峠おやじの「たわごと」

峠、自転車、キャンピングカー、野菜、園芸、時事ネタなどをぼやいてます。

白虎隊

2013年08月14日 | 歴史
先日、四国の四万十市で国内観測史上最高の気温41.0度が記録されました。2007年8月に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で観測された40・9度が破られたわけですが、そんなところに連日暑苦しい話題を申しありません。

歴史は勝った人間によって書き換えられます。また後世の人間も都合の悪い事より美談や悲劇をアピールします。たとえば高杉晋作が作った奇兵隊。武士であろうと農民であろうと誰でも、志あるものであれば構わないというものでしたが、実際は違ったようです。袖印で階級区別されていたり、衣服も制限があったそうです。翻せば高杉晋作でも階級間の区別を付けないと隊が組めなかった。それくらい身分意識が厳しかったということですね。

長州ですらこうですから、昨日の会津でもそうですね。方角の守護神からネーミングされたと思われる玄武隊(50歳から56歳までの武家の男子)、朱雀隊(18歳から35歳までの武家の男性)、青龍隊(36歳から49歳までの武家の男性)、白虎隊(16歳から17歳の武家の男性)それぞれが士中、寄合、足軽という身分別に100名づつの一番隊~番隊(年寄りほど存命者が少ないので隊の数が少なかった)で構成されています。

とここまでは、Wikiの記述ですが、幕末の軍制/会津藩によりますと、藩士だけでは足らないため徴募兵を募った結果、総兵数11,500人のうち町民兵2000人、農民兵4500人と合計6500人、実に半数以上が武士以外になっています。

こうなると、農民兵は間違いなく足軽ですわな。そして町民兵と農民兵のある程度が寄合という構成でしょう。で、何が起こったか?というと、寄合白虎隊は7月始めに越後口への出陣命令が出て、8月10日には戦死者が出ています。その後も若松城に入城するまでに何名もの戦死者を出しています。

それに対して飯盛山で自刃した白虎士中二番隊は8月22日に容保に従って出向き、翌23日の戦闘後に自刃したわけです。それまでに転戦していた寄合以下の隊と較べれて、まっこと恵まれているし、指揮官不在とはいえ、見ようによっては戦いを放棄してしまった甘ちゃんとも取れるわけです。

白虎隊墓

それを英雄やヒーローに祭り上げたのはムッソリーニや家老だった山川一族(白虎隊にいた健次郎)のようです。また戦前の軍部が戦意高揚に利用した感は否めないでしょう。

戦死四十人墓(船山史家さんとこから拝借しました)

戦後もメディアによって美談や悲劇としてしか報道しません。会津はもっとドロドロした戦いをやっていた寄合以下の隊や実際の会津藩兵の仕業(全戸兵火にかけられました)など隠していることが多いような気がします。かつての大本営発表のように。

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コメント (2)
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