涼しくなったら「大山詣り」してみようかな~なんて言っていたのに、もう12月になりますよ。半七親分の方へ寄り道したりして一向に進みませんが、一応、ここには行ったんですよ。10月の話ですが。
三軒茶屋駅前にある「大山道」の道標です。
この「三軒茶屋」と言う地名自体が、「大山道」と関係ありありでしょうね。
世田谷区教育委員会による、案内板が立っていました。
大山道道標
銘文
(正面)左相州道 大山道
(左側面)右富士 世田谷 登戸 道
(背面)天下太平国土安穏
寛延二己巳年建立
文化九壬申年(再)建
石工 江戸木材町八丁目石田屋【花押】
昭和三十一年丙申三月吉日石工石峯
五穀成就万民家楽
(右側面)此方 二子道
年代
寛延 二年(一七四九)、文化 九年(一八一二)再建
伝来
大山道は、矢倉沢往還 の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政 期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰 と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸 町民などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路拡張などにより点々と移されたが、昭和五八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。
備考
1.この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
1.相州道・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
1.富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
昭和五十九年三月
世田谷区教育委員会
話は変わりますが、最近、落語の「百川」を聞き返しました。
この前日本橋に行ったときに、どうも「百川」の跡を歩いていたらしいです。
もう一度行って、今度はちゃんと「ひゃくべえ」さんと同じように「はせがわちょうのさんこうじんみち」の「か」の付く高名なヒトを探してみたいと思います。
わたしの東京江戸散歩も支離滅裂になってきましたが、乞うご期待。
三軒茶屋駅前にある「大山道」の道標です。
この「三軒茶屋」と言う地名自体が、「大山道」と関係ありありでしょうね。
世田谷区教育委員会による、案内板が立っていました。
大山道道標
銘文
(正面)左相州道 大山道
(左側面)右富士 世田谷 登戸 道
(背面)天下太平国土安穏
寛延二己巳年建立
文化九壬申年(再)建
石工 江戸木材町八丁目石田屋【花押】
昭和三十一年丙申三月吉日石工石峯
五穀成就万民家楽
(右側面)此方 二子道
年代
寛延 二年(一七四九)、文化 九年(一八一二)再建
伝来
大山道は、矢倉沢往還 の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政 期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰 と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸 町民などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路拡張などにより点々と移されたが、昭和五八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。
備考
1.この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
1.相州道・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
1.富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
昭和五十九年三月
世田谷区教育委員会
話は変わりますが、最近、落語の「百川」を聞き返しました。
この前日本橋に行ったときに、どうも「百川」の跡を歩いていたらしいです。
もう一度行って、今度はちゃんと「ひゃくべえ」さんと同じように「はせがわちょうのさんこうじんみち」の「か」の付く高名なヒトを探してみたいと思います。
わたしの東京江戸散歩も支離滅裂になってきましたが、乞うご期待。