峠おやじの「たわごと」

峠、自転車、キャンピングカー、野菜、園芸、時事ネタなどをぼやいてます。

道三塚(麒麟がくる、長良川の戦い)

2020年05月06日 | 歴史
大河ドラマ「麒麟がくる」
長良川の戦いを次回にひかえ、斎藤道三が葬られた道三塚をあらためて確認しに行ってきました。



ウチの小学校区でも西の端に近いところ、長良川スポーツプラザの西方、住宅街のど真ん中にあります。
新型コロナのステイホーム渦中での「こどもの日」、子連れファミリーが見学に来ていました。

(クリックすると大きい写真がみられます)


道三塚の経緯、長良川の戦いなどが解説してあります。
おおかた大河ドラマ「麒麟がくる」のストーリーどおりです。

4月18日に道三が鶴山に布陣したこと、4月20日に長良川で義龍と対陣。「中の渡し(なかのわたし)」で激戦が繰り広げられたそうです。

また土居口(つちいぐち)で戦いがあったという史料もあるそうです。土居口の戦いの場所は天神川の鯉のぼり記事の福光橋の下流と岐阜北警察署との中間点くらいの場所になります。また地図に出ている旧高富街道は馴染み深いですが旧伊自良街道は私は知りませんでした。伊自良では方向的に30度以上違和感があります。

そして「中の渡し」ってどこかと思ったら、メモリアルセンターマラソンゲートの前でした(下の地図参照)。
(クリックすると大きい写真がみられます)


この地図の重要なところは戦いの舞台が昔の長良川だったことです。
現在の長良川は1535年に洪水で分派した井川、当時井の口(いのくち)と呼ばれていた稲葉山城下の井水口を破ってできたものですから、大桑城から南下、鶴山を経て攻め込んできた道三と義龍が対陣するなら本川にあたる古川の両岸ということになります。

(中の渡し付近、現メモリアルセンター前の信号交差点)


奮戦むなしく敗死した道三の遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されますが、塚はたびたび洪水に見舞われたため、江戸末期に常在寺の住職によって現在地に移されたそうです。



塚の碑文は「弘治二辰 四月廿日 齊藤道三公塚」となっています。



卒塔婆も日蓮宗らしく「南無妙法蓮華教」となっています。
西別院の東北方にある「お濃之墓」もやはり「南無妙法蓮華教」です。

現地であたってみると、見落としていたものがアレコレ出てきます。
これらを踏まえ、次回の「麒麟がくる」はどうアレンジされているか見逃せないですよ。


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コメント (4)
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