毎日の気温が15度前後という、まことに快適な「夏らしい夏」のレイキャビクです。七月も中旬になってしまったというのが残念な気がしています。毎日、日が短くなっていくという事実に目を向けるも嫌ですし、加えて今年の場合は「どうかこの『暑い日』が続きますように」という願望が強いので。
その反面、七月中旬は相変わらずアイスランド人のヴァケーション季節の真っ只中ですので、職場というか、街中にも緊張感がないというか、「今は夏休み」的なムードが漂っています。
私の場合は、七月八月はそんなに暇ではなく、かなりするべきことはたくさんあるのが普通です。周囲が夏休みに行ってしまう分、その部分を私がカバーするようなことがすることが出てきたりするのです。
ブログ内容とは関係ありませんが、このユーモア大好き
それでも去年の夏は -あれを「夏」と呼べるのだとしたらですが。日照時間最小の記録を作ったと記憶しています- 非常に静かでゆとりがありました。今年は去年ほどゆとりはなく、定期的な集会、個別の問題の相談等々間断なくやってきます。
この一週間は特に「親権のトラブル」とかの相談が続いてしまったのですが、私よりは弁護士のところにいく必要があります。それでも「話しを聞く」ということが大切なことですので、ちゃんと応対します。
当たり前の話しですが、親権のトラブルに限らず、問題を抱えている人は普通「鬱(ウツ)的」になります。私は結構耐久力がある方だと思うのですが、それでも時々こちらまでウツになりそうなことがあります。
今回気が付いたのですが、今のように周りに人が少ない時の方が、ウツに対する抵抗力が落ちるような気がします。周囲の人たちとの会話とかで発散できないからからかな? …? 今後の考察事項です。
というわけで、やることはそれなりにある夏なのですが、それでも「夏の非繁忙期にやってみたい」と思っていたことが今年はあります。それは「ビデオ作り」です。それもYouTube用のビデオです。
そうです。Youtuberになることを目論んでいるのです!
「いい歳をして、なんじゃ!」と思われるでしょうが、これは趣味ではなく仕事の上でのことです。つまりキリスト教、教会を紹介するビデオを作って流すことを考えているのです。
これは、実は私としてはかなりコペルニクス的な転換なのです。 牧師のくせに根性のないワタシは、あまり直接的な「伝道」が得意ではありません。「伝道」というのは例えば通りで路行く人に「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」というような、アレです。人々を教会へ「導く」のが伝道ということです。まあ、私としては「いざなう」という言い方の方が好きですが。
キリスト教のメッセージを伝えることはもちろん大切
Myndin er ur Bible-jp.org
私がアイスランドへ来て二十七年になります。始めの五年間くらいは、ある意味「準備期間」みたいなものでしたし、それ以降の二十年くらいは移民牧師としての職務を確立するのに費やしました。
「移民」という社会現象はアイスランドでは歴史が浅く、私が移ってきた1990年以降くらいから顕著になってきたものです。1992年にはアイスランドに住む外国人は五千人程度でしたから。今は三万五千人、しかもアイスランド国籍を取得した一万人あまりは勘定しないで。
そういう中で始まった私の仕事なのですが、まずしなければならないことは「移民」というものを、アイスランドの社会がきちんと受け入れる下地作りに参加することでした。
そこでは実際に移民の人たちのトラブルの解決を探すような実生活的な事柄から、マルチカルチュラル社会とはどういうもので、それを目指すにはどのような社会的施策が必要なのか?というような政治にも関連するようなレベルの事柄まで含まれていました。
そういう環境で始まった私の職務のメインにあったのは、例えば「移民の相談に乗る公共の窓口の設置」「移民に対する偏見の指摘」「移民に対する差別の是正」「移民の子供たちの母国語教育の必要性のアピールと実際の母国語教育の母体作り」「キリスト教会と他の宗教団体との対話のプラットフォーム作り」等々でした。
これらの課題に、私は「教会代表」のような感じで参加していたのですが、お分かりかと思いますが実際は「教会の外で」働くことが多かったのです。
「外で」働く際に必要なことは「空気を読むこと」で、要するにキリスト教を振り回すだけではダメなのです。「他者に尊敬を払い」「基本的人権を掲げる」ことができない人は、たとえ敬虔なクリスチャンでも -というか敬虔であればあるほど- 「教会の外で」働くことは難しいでしょう。
というわけで、これまで私は移民牧師としても「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」からはかなり遠いところで過ごしてきたわけです。
しかしながら「伝道」「宣教」ということは、真面目な話し、教会にとってはとても重要なことです。その熱意を失ってしまっては教会としての生命をも失うようなことになります。
私が多少揶揄したくなるのは「アナタハ カミヲ....」のような、見ず知らずの人の内面の問題にズカズカと土足で入り込んでいくような振る舞いというかマナー(のなさ)です。人にキリスト教を伝えるにしても、ちゃんとその人への敬意を持って、またその人の権利を尊重する仕方でしなければなりません。
さて、いずれにしても私は長らく教会の「伝道」とか「宣教」とかということにはあまり直接関わらないで過ごしてきたわけです。
Seekers「難民の人たちとする祈りの会」の初期の頃
それがここ五年ほど、「移民牧師」からほぼ専属の「難民牧師」となってしまいました。一番大きな変化は、難民の中にはイランからの人たちのように「キリスト教に関心があるから」国を逃れざるを得なかった人たちがいることでした。
イランでは聖書を持っているだけで逮捕されます。キリスト教へ改宗した場合は -正確にはイスラム教を捨てた場合には- 男性は極刑、女性は終身刑となるそうです。イランは極端な例ですが、イスラム諸国ではどこでもキリスト教への改宗は問題をもたらすと聞いています。
そういうところから難を逃れてやってきた人たちと接すると、当然その人たちのためのキリスト教的な集会を持ってあげることが必要となります。そこから出てきたのが「難民の人たちとする祈りの会」でした。
この会を総計五つの教会で続けるうちに、ひとりまたひとりとクリスチャンになる洗礼式を希望する人が出てきました。これまでのところ約四年間で五十二人の人が受洗(洗礼を受けること)しています。未成年者は四人だけで、あとはすべて成人です。
ちょっと脇道に逸れますが、アイスランドのような伝統的な「キリスト教国」では、みんな洗礼は赤ちゃんの時に受けてしまいます。ですから成人洗礼式は非常に珍しいものになります。私は日本で牧師になりましたので、成人洗礼には慣れています。日本では成人洗礼の方が多いだろうと思います。
で、この「難民の人たちとする祈りの会」からビデオ作りの考えが生まれてきたのですが、今回は前説で終わってしまいました。次回、もう少し私のYoutuberへの夢?を語りたいと思います。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
その反面、七月中旬は相変わらずアイスランド人のヴァケーション季節の真っ只中ですので、職場というか、街中にも緊張感がないというか、「今は夏休み」的なムードが漂っています。
私の場合は、七月八月はそんなに暇ではなく、かなりするべきことはたくさんあるのが普通です。周囲が夏休みに行ってしまう分、その部分を私がカバーするようなことがすることが出てきたりするのです。
ブログ内容とは関係ありませんが、このユーモア大好き
それでも去年の夏は -あれを「夏」と呼べるのだとしたらですが。日照時間最小の記録を作ったと記憶しています- 非常に静かでゆとりがありました。今年は去年ほどゆとりはなく、定期的な集会、個別の問題の相談等々間断なくやってきます。
この一週間は特に「親権のトラブル」とかの相談が続いてしまったのですが、私よりは弁護士のところにいく必要があります。それでも「話しを聞く」ということが大切なことですので、ちゃんと応対します。
当たり前の話しですが、親権のトラブルに限らず、問題を抱えている人は普通「鬱(ウツ)的」になります。私は結構耐久力がある方だと思うのですが、それでも時々こちらまでウツになりそうなことがあります。
今回気が付いたのですが、今のように周りに人が少ない時の方が、ウツに対する抵抗力が落ちるような気がします。周囲の人たちとの会話とかで発散できないからからかな? …? 今後の考察事項です。
というわけで、やることはそれなりにある夏なのですが、それでも「夏の非繁忙期にやってみたい」と思っていたことが今年はあります。それは「ビデオ作り」です。それもYouTube用のビデオです。
そうです。Youtuberになることを目論んでいるのです!
「いい歳をして、なんじゃ!」と思われるでしょうが、これは趣味ではなく仕事の上でのことです。つまりキリスト教、教会を紹介するビデオを作って流すことを考えているのです。
これは、実は私としてはかなりコペルニクス的な転換なのです。 牧師のくせに根性のないワタシは、あまり直接的な「伝道」が得意ではありません。「伝道」というのは例えば通りで路行く人に「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」というような、アレです。人々を教会へ「導く」のが伝道ということです。まあ、私としては「いざなう」という言い方の方が好きですが。
キリスト教のメッセージを伝えることはもちろん大切
Myndin er ur Bible-jp.org
私がアイスランドへ来て二十七年になります。始めの五年間くらいは、ある意味「準備期間」みたいなものでしたし、それ以降の二十年くらいは移民牧師としての職務を確立するのに費やしました。
「移民」という社会現象はアイスランドでは歴史が浅く、私が移ってきた1990年以降くらいから顕著になってきたものです。1992年にはアイスランドに住む外国人は五千人程度でしたから。今は三万五千人、しかもアイスランド国籍を取得した一万人あまりは勘定しないで。
そういう中で始まった私の仕事なのですが、まずしなければならないことは「移民」というものを、アイスランドの社会がきちんと受け入れる下地作りに参加することでした。
そこでは実際に移民の人たちのトラブルの解決を探すような実生活的な事柄から、マルチカルチュラル社会とはどういうもので、それを目指すにはどのような社会的施策が必要なのか?というような政治にも関連するようなレベルの事柄まで含まれていました。
そういう環境で始まった私の職務のメインにあったのは、例えば「移民の相談に乗る公共の窓口の設置」「移民に対する偏見の指摘」「移民に対する差別の是正」「移民の子供たちの母国語教育の必要性のアピールと実際の母国語教育の母体作り」「キリスト教会と他の宗教団体との対話のプラットフォーム作り」等々でした。
これらの課題に、私は「教会代表」のような感じで参加していたのですが、お分かりかと思いますが実際は「教会の外で」働くことが多かったのです。
「外で」働く際に必要なことは「空気を読むこと」で、要するにキリスト教を振り回すだけではダメなのです。「他者に尊敬を払い」「基本的人権を掲げる」ことができない人は、たとえ敬虔なクリスチャンでも -というか敬虔であればあるほど- 「教会の外で」働くことは難しいでしょう。
というわけで、これまで私は移民牧師としても「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」からはかなり遠いところで過ごしてきたわけです。
しかしながら「伝道」「宣教」ということは、真面目な話し、教会にとってはとても重要なことです。その熱意を失ってしまっては教会としての生命をも失うようなことになります。
私が多少揶揄したくなるのは「アナタハ カミヲ....」のような、見ず知らずの人の内面の問題にズカズカと土足で入り込んでいくような振る舞いというかマナー(のなさ)です。人にキリスト教を伝えるにしても、ちゃんとその人への敬意を持って、またその人の権利を尊重する仕方でしなければなりません。
さて、いずれにしても私は長らく教会の「伝道」とか「宣教」とかということにはあまり直接関わらないで過ごしてきたわけです。
Seekers「難民の人たちとする祈りの会」の初期の頃
それがここ五年ほど、「移民牧師」からほぼ専属の「難民牧師」となってしまいました。一番大きな変化は、難民の中にはイランからの人たちのように「キリスト教に関心があるから」国を逃れざるを得なかった人たちがいることでした。
イランでは聖書を持っているだけで逮捕されます。キリスト教へ改宗した場合は -正確にはイスラム教を捨てた場合には- 男性は極刑、女性は終身刑となるそうです。イランは極端な例ですが、イスラム諸国ではどこでもキリスト教への改宗は問題をもたらすと聞いています。
そういうところから難を逃れてやってきた人たちと接すると、当然その人たちのためのキリスト教的な集会を持ってあげることが必要となります。そこから出てきたのが「難民の人たちとする祈りの会」でした。
この会を総計五つの教会で続けるうちに、ひとりまたひとりとクリスチャンになる洗礼式を希望する人が出てきました。これまでのところ約四年間で五十二人の人が受洗(洗礼を受けること)しています。未成年者は四人だけで、あとはすべて成人です。
ちょっと脇道に逸れますが、アイスランドのような伝統的な「キリスト教国」では、みんな洗礼は赤ちゃんの時に受けてしまいます。ですから成人洗礼式は非常に珍しいものになります。私は日本で牧師になりましたので、成人洗礼には慣れています。日本では成人洗礼の方が多いだろうと思います。
で、この「難民の人たちとする祈りの会」からビデオ作りの考えが生まれてきたのですが、今回は前説で終わってしまいました。次回、もう少し私のYoutuberへの夢?を語りたいと思います。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
後編を待っています。
コメントありがとうございます。
イランの人は日本が大好きだ、という話しは多くの人たちから聞いています。実際そのようですよ。
嫌われるよりはいいですね。(*^^*)