雨に降りこめられ、身動きできなかったので、一日過ごした公共図書館。
ホテルの狭い部屋に一日居ても仕方ないし、かといって買い物や観光も雨であまり楽しくないし。
この図書館は、
2002年に初めて一人で台東へ来た際にも立ち寄ったことがある思い出の場所。当時は今のようにグーグルマップなどもなかったので、街歩きの途中急に「図書館に行ってみよう!」と思い立ち、警察署へ行って図書館の場所を尋ねたのでした。「とぅーしゅーぐぁん」と言う発音をガイドブックで何度も確認したような覚えが。
その時は、あまり時間もなかったのだけど、郷土史コーナーに日本時代の資料が残っていて、そこで曾祖父の名前の載った公文書を発見したのでした。当時は、大発見!な気持でした。もともと、当時まだ存命だった祖母から曾祖父が台東県で医者をしていたという話は聞いていて、それを確認しただけだったのですが、やはり名前が載っていると嬉しい。今回は、それをもう一度確認したいという気持ちと、それ以上の資料もゆっくり閲覧してみたいという気持ちで、やってきました。
宿から図書館までは徒歩10分もかかりません。
傘をさして、てくてく。ちょうど雨も少し穏やかになっていました。
入口には雨合羽用のハンガーラックもあります。
平日の午前中で、しかも悪天候なので利用者はかなり少なく、静かな図書館でした。開架コーナーで郷土史の本を探し、日本時代に出版された本を戦後製本し直したシリーズが見つかりました。2002年に見た本もこれだと思います。
曾祖父の名前をがありました。
出身地が「静岡」になっています。
結婚前の祖母の本籍地は静岡だったと聞いていたので一致します。
ある本には出版の際に費用の協力をしたのでしょう、名刺大の広告(?)のようなものもありました。
「大武公医」とあります。
「公医」とは、日本統治時代の台湾独自の医療の制度のようです。台湾が日本に割譲された当初、マラリアをはじめ風土病が多く、またアヘン吸引の習慣もあったため、後藤新平は「公衆衛生」の改善を強力に進めました。時代はかなり下りますが、その末端に私の曾祖父も携わっていたということですね。
台灣における日本植民地統治 - 東京女子大学
『台湾総督府公文類墓』 にみる台湾公医制度を中心としてー
曾祖父の名前があるこの公文書には、主な疾患とその罹患者の数(うち死亡者の数)などが細かに記録されています。マラリアとか、アメーバ赤痢とか。また年間の各公医別の患者数なども記録されていました。
それによると、曾祖父の担当した患者数は以下の通り。
昭和4年 3241人
昭和5年 2905人
昭和6年 3399人
昭和7年 3107人
昭和8年 2950人
年間3000人前後。お隣の太麻里の木野田先生の所が、2000人前後だったことを見ると結構大変そうですね。
ちなみに、曾祖父は昭和9年か10年頃におそらく亡くなったか、引退するかしていて、その後の大武の公医は木野田先生が受け持ったようです。
更に資料を読み進んでいくうちに、「躍進東台湾」と言う本が出てきました。
これは、公文書と言うより、官民いっしょに地元の人たちがまとめた昭和13年の資料のようです。この本には統計的なものだけではなく、東台湾の現状を紹介した文章が多く、巻末の附録には、各種名簿がありました。
そしてその中に祖父の名前を見つけました。
これが、今回の大収穫です。
先ほどまで見てきた曾祖父と言うのは、祖母の父親で、祖母から「大武でお医者さんだった」と言う話を聞いていたのですが、祖父については、台湾にいたことはわかっているのですが、どこで何をしていたのかはあやふやだったのです。
ただ、私が子供の頃、祖父から聞いた話の印象では「台湾で警察官をしていた」というイメージがあり、「台湾には高砂族がいて悪いことをしないように警察がとりしまっていた」というような話を聞いた記憶があります。それと、後年祖母から、祖母が台東で生まれ育った話をきき、祖父も同じ大武で警察官をしていたんだろうと思っていたのでした。(高砂族が多いのは台北などよりも台東の方なので)ところが、祖母も亡くなったあと、息子である父が「親父は台湾では警察官じゃかなったのでは?兵隊で戦地でけがをしてそのあと台湾で療養していたという話じゃなかっただろうか?」と言うので、私も自信がなくなっていたのです。
が、先日国会図書館まで行って調べた祖父の参加してた俳句同人誌に掲載されていた略歴に「台湾台東大武で警察官」をしていたと書かれており、子供のころの記憶が正しかったことがわかりました。
そして、今回、ちゃんと本に名前がありました。
巡査として掲載されています。祖父の自己申告だけでなく、こうして物証も得られてよかったです。
先日の中国大陸南昌のころからさらに古い時代の祖父の足取りがつかめました。
祖父は大正2年熊本生まれ。
昭和13年は24歳です。
いつどんないきさつで台湾に行ったのかはわかりません。
そして昭和15年に南昌へ行ってるのですが、なぜ台湾を離れ大陸へ行ったのかもわかりません。
生きているうちに話を詳しくきいておきたかったですね。
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2002年に大武に行ったときの話
「東台湾展望」(昭和8年刊)
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