私は牧師ですが普通牧師ということばでイメージされるようなものとは随分異なった職務についています。私の牧師としての職務はアイスランドにやって来た移民の人達のサポートをすることにあります。
外国への移住というのは、普通の人にとってはそう簡単に乗り越えられる変化ではありません。言葉が違う、というたったひとつのことをとっても相当なプレッシャーとハンディになります。
そこに加えて、習慣やさらにその根底にある文化的価値観の違いもあります。食べ物の違いもばかにはできませんし、子供がいる場合には子供の教育やしつけの問題もあります。こういう問題が積み重なると自分自身への信頼を失ってしまい、ホスト国への怒りさえ覚えるようになることも少なくありません。
私の仕事の中心に位置するものは、このような移住のプロセスに関わって、その人の移住が不必要な問題に捕われずにスムースに行われることを助けることです。別の言い方をするならば「その人自身を失わないようにアシストすること」あるいは「自分自身であることを取り戻す手伝いをすること」ということになりましょうか。
と言ってもそんなにかっこのいいお助けマンではありません。何しろ自分自身がその移住のプロセスで自分に失望し、怒りまくる時期を過ごしましたから。その結果としての離婚も経験しました。決して良い経験ではありませんでしたが、幸いなことは、その体験を他の移民の人達のために使えることです。
自分自身であることを支えるのが目的であるとするならば、当然、仏教徒なら仏教徒、イスラム教徒ならイスラム教徒、無神論者なら無神論者であり続けることをサポートすることになります。ですから、私の仕事の目的は他の人々をキリスト教化することではありません。これが普通の場合の牧師の職務と異なる点です。
もちろんそれでも根っこではキリスト教と無関係ではないですよ。本当の自己とは何か?という問題に繋がって行きますからね。本当の自己、とは決して今ある自分と同じであるとはかぎりませんから。酒や賭博にうつつを抜かしている人があるとして、その人が「これが本当の俺なんだ」といっても、それは受け入れられません。
私の職務はアイスランド国民教会という大きな器の中であるからこそ有意義に機能することができるのですが(皆が私のような牧師だったら教会は困ります)、教会の中の人達がみんな私のやろうとしていることを理解してくれたわけでもないですし、賛成してくれたわけでもありません。今でも。
「ベトナム人は大体仏教徒だろ?教会が何で彼らと関わりがあるんだ?」というような態度でした。20年前は。今は大分変わってきました。人が困っている時に知らんぷりをして、その後都合の良い時だけ「教会へどうぞ」と言うことのばかばかしさが理解されてきたのだと思います。
もちろん、そういうマイナス思考からの演繹だけではなく、人がその人自身であることを支援することが、教会の本質から導きだされるべき考えであることも認められてきたのだと思います。
「自分であることの大切さ」これは相当重いことです。私の仕事の中では、教会の教義的なもの含めても「(各人が)自分自身であること」はその核の部分にあります。
外国への移住というのは、普通の人にとってはそう簡単に乗り越えられる変化ではありません。言葉が違う、というたったひとつのことをとっても相当なプレッシャーとハンディになります。
そこに加えて、習慣やさらにその根底にある文化的価値観の違いもあります。食べ物の違いもばかにはできませんし、子供がいる場合には子供の教育やしつけの問題もあります。こういう問題が積み重なると自分自身への信頼を失ってしまい、ホスト国への怒りさえ覚えるようになることも少なくありません。
私の仕事の中心に位置するものは、このような移住のプロセスに関わって、その人の移住が不必要な問題に捕われずにスムースに行われることを助けることです。別の言い方をするならば「その人自身を失わないようにアシストすること」あるいは「自分自身であることを取り戻す手伝いをすること」ということになりましょうか。
と言ってもそんなにかっこのいいお助けマンではありません。何しろ自分自身がその移住のプロセスで自分に失望し、怒りまくる時期を過ごしましたから。その結果としての離婚も経験しました。決して良い経験ではありませんでしたが、幸いなことは、その体験を他の移民の人達のために使えることです。
自分自身であることを支えるのが目的であるとするならば、当然、仏教徒なら仏教徒、イスラム教徒ならイスラム教徒、無神論者なら無神論者であり続けることをサポートすることになります。ですから、私の仕事の目的は他の人々をキリスト教化することではありません。これが普通の場合の牧師の職務と異なる点です。
もちろんそれでも根っこではキリスト教と無関係ではないですよ。本当の自己とは何か?という問題に繋がって行きますからね。本当の自己、とは決して今ある自分と同じであるとはかぎりませんから。酒や賭博にうつつを抜かしている人があるとして、その人が「これが本当の俺なんだ」といっても、それは受け入れられません。
私の職務はアイスランド国民教会という大きな器の中であるからこそ有意義に機能することができるのですが(皆が私のような牧師だったら教会は困ります)、教会の中の人達がみんな私のやろうとしていることを理解してくれたわけでもないですし、賛成してくれたわけでもありません。今でも。
「ベトナム人は大体仏教徒だろ?教会が何で彼らと関わりがあるんだ?」というような態度でした。20年前は。今は大分変わってきました。人が困っている時に知らんぷりをして、その後都合の良い時だけ「教会へどうぞ」と言うことのばかばかしさが理解されてきたのだと思います。
もちろん、そういうマイナス思考からの演繹だけではなく、人がその人自身であることを支援することが、教会の本質から導きだされるべき考えであることも認められてきたのだと思います。
「自分であることの大切さ」これは相当重いことです。私の仕事の中では、教会の教義的なもの含めても「(各人が)自分自身であること」はその核の部分にあります。