先日行ってきた「大山街道溝口宿」から寄り道した。
ニヶ領用水久地円筒分水訪問レポです。
ニヶ領用水というのは、戦国~江戸時代に作られた多摩川右岸の灌漑用水です。
左岸は「六郷用水」ですが、ともに同じ時代(慶長2年)に同じ小泉次大夫によって建設が始まったそうです。
だから次大夫堀なんて言うこともありますね。
溝口の宿場もこの用水が横切っています。
今はきれいに護岸され、整備されている区間があります。
国道246号(大山街道の新道)はトンネルで横切っています。
人間は歩道橋で。
久地には、円筒分水という面白いものがあるのです。
近代産業遺産というべきものですね。
でも今も現役です。
この用水の水を上流側も下流側も各農地へ平等に分配するための施設。
昭和16年に作られたんだそうです。
これができる前は、分量樋というもので分けていたそうです。
サイフォンの原理らしいけど、全然わかんない。
物理か???一度ちゃんと原理を学びたいものです。
上流がわに取水口がある。
川崎市のホームページから
江戸時代、二ヶ領用水は多摩川から上河原堰及び宿河原堰の2箇所で取水されたのち、高津区久地で合流し、久地分量樋へ導かれ、そこで四つの堀(久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀)に分水されていました。
久地分量樋は、樋(水門)によって、決められた水を分ける施設でしたが、正確な分水ができず、水量をめぐる水争いが絶えませんでした。
そこで、昭和16(1941)年に「久地円筒分水」が造られました。二ヶ領用水から取り入れられた水は、平瀬川の下を潜り、再び噴き上がってきた水を円筒の円周比により四つ堀に分水し、各堀へ正確に用水を供給しています。
この円筒分水の技術は、当時としては大変に優れた自然分水方式だったことから、各地で同様のものが築造されました。
「久地円筒分水」は、その歴史的な重要性や、全国に広がる初期の円筒分水の事例であることから、平成10(1998)年に国の登録有形文化財に登録されています。
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000073.html
ニヶ領用水久地円筒分水訪問レポです。
ニヶ領用水というのは、戦国~江戸時代に作られた多摩川右岸の灌漑用水です。
左岸は「六郷用水」ですが、ともに同じ時代(慶長2年)に同じ小泉次大夫によって建設が始まったそうです。
だから次大夫堀なんて言うこともありますね。
溝口の宿場もこの用水が横切っています。
今はきれいに護岸され、整備されている区間があります。
国道246号(大山街道の新道)はトンネルで横切っています。
人間は歩道橋で。
久地には、円筒分水という面白いものがあるのです。
近代産業遺産というべきものですね。
でも今も現役です。
この用水の水を上流側も下流側も各農地へ平等に分配するための施設。
昭和16年に作られたんだそうです。
これができる前は、分量樋というもので分けていたそうです。
サイフォンの原理らしいけど、全然わかんない。
物理か???一度ちゃんと原理を学びたいものです。
上流がわに取水口がある。
川崎市のホームページから
江戸時代、二ヶ領用水は多摩川から上河原堰及び宿河原堰の2箇所で取水されたのち、高津区久地で合流し、久地分量樋へ導かれ、そこで四つの堀(久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀)に分水されていました。
久地分量樋は、樋(水門)によって、決められた水を分ける施設でしたが、正確な分水ができず、水量をめぐる水争いが絶えませんでした。
そこで、昭和16(1941)年に「久地円筒分水」が造られました。二ヶ領用水から取り入れられた水は、平瀬川の下を潜り、再び噴き上がってきた水を円筒の円周比により四つ堀に分水し、各堀へ正確に用水を供給しています。
この円筒分水の技術は、当時としては大変に優れた自然分水方式だったことから、各地で同様のものが築造されました。
「久地円筒分水」は、その歴史的な重要性や、全国に広がる初期の円筒分水の事例であることから、平成10(1998)年に国の登録有形文化財に登録されています。
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000073.html