アイスランドは北欧の中ではデンマークと並んで「言葉の非寛容の国」として知られています。「ここに住むなら言葉を習得しろ」という気風が強いのです。ですから移民の人たちの「社会への適応の鍵も言葉の習得がキーだ」というのが基本的な考え方として存在しています。
そんな社会の中で、昨今アイスランド語を学ぶことをせず自らのコミュニティの中で切り抜けていこうとする移民の数が増えていると言われています。数が圧倒的に多いポーランド移民がいつも指摘されるのですが、他の国からの人たちの中にももちろんそのような例はあることでしょう。
そもそも移民の「ホスト社会への適応」というのはどんなことなのでしょうか?考えてみれば随分と曖昧な概念に思えます。
私自身は適応というのは平たくいってしまえば「妥協」だと考えています。ある人が新しい社会へ移り住んできた時、その人がその社会と妥協をしてその人なりの新しい基本点を見出し、その人が「まあ嫌ではないな」というくらいの気分になれて、さらに社会のお荷物にもなっていなければ、それが適応だといっていいと思います。
この「妥協」が適応の第一歩、あるいは「最小限度の適応」なのです。もちろん「適応」にはさらに続くステージがあって、言葉の習得や文化の理解、人間関係の構築等々が続いていきます。しかし始めに「私はここに住む、少なくともある期間は」という覚悟と妥協ができないと、その人の移住はなかなか難しいものになると思われます。
アイスランドの人たちはよくペルーやタイから移民してきた人たちに向かって「全く異なる文化圏からやってきて、生活に適応するのが大変でしょう」などと言います。ですが私の見てきた範囲ではそれは違います。
適応するのに困難を見出すのは圧倒的に他の西ヨーロッパや北米からの移住者が多いです。自分自身の社会の基準をそのまま持ち込んできてしまい、アイスランドの社会との妥協点を見つけられない人が、彼らの中の方にむしろ多いのです。
さて適応の第一歩が「妥協」であるとしましょう。妥協というのは二者あるいはそれ以上の当事者によってなされますね。移民の場合の妥協は、自分自身とホスト社会の間の合意のようなものです。ただしその際にはお互いに自分なりの理解や期待がありますから、どうしても当事者間の理解 ・期待にズレが生じることがあります。
アイスランドに住む、という妥協(決断)をした移民は、例えば次のようなことを自分の理解、期待として挙げるかもしれません。
・自分は別にアイスランドに住むことが嫌ではないし、辛くもない。
・でも、別にアイスランド語はできなくてもいい。
・付き合いの範囲が同国人に限られてもいい。
・社会へ積極的に関わらなくてもいい。
これに対して社会の側の理解と期待は次のようなものであり得ます。
・移民はアイスランド語を学ぶべきだ。
・移民はアイスランドの文化や伝統に従うべきだ。
・移民はアイスランドの批判をすべきではない。
・移民たちだけで固まるべきではない。
このような理解や期待のズレが具体的に現れた例としてはこのようなものが挙げられます。
・アイスランド語がまだできない移民が医療機関へ行く時、公費で通訳を付けるべきか否かという議論。
・学校の親の集いに移民の親が参加しない。
・失業率が移民の方に高い。アイスランド人の理解は「まずアイスランド人に職を」移民は「生活しなければならないのだから同等」
これらのギャップに関してはよく検討して、どこからその差がきているのかを明確にすべきです。無策はますます大きなギャップをもたらす可能性大です。
さて「言葉」に関してですが、私自身身近に知っている例で長年住んでいても言葉はままならない。けれども生活に満足し楽しんでいる、という人たちはかなりいるようです。
ですから、その当人が辛いと感じて毎日を過ごしているのでなく、ここで暮らす決心をしているのなら、妥協という「最小限の適応」をしているのですからそれをまず認めるべきだと思います。「言葉ができない」=「不適応」という図式は改めるべきでしょう。
言葉ができない移民を頭ごなしに「不適応」という否定的な結論を持って見ることは、決して生産的、創造的な思考ではないと考えます。
そのことをIsbru(氷の橋)というアイスランド語を移民に教えている先生方の団体で提案してみました。徹底的な反論が来るだろう、と覚悟していましたが、それほどでもなくきちんと話しを聞いてくれました。私の人徳かな?へへ)
もちろん、そんなに簡単には何事も変らないでしょうが、何かを変えるには変えようと思うことのポイントをはっきりさせ、それから世間に訴えていかなくてはなりません。時間がかかりますが、それはそういうものですね。
でも、やりがいはあります。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
そんな社会の中で、昨今アイスランド語を学ぶことをせず自らのコミュニティの中で切り抜けていこうとする移民の数が増えていると言われています。数が圧倒的に多いポーランド移民がいつも指摘されるのですが、他の国からの人たちの中にももちろんそのような例はあることでしょう。
そもそも移民の「ホスト社会への適応」というのはどんなことなのでしょうか?考えてみれば随分と曖昧な概念に思えます。
私自身は適応というのは平たくいってしまえば「妥協」だと考えています。ある人が新しい社会へ移り住んできた時、その人がその社会と妥協をしてその人なりの新しい基本点を見出し、その人が「まあ嫌ではないな」というくらいの気分になれて、さらに社会のお荷物にもなっていなければ、それが適応だといっていいと思います。
この「妥協」が適応の第一歩、あるいは「最小限度の適応」なのです。もちろん「適応」にはさらに続くステージがあって、言葉の習得や文化の理解、人間関係の構築等々が続いていきます。しかし始めに「私はここに住む、少なくともある期間は」という覚悟と妥協ができないと、その人の移住はなかなか難しいものになると思われます。
アイスランドの人たちはよくペルーやタイから移民してきた人たちに向かって「全く異なる文化圏からやってきて、生活に適応するのが大変でしょう」などと言います。ですが私の見てきた範囲ではそれは違います。
適応するのに困難を見出すのは圧倒的に他の西ヨーロッパや北米からの移住者が多いです。自分自身の社会の基準をそのまま持ち込んできてしまい、アイスランドの社会との妥協点を見つけられない人が、彼らの中の方にむしろ多いのです。
さて適応の第一歩が「妥協」であるとしましょう。妥協というのは二者あるいはそれ以上の当事者によってなされますね。移民の場合の妥協は、自分自身とホスト社会の間の合意のようなものです。ただしその際にはお互いに自分なりの理解や期待がありますから、どうしても当事者間の理解 ・期待にズレが生じることがあります。
アイスランドに住む、という妥協(決断)をした移民は、例えば次のようなことを自分の理解、期待として挙げるかもしれません。
・自分は別にアイスランドに住むことが嫌ではないし、辛くもない。
・でも、別にアイスランド語はできなくてもいい。
・付き合いの範囲が同国人に限られてもいい。
・社会へ積極的に関わらなくてもいい。
これに対して社会の側の理解と期待は次のようなものであり得ます。
・移民はアイスランド語を学ぶべきだ。
・移民はアイスランドの文化や伝統に従うべきだ。
・移民はアイスランドの批判をすべきではない。
・移民たちだけで固まるべきではない。
このような理解や期待のズレが具体的に現れた例としてはこのようなものが挙げられます。
・アイスランド語がまだできない移民が医療機関へ行く時、公費で通訳を付けるべきか否かという議論。
・学校の親の集いに移民の親が参加しない。
・失業率が移民の方に高い。アイスランド人の理解は「まずアイスランド人に職を」移民は「生活しなければならないのだから同等」
これらのギャップに関してはよく検討して、どこからその差がきているのかを明確にすべきです。無策はますます大きなギャップをもたらす可能性大です。
さて「言葉」に関してですが、私自身身近に知っている例で長年住んでいても言葉はままならない。けれども生活に満足し楽しんでいる、という人たちはかなりいるようです。
ですから、その当人が辛いと感じて毎日を過ごしているのでなく、ここで暮らす決心をしているのなら、妥協という「最小限の適応」をしているのですからそれをまず認めるべきだと思います。「言葉ができない」=「不適応」という図式は改めるべきでしょう。
言葉ができない移民を頭ごなしに「不適応」という否定的な結論を持って見ることは、決して生産的、創造的な思考ではないと考えます。
そのことをIsbru(氷の橋)というアイスランド語を移民に教えている先生方の団体で提案してみました。徹底的な反論が来るだろう、と覚悟していましたが、それほどでもなくきちんと話しを聞いてくれました。私の人徳かな?へへ)
もちろん、そんなに簡単には何事も変らないでしょうが、何かを変えるには変えようと思うことのポイントをはっきりさせ、それから世間に訴えていかなくてはなりません。時間がかかりますが、それはそういうものですね。
でも、やりがいはあります。
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