」は韓国では昔から行われてきた。もちろん、韓国の教科書に「日本の植民地支配がよかった」と書かれたことなんて1度もないわけです。そうすると、韓国の民族性が突然90年代に変わったり、韓国の教科書の内容が突然、反日的になったりしていない以上、この理屈では変化は説明できません。そもそも一部の人がいう「反日教育」とか「強い民族主義」という説明には、多分に90年代以降のイメージも投影されていたりします。

■グローバル化で隣国の重要性は下がる

さてここで考えてみてください。それば、韓国の人は竹島や靖国神社が重要な問題だと考えている。でも同時に日本そのものがとても重要だと韓国人がみんな考えていれば、どうなるでしょうか。例えばさっきのデータに戻ると、中曽根康弘首相(当時)が1985年8月15日に靖国神社を公式参拝しています。でも、この年の記事の数は決して多くありません。なぜなら8月16日の新聞には確かに大きく出たんですけど、9月以降には全く報じられていないからです。当時は、日韓関係が悪くなると、韓国経済に影響が出ることを心配した財界が止めに入る時代でした。政治家にお願いしたり、派手に日本批判をする新聞に、広告をてこに圧力をかけたりします。そうするとメディアの論調も変わるし、国民の中からも「日韓関係は重要だから、批判する方も自制すべきだ」という声が上がってくる。だからこの年の靖国問題は長引かなかった。

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
この話を念頭に、考えてみてください。日韓間では国交回復後ほぼ一貫して貿易額や観光客が増えています。つまり交流は増えているんですけど、でも、交流の量ってあんまり重要じゃないんですよね。それは子供が成長するときの話に似ています。子どもの頃は行動範囲が狭いから、近くの友達しかいないけど、大学生になると行動範囲が広くなって、故郷の友達は、仮に毎日通学途上に顔を合わせていても、あまり重要ではなくなってくる。つまり、全体の中での位置付けを見なければ何もわからないわけです。

さて、下のグラフでは、韓国における主要国、つまり日本、中国、アメリカの貿易のシェアを示しています。日本のシェアが真っ逆さまに落ちているのがわかります。まあ考えたら当たり前なんですけど、韓国も日本も、お互いの交流だけでなく、他国との交流も増えているんですね。そしてその他国の交流が急速に拡大すると、お互いの「重要性」が相対化されるという現象が起こるわけです。

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
この話をすると「それは先生、日本経済がだめになったからですね」「失われた20年が」、という話にすぐになるんですけど、違います。日本が韓国の貿易のシェアでピークを占めたのは70年代前半、その数字は実に40%に達しています。韓国にとっては当然、日本との貿易に少しでも影響が出るともう大変です。これが下がり始め、バブルの時にちょっと増えるんですけど、また下がります。日本経済の成長は80年代まで続くのに、ピークが70年代で、そしてアメリカもほぼ日本に並行して下がっています。ということは、日本経済そのもののパフォーマンスはほとんど関係ないということになります。

では日本のシェアの低下の理由は何でしょう。1つ目は中国の登場です。でも、中国との貿易の拡大は確かに量で見るとすごいけど、シェアで見ると現在も依然として20数%にしか過ぎない。考えてみれば日本のシェアはかつて40%、アメリカも35%あったんです。それが現在は、両国足して2割以下。60%近くのシェアを2カ国だけで失っています。にもかかわらず中国は20%ちょっとしか取ってないということは、中国で説明できるのは3分の1ぐらい。背景には冷戦の終焉がありました。韓国は、ソ連と1990年、中国と1992年に国交正常化します。それまで、今ではちょっと考えられないことですけど、旧東側の国と貿易さえ直接できなかった時代がありました。世界の残り半分と交流できるようになってくると、アメリカと日本の比率は下がっていく。

2つ目は韓国そのものが大きくなっている。昔の韓国の企業は、わかりやすく言えば日本とアメリカとしか取引できなかった。今はもうサムスンや現代が世界のどことも取引できる。韓国企業も大きくなったからです。

もう1つはグローバル化です。グローバル化すると国境がなくなるから隣の国が重要になるという議論をする人がいますが、それは間違いです。グローバル化とは世界が小さくなること。日本も70年代はじめまでは1ドル360円の時代でした。だから海外旅行というと、韓国か台湾かグアムかサイパン、ものすごくお金を出してアメリカの西海岸かヨーロッパという時代でした。だけど今は皆さんでも安くいろんな国に行ける。ネットで一発でヨーロッパもブラジルのホテルも予約できるのはすごいことですよね。すると、別に隣の国じゃなくてもいい。リピーターで韓流ファンの人たちはいますけど、比率としてはしょせん少数です。こうして、日本においても韓国においても、相手の国の重要性は下がっていきます。

もっと言えばこのトレンドは変えられない。グローバル化が後ろ向きになることもないですし、米中が激しく対立して、中国が韓国に「アメリカと国交を切れ」と迫る「第二の冷戦」が来れば話は別ですけど、そんな時代はやってこないでしょう。韓国経済が昔のように1人当たりの国民所得が100ドルを切る時代になるとも思えません。そうすると、グローバル化を前提にしてしか物事は進まない。

■日韓の歴史「認識」が初めて衝突した「教科書問題」

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
(C)時事通信社

ではケーススタディーとして教科書問題を取り上げてみたいと思います。実は一番最初に起こった日韓間の深刻な歴史認識問題は、1982年なんです。これは、1982年6月に日本のメディアが、文教出版の教科書で「日中戦争の記述が『侵略』から『進出』に書き換えられた」という有名な報道から始まっています。

1978 1983 1990 1993 1996 2000 2004
第1次日韓協約 ◎ ○ ○ ○ ○ ◎ ◎
第2次日韓協約 ○ ◎ ◎ ◎ ○ ○
第3次日韓協約 ○ ○
ハーグ密使事件 ○ ○ ○ ○ ○ ◎
韓国統監 ○ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
安重根 ◎
日韓併合条約 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
朝鮮総督 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
土地調査事業 ○ ○ ○ ○ ○ ◎
3・1運動 ○ ○ ◎ ◎ ○ ◎ ◎
皇民化運動 ○ ○ ○ ○ ◎
創氏改名 ○ ○ ○ ○ ◎
義兵闘争 ○ ○ ○ ◎ ◎
関東大震災(と朝鮮人虐殺) ◎
従軍慰安婦 ○ ◎
強制連行 ◎
2008年調査。◎=教科書に太字で重要項目として取り上げられているもの

○=普通の字体で重要項目とされていないもの

そもそも日本の教科書について、実は皆さん、あまり真面目に見たことがありません。これは東京書籍の教科書のデータを取りました。日本の教科書は実は2005年まで、植民地支配に対する表記は増えています。1978年の教科書から容易に想像がつくように、70年代の教科書には朝鮮半島のことはほとんど書いてありませんでした。

ちなみに僕は1982年の山川出版社の教科書で勉強したんですが、研究の過程で改めて読み返すと、この日本史の教科書には、韓国併合、そして三・一運動について欄外に、14か条の平和原則に刺激されて、アジア諸国で起こった民族運動の一つとして書かれていただけ。それに比べれば実は、皆さんが読んだ教科書や、韓国内で「右翼教科書」と言われて評判の悪い自由社や育鵬社の教科書でも、僕から見たら「えっ、こんなことまで書いてあるの?」っていうぐらい実は記述は充実しています。ちなみに記述の多さは2005年頃がピークで、慰安婦もここで一旦全部の教科書に入って、やがて減っていきます。もし日本の教科書の韓国から見た右傾化、というのが本当にあるとすれば、2005年以降の話です。

そうするとわかるのは、今から客観的に見て、1982年当時の教科書の内容が前後と比べてとても悪かったという話はない。そもそも、韓国人は日本の教科書や検定制度をどこまで知っていたかも問題です。

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
さて、この年の教科書問題は、1982年6月26日に日本のメディアが華々しく報道してはじまるんですが、直後の韓国はどういう状態だったんでしょうか。ここに示したのは、その翌日27日の朝鮮日報の10面です。これを示したのは、この日の新聞には、ここにしか日本の教科書の記事はないからです。つまり、教科書問題が始まった時には、実は韓国人はこの問題に注目していなかったことがわかります。

にもかかわらず7月になると問題が大きくなります。韓国のメディアが一斉に報道するのは1カ月後になってからなんです。そもそも当時一番の問題になっていたのは日中戦争の記述の話だったのですが、中国が公に日本を批判するのに1カ月もかかりました。日中の政府間で水面下で協議したけど、うまくいかず、7月24日に中国の「人民日報」が日本政府を批判したのがそのはじまりです。すると突然、韓国の新聞が25日に「歴史の罪を許さない」「軍国主義が復活している」と報じます。

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
自民党とその背後で日本政治の重要政策を決定している60歳代の人々は、第2次世界大戦当時の青年将校や軍属たちだ。彼等は近年、憲法改正による再武装を実現しようとする具体的な動きを見せており、国外においては我が国や中国、更には東南アジア諸国に対する経済的進出による強大な基盤をベースにし、国内においては嘗ての軍国主義による侵略を正当化し、美化する出版物や映画を作るなどの動きを、近年、見せている。それによりこれまで自制してきた自らの欲望をいよいよ白日のもとに晒してきたのだ。(朝鮮日報1982年8月8日付)
当時の朝鮮日報の特派員に聞くと、中国の記者が政府に言われて一斉に文部省に抗議に行く。それを見て韓国の記者たちも「何かやらなあかん」と思ったそうです。当時の日中関係はすごくよかったので、韓国人はすごい不満を持っていたんです。日本は中国ばかり優遇している。同じ西側陣営の国なのに、韓国は「軍事独裁」とボロくそに言われる。今回も文部省は中国にだけ一生懸命謝る。気にくわないので、なんで韓国に謝れないんだと文部省に抗議に行く。でも教科書のことはよくわからない。で、文部省の検定官に「あなたはそもそも韓国併合は合法だと思うんですか」と聞く。「合法です」と答えさせて「日本の教科書検定官が妄言」と報じる。実はその以前も以後も日本政府は1回も韓国併合が違法だと言ったことはないわけですが「ほら見ろ、軍国主義化が進んでいる」と言わんばかりに。

今は韓国と中国が、歴史認識問題で協力しているというイメージがあるんだけど、これも今の偏見で、実は当時はむしろ激しく競争していたんです。中国が先に走り、韓国が追いかけて材料を探す。その中で教科書の記述が韓国と違うということが見つかっていきます。実は元から違っていたのですけど、それがあたかも今新たに起こったものだと考えられたわけです。そしてそこに「軍国主義化」という意味づけがなされていく。そして実はこれ、背景に冷戦が終わりに向かい新たな状況が生まれるという話なんですね。

■中国と韓国の競争、そして冷戦の終わり

日韓が対立する歴史「認識」問題って何?
ここでそれを象徴する、興味深い記事を見てみましょう。「反対ヒステリー日本社会、今度は右傾化アレルギー」と書いてあります。右傾化を懸念しているのではありません。右傾化に対して日本社会がアレルギーを持っていることがけしからんという記事です。

また、原子力発電所は資源のない日本にとって、石油エネルギーに対する重要な代替エネルギーであり、その危険性を考慮に入れても、技術管理が可能である、というのが日本政府の立場である。
にもかかわらず、日本の社会的雰囲気は反対一辺倒だ。靖国参拝や自衛隊合憲は、軍国主義の復活であり、原子力発電所の建設は、日本国民の滅亡に繋がる、という社会的雰囲気が作られつつある。
第三者の目から見た時、靖国神社はどの国にでもある「国立墓地」に過ぎず、世論の80%以上が既に自衛隊の存在を肯定的に評価している以上、憲法をより現実的なものに改正するのは当然だろう。(朝鮮日報1981年5月8日付)
今の学部生に「これはどの新聞ですか」とクイズを出すと100%の人が「産経新聞」と答える内容は、実は1981年5月8日の朝鮮日報の1面のものです。ちなみに書いた人は東京特派員で、先ほどの記事を書いたのと同じ人です。

なぜこれを書いたのかは明確で、これは日本社会党批判なんです。当時の韓国にとって、日本が右傾化するよりもっと困るのは左傾化することでした。当時の社会党は「韓国はだめだ、北朝鮮と国交を結べ」と言っていた。非武装中立を主張して、西側陣営から脱退しろと言っていたわけです。だからこそ韓国は「頑張れ、自民党」とみんなで言うことになります。そうしないと、大国日本の支えがなくなって自分の国がなくなりかねないからです。でも時代が変わっていきます。そもそも教科書問題に関心なんかなかったけど、1972年に日中が国交正常化して、日本の中で中国と韓国が競争する状態が生まれます。その中でゴリゴリの反共産主義だった韓国が変わっていくのが、この時期で、その中で教科書問題が発見される。国交もなかった中国と韓国が競争するなんていうのは、60年代ならありえない話でした。1982年の教科書問題はこうして冷戦が終わろうとしていた時期に起きた、典型的な事件だったわけです。

では、次のケーススタディーとして慰安婦問題を考えましょう。(続編:慰安婦問題、日韓の歴史「認識」はなぜ対立する? へ)

 

 

 


日韓外務次官協議、16・17日に開催調整 マニラで

2019年08月15日 01時09分17秒 | 社会・文化・政治・経済

8/14(水) 朝日新聞デジタル
 日韓両政府が16~17日に非公式の外務次官協議をフィリピンのマニラで開くことを調整している。日韓政府筋が明らかにした。元徴用工や輸出規制の問題などを話し合う方向で、今月下旬に北京で予定する日韓外相会談の地ならしをする狙いもある。ただ、協議が実現するかは見通せない。

 関係者によると、非公式協議には、外務省の秋葉剛男事務次官と韓国外交省の趙世暎(チョセヨン)・第1次官が出席する。米国が、日韓関係の悪化がもたらす東アジアの安全保障体制への悪影響を憂慮していることを受け、日韓の外交当局は対話の機会を模索。日韓で歴史問題に注目が集まる15日が終わった後、第三国で次官協議を行う方向で調整していた。

 日本側は、文氏が植民地支配から解放された「光復節」(15日)の式典でどんな演説をするかに注目する。日本の世論の反発を招く内容になった場合、協議を延期する可能性もある。