この10月陳昇の新譜が出たこともあり、インタビュー記事がネットにあがっていました。
子どものころから歌手になりたかったのか?とか、社会に出たてのころの生活、兵役時、またデビューに至るまでの紆余曲折についていろいろ面白い話が出ています。
これまでもいろんなインタビューを読んでいますが、自分の中国語能力の低さもあり、また陳昇というひとはインタビュアーをけむに巻くようなわけのわからない話をするので、TVのインタビューなんかだとよく理解できない話が多いのですけど、この記事は割とわかりやすくまとめてあります。(とはいえ、後半のロブスター王の話は訳がわかりません。インタビュアも『その話、新譜と関係ありますか?』って聞いてます。笑。)
さてさて、この記事中、ちょっと面白いと思った部分をいくつか取り上げてみたいと思います。
■なんとしても家を出たかった少年時代
まず少年時代の話。
彼は台湾中部の農村の出身です。でも子供のころからずっと外の世界へ飛び出したいと思ってたようです。その理由をたずねられて・・・
我的爺爺生了8個小孩,全都擠在那個屋子跟那片田,因為郷下田地實在不gou用,他就鼓勵男生都出去求學。我就像做夢的人,如果看到天上的飛機,就會想他們要去哪裡呢? 我也好想去喔!我不是很想待在這個地方呀。就算騎脚踏車再遠,也遠征不到西螺大橋,我覺得我應該離開。所以我就一直念書,找可以離開家的辦法,唸彰化高工、學汽車修護、送報紙、死也不要留在家裡。
拙訳:うちのおじいさんには8人の子供がいて、田んぼのそばのあの家に全員がひしめいてた。田舎の田畑は全員が使えるほど広くはない、そこでおじいさんは男は外に勉強しに行くように進めていた。自分は夢みがちなタイプで、例えば飛行機が飛んでいるのを見上げると、どこに行くんだろうな~自分も行きたいな~と思ってた。この場所にずっといる気はなかった。でも自転車でどんなに遠くへ行っても西螺大橋にはたどり着けない。ここを離れるべきだと思った。だからひたすら勉強して、家を出る方法を模索し、彰化高工で自動車修理を勉強して、新聞配達をして、死んでも家にとどまる気はなかった。
なるほど。
とにかく田舎が嫌だったんですね。
彼は農家の長男なので、家を継いで農業をするという道もあったと思われますが。
「西螺大橋」というのは陳昇の田舎の彰化県の濁水渓にかかる大きな橋ですが、たぶん彼の村から5キロもなかったと思うのですよね。自転車でたどり着けないって、うんと子供の頃の話でしょうかね~??
■兵役で軍楽隊に入る
高校卒業前、彼はエレベーターの会社に面接に行きます。そこで「台北に配属してほしい。7月1日から出社できます。」といって面接官を驚かせます。台湾の卒業式は6月30日、で翌日からもう台北で仕事する気だったのですね。その当時は、「芸専」を受験したいとも思ってたようです。美術方面かな?でも、音楽については「お」の字もなかったようです。ですが、20歳で兵役に就いたときにターニングポイントがありました。
昇: 我後來當兵到了軍樂隊去。其實很傳奇性的,就是有一個老芋仔問我們會不會 「咬七」、「油漆」,我就跟著去了,其實他説的是有沒有人會「樂器」,這個真的是轉捩點。
奇: 你本來就會樂器嗎?
昇: 不會!硬是要去!我在空軍樂隊吹了3年伸縮喇叭,剛操的時候毎天都跟喇叭睡在一起。他就給你6個月時間, 如果沒學好,就調回原單位。我們操的時候多苦,有人吹到牙齒都塌了、尿血,就怕被調回原單位,很慘的! 毎天都在玩命。
(拙訳)
昇:その後、兵役になって軍楽隊に入った。これはとても「傳奇性的」なことで、ある上官が我々に 、だれか「咬七」、「油漆」はできるかと聞いたんだ。(油漆=ペンキ塗り、ならできると思って)それで自分はついていった。実は彼が聞いてたのは「楽器」ができる者はいるか?だったんだ。ここが本当にターニングポイントだった。
奇: で、あなたはもともと楽器ができたんですか?
昇:できなかった!でも絶対やろうと思った。自分は空軍楽隊でトロンボーンを3年間担当した。訓練中は毎晩楽器を抱いて寝てた。まず半年の猶予を与えられて、もしその間にできるようにならなければもともとの部隊に戻される。練習はとてもつらかった。あるものはラッパを吹きすぎて歯がぼろぼろになり、血尿が出た。それだけ元の部隊に戻されるのが怖かったんだ。毎日命がけで練習した。
この話は前にも何度か聞いたことがあります。
陳昇の頃の兵役は今よりもっとつらくて、配属される部隊によっては前線(金門島とか)に送られて、「実戦」もありか?という時代だったので、軍楽隊への配属は何としても死守したいところだったのだと思われます。上官の中国語の発音が悪すぎて「楽器」(ユエチー)が「油漆」(ヨウチー)に聞こえたとか、面白い話ですね。でもその発音の悪い上官のおかげで、陳昇という歌手が誕生したのかもしれないと思うと、感謝です。
■「簡譜」とは?
除隊後は職を転々とした後、レコード会社に何とか(同じ会社にを2回も受けたため、名前まで変えた)就職した彼は、レコード会社ならではの仕事を覚えなくてはいけなかったようです。
「那時候為了要練簡譜,練到出門看到車牌號碼,都覺得是在唱歌。」
拙訳:その当時「簡譜」をマスターしなくてはならなくて、譜面読みの練習をするあまり、外出時に車のナンバープレートを見ても全部歌ってるみたいだった。
「簡譜」というのは、台湾で使われている、数字で書かれた譜面です。ドレミファソラシドが数字になっているようです。兵役時に軍楽隊でトロンボーンを吹いてた時の楽譜は西洋式だったのでしょうね。流行歌の世界は「簡譜」なので必死で覚えたんですね。で数字の羅列を見れば、それが音階になって、頭の中で鳴り響いたのかもしれませんね。陳昇の下積み時代の面白いエピソードです。でもその仕事のおかげで、今の彼があると思われます。
■そしてついにレコードデビュー
レコード会社で裏方の仕事をしていた彼に、ある人が「自分の作品を出したらどうか」とすすめてくれました。それが、ライフスタジオの徐さんなのですが、そのころの陳昇くんのおかれた状況は・・・
昇:5年之後,麗風錄音室的徐先生(徐崇憲)就跟我説:「你幹嘛不自己唱?」我都沒想過。
奇:所以30歳時發了【擁擠的樂園】?
昇:我那時候剛結婚、有小孩,我老婆已經有緑卡,本來想去美國了,但去了大概也是接他姐夫的餐廳廚師工作,我覺得我應該不會很快樂吧。徐先生就説:「那你去搞樂團啊。」因為他覺得樂團的時代也該來了。那時候薛岳、高凌風都有樂團,高凌風一天就要25萬,我還去幫他們合音,賺5000塊我都很高興。
(拙訳)
昇:(レコード会社に入って)5年後、ライフレコーディングスタジオの徐さんが「なんで自分で歌わないんだ?」と言ったんだ。自分はそれまで全く考えたこともなかった。
奇:それで、30歳の時に【擁擠的樂園】を出したんですね。
昇:その当時、結婚してて、子供も生まれてた。妻はグリーンカードを持っていたので、本当はアメリカに移住するつもりだった。でも渡米したら、多分妻の義兄のやってるレストランでコックか何かをやることになりそうで、それはたぶん楽しくないだろうと思ってたんだ。徐さんに「じゃあ、バンドをやればいい」って言われた。彼はバンド時代が来るのを予見してたんだ。そのころ、薛岳や高凌風はみんなバンドを持ってた。高凌風のギャラは1日に25万元だった。彼のためにコーラスで参加すると、5000元になって、そりゃあ嬉しかったものだ。
へ~。デビュー前にはアメリカ移住を考えてたんですね。
それにしても、グリーンカードも持ってるとは、奥さんの家族はアメリカにいる人たちだったんですね。知らなかった。
■レコーディングはしたものの出してくれるところはなかった
そうやって、恩人徐さんに出資してもらってレコーディングはしたものの、そのまますぐにリリースとはいきませんでした。陳昇人生最大のピンチかもしれません。
昇:我其實最想拿回綜一談,但我一直翹班,在外面搞樂團,有一天就被fire了。那時候好慘, 傾家蕩産了,小孩不滿1歳,老婆上班養我,我在家看小孩,唱片還在等。有一個冬天,我兒子有點湿疹,我把他抱到陽台去曬太陽, 真的萬念倶灰啊, 房租兩萬,我存款都不到兩萬,不知道明天要幹嘛,差點想抱小孩跳樓。
(拙訳)
昇:本当は、もとの職場綜一レコードに相談しようと思ったのだけど、自分は仕事はいつもサボってばかりでバンドばかりやってたものだから、ついにくびになったんだ。ほんとに悲惨だったよ。破産だ。子どもはまだ1歳にもならない。妻が勤めに出て養ってもらってた。自分は家で子供の世話をしてた。レコードはまだ出版できない。冬のある日、子どもに湿疹ができたので、ベランダで日光浴させてた。まさに失意のどん底だった。家賃は2万元なのに2万元の貯金もない、明日何していいかもわからない、もう少しで子供を抱いてベランダから飛び降りるところだった。
最後のところは本気か冗談かわかりませんが、奥さんの方が稼ぎが多くて、養ってもらってたような感じだったというのは、よく話してることです。でも、ちゃんと子供の世話をするイクメンだったんですね。なんだか意外。
そして後半は新譜について語っていますが、(北朝鮮の)キムジョンウンに手紙を書いた陳昇の友人ロブスター王の話はよくわかりませんでした。中国語も難しいし、中国語がわかっても理解できない話のような気がします。
ただ、今の世界の50歳以上の人が全部死んでいなくなったら世界はかなりよくなりそうだというのはなんとなくわかりますね。無理な話だけど、夢想してみると案外よい世の中になっていくんじゃないかと思ったり。こういう暴言も本人が50代だから言えることですね。未成年に選挙権がないように、老人にも選挙権を与えないというのもありな考えではないかと思ったりしました。お年寄りのみなさんごめんなさい。
如果全世界50歳以上的人全部死光光,這個世界會卯起來RUN得更好、更清新。所以我不懂怎麼會有人七、八十歳了還要選總統呢? 為什麼不把事情留給小朋友去幹呢?
(拙訳)
もし全世界の50歳以上の人が全部死んでしまったら、この世界はもっと溌剌としてもっとうまく回り始めるのじゃないか。だから、なぜ70,80歳の人たちがまだ総統選挙に行くのかわからない。なぜそういうことは子供たちに任せておかないんだ?
記事を読むにあたって、わからない単語がいろいろあったので、少し調べました。
轉捩點=ターニングポイント
塌=くぼむ、くずれる
飛蛾撲火=自爆、自分でダメになる?
同梯=兵役の同期
萬念倶灰=どうしようもない状況、八方ふさがり、失意のどん底
元記事
(gooブログでは一部の中国語が表示されない場合があります(「?」で表示される)ご興味のある方は、元記事のページに飛んでご覧ください。
我們的樂園依然擁擠:陳昇的生存之道-【奇哥搏感情Vol.6】
以下記事全文を転載
「這些年來的這些事 , 真是快把老爺給搞瘋了!」面對千禧年後世界上的紛紛擾擾 , 昇哥一直處於多毛狀態 , 有些話想說 , 只好把歌越唱越長。
最青春少年的北方夢想
奇哥(以下簡稱「奇」): 昇哥你是彰化溪州人,當初怎麼會上台北? 是因為想玩音樂? 還是不知道為什麼就上來了,像飛蛾撲火一樣找機會?
陳昇(以下簡稱「昇」): 我的爺爺生了8個小孩,全都擠在那個屋子跟那片田,因為鄉下田地實在不夠用,他就鼓勵男生都出去求學。我就像做夢的人,如果看到天上的飛機,就會想他們要去哪裡呢? 我也好想去喔!我不是很想待在這個地方呀。就算騎腳踏車再遠,也遠征不到西螺大橋,我覺得我應該離開。所以我就一直念書,找可以離開家的辦法,唸彰化高工、學汽車修護、送報紙、死也不要留在家裡。
奇: 你那時候有寫東西嗎?
昇: 我還不太會寫,只是一直覺得最精采的世界都在台北,就是要想辦法去。我去台中應徵電梯裝配公司時,他問我要去哪裡上班,我說我要去台北;他問我幾號可以上班,我說我七月一日就可以上班, 他說:「 你三十號才畢業,七月一日怎麼上班?!」我巴不得想趕快離開啊!18 歲就來台北了,其實我是想去考藝專、 進入文化圈, 倒是跟音樂沒關係。
奇: 是有什麼轉捩點嗎?
昇: 我後來當兵到了軍樂隊去。其實很傳奇性的,就是有一個老芋仔問我們會不會 「咬七」、「油漆」,我就跟著去了,其實他說的是有沒有人會「樂器」,這個真的是轉捩點。
奇: 你本來就會樂器嗎?
昇: 不會!硬是要去!我在空軍樂隊吹了3年伸縮喇叭,剛操的時候每天都跟喇叭睡在一起。他就給你6個月時間, 如果沒學好,就調回原單位。我們操的時候多苦,有人吹到牙齒都塌了、尿血,就怕被調回原單位,很慘的! 每天都在玩命。
要生存要過關
奇: 當完兵就去唱片公司嗎?
昇: 我先在朋友的廣告公司,幫忙弄暗房、做平面,那時候還是想去考藝專,但我學科不夠考不上。後來軍樂隊一個朋友告訴我,綜一唱片在找製作助理。那時歌林拆解後有兩大掛最主流的唱片公司,一個是海山,一個就是綜一。 高凌風、 齊秦、沈雁、 陽帆、 楊林,每張唱片都賺錢,幾個大台柱都在這,我每天就是服侍這些人。
奇: 所以你就是從製作助理開始?
昇: 對,那時候考試就丟一個歌給你採譜,我永遠記得是採黃仲崑的《 無人的海邊》。黃仲崑跟我同年耶,他已經那麼紅了,我還在考他的歌。沒有考過,大概半年後,他又在招,我氣不過,覺得跟這個公司有仇了,又再去一次,怕被人家認出來,就把履歷表通通改了,他要大專生,我就背我同梯的一個朋友所有的資料。
奇: 偽造文書。
昇: 我不管,就是為了生活而奮鬥。而且怕被認出來,就把名字改成陳昇。
奇:所以是因為偽造文書才變成陳昇!
昇:不管,反正我就進去了,把自己操到一個狀況。「退此一步,即無死所」,那時候為了要練簡譜,練到出門看到車牌號碼,都覺得是在唱歌。每件事都不是開玩笑的,因為我要生存、我要過關。後來就開始有機會做齊秦、楊林、陽帆的唱片。5年之後,麗風錄音室的徐先生(徐崇憲)就跟我說:「你幹嘛不自己唱?」我都沒想過。
奇:所以30歲時發了【擁擠的樂園】?
昇:我那時候剛結婚、有小孩,我老婆已經有卡,本來想去美國了,但去了大概也是接他姐夫的餐廳廚師工作,我覺得我應該不會很快樂吧。徐先生就說:「 那你去搞樂團啊。」因為他覺得樂團的時代也該來了。那時候薛岳、高凌風都有樂團,高凌風一天就要25萬,我還去幫他們合音,賺5000塊我都很高興。
奇:那時候5000很多耶, 陽春麵一碗才3塊錢。
昇:任何工作我都接,孫建平、馬毓芬叫我去當合音,我都去、都要賺,就是那段日子練就了什麼東西都來,幫所有人打點事情,任何雜務都做。後來小徐就借我60萬出唱片,他是我的恩人,我說那我們應該有個部頭約, 他就弄個label 叫 「風行唱片」,我們就簽約。
奇:不是跟滾石?
昇:不是,我沒有跟滾石有任何合約,大家都以為我是滾石唱片的,那是因為我跟滾石感情最深,就是這麼回事。但我錄音都是在麗風,即便到現在,每一張都是。小徐那時候就跟我說他要跟我簽5年合約,我想說大家彼此這麼信任, 簽10年好了。但是3年後,他就不想做唱片了。他本來是想拿到飛碟去,但飛碟當時已經有王傑,所以沒談成。
奇:所以你那時候的心情是? 我以為你一直是很不可一世的。
昇:我其實最想拿回綜一談,但我一直翹班,在外面搞樂團,有一天就被fire了。那時候好慘, 傾家蕩產了,小孩不滿1 歲,老婆上班養我,我在家看小孩,唱片還在等。有一個冬天,我兒子有點溼疹,我把他抱到陽台去曬太陽, 真的萬念俱灰啊, 房租兩萬,我存款都不到兩萬,不知道明天要幹嘛,差點想抱小孩跳樓。後來小徐決定去滾石談,雖然我那時候對滾石很感冒,覺得他們很「 假會」。到滾石後, 我在外面抽菸, 他們進去開會,放了一首歌後,就聽到Landy在裡面拍桌子說: 「 他媽的, 這就是我們要的東西啊!」
奇:「 不發這個發什麼!」我太熟了哈哈。
昇:之後專輯就發了。那時候我們歌手都是聚在一起,同期的有華健、小玲黃韻玲、馬爺馬兆駿,都一夥人出去打歌,比如說華健在唱,我們在後面合音。那時候剛開始都拿打歌費1000塊,一年後開始有2000了,每次拿到都捨不得花,但馬兆駿都會請客,他已經很有名了。一直到拿到了5000塊,我在老婆睡覺時把錢放在床頭,我知道我的生活應該有把握了。
從那些年到這些年
奇:新專輯 【是否,你還記得】有沒有什麼特別要講的?
昇:我有一個朋友在南部養龍蝦,他因為看到金正恩為了要吃龍蝦養龍蝦,槍斃了很多人,就毛遂自薦寫信給金正恩說他是台灣的龍蝦大王,可以幫他解決所有的養殖問題。結果金正恩竟然回信了,所以他現在也不知道未來要怎樣。
奇:這個龍蝦大王的故事,跟新專輯有關係嗎?
昇:因為這位瘋子蝦夫小我1 歲,我認識他30年了,偶爾碰面時,我們即便不說出口,也可以從彼此臉上表情看出來,這些年來的事情,真的是媽的我活得不耐煩了, 想要解套。所以瘋子蝦夫終於決定去做一個全世界最解嗨的事情:幫金正恩養龍蝦。我覺得這件事剛好給這張專輯做一個結尾。其實我本來是想寫一個很長很長的歌,想從2000年一直寫到2015年。但我從2000年開始回想時,突然覺得所有事情都是很帶賽的,那時候我們都覺得千禧蟲會把人類給搞死,然後沒有搞死,但唱片業垮了,美國選了一個公認是智商最低的總統,台灣選了一個很霸道的阿扁,等於這10年間,整個世界的氛圍很糟。
奇:可是你不覺得這樣的轉變,也有很多有趣的事? 像80年代有很多的瓦解,很有趣。
昇:我如果是20-30歲,會很樂於見到這樣,但我已經40-50,應該做一個結語了,為什麼要陪這些人倒霉呢? 這整張專輯就是從那一些年到這一些年來,往回寫。我們這個時代確實沒什麼好招搖的事,確實留下很多垃圾。 前兩天跟兒子聊天,他覺得他的工作老是上面有一些老人卡位,覺得有志不能伸,很著急,他都要奔三了。我就跟他講,如果全世界50歲以上的人全部死光光,這個世界會卯起來RUN得更好、更清新。所以我不懂怎麼會有人七、八十歲了還要選總統呢? 為什麼不把事情留給小朋友去幹呢?
整理|洪瑋伶
攝影|Cheng Chen
更多精彩內容請看LET’S MUSIC音樂誌11月號
子どものころから歌手になりたかったのか?とか、社会に出たてのころの生活、兵役時、またデビューに至るまでの紆余曲折についていろいろ面白い話が出ています。
これまでもいろんなインタビューを読んでいますが、自分の中国語能力の低さもあり、また陳昇というひとはインタビュアーをけむに巻くようなわけのわからない話をするので、TVのインタビューなんかだとよく理解できない話が多いのですけど、この記事は割とわかりやすくまとめてあります。(とはいえ、後半のロブスター王の話は訳がわかりません。インタビュアも『その話、新譜と関係ありますか?』って聞いてます。笑。)
さてさて、この記事中、ちょっと面白いと思った部分をいくつか取り上げてみたいと思います。
■なんとしても家を出たかった少年時代
まず少年時代の話。
彼は台湾中部の農村の出身です。でも子供のころからずっと外の世界へ飛び出したいと思ってたようです。その理由をたずねられて・・・
我的爺爺生了8個小孩,全都擠在那個屋子跟那片田,因為郷下田地實在不gou用,他就鼓勵男生都出去求學。我就像做夢的人,如果看到天上的飛機,就會想他們要去哪裡呢? 我也好想去喔!我不是很想待在這個地方呀。就算騎脚踏車再遠,也遠征不到西螺大橋,我覺得我應該離開。所以我就一直念書,找可以離開家的辦法,唸彰化高工、學汽車修護、送報紙、死也不要留在家裡。
拙訳:うちのおじいさんには8人の子供がいて、田んぼのそばのあの家に全員がひしめいてた。田舎の田畑は全員が使えるほど広くはない、そこでおじいさんは男は外に勉強しに行くように進めていた。自分は夢みがちなタイプで、例えば飛行機が飛んでいるのを見上げると、どこに行くんだろうな~自分も行きたいな~と思ってた。この場所にずっといる気はなかった。でも自転車でどんなに遠くへ行っても西螺大橋にはたどり着けない。ここを離れるべきだと思った。だからひたすら勉強して、家を出る方法を模索し、彰化高工で自動車修理を勉強して、新聞配達をして、死んでも家にとどまる気はなかった。
なるほど。
とにかく田舎が嫌だったんですね。
彼は農家の長男なので、家を継いで農業をするという道もあったと思われますが。
「西螺大橋」というのは陳昇の田舎の彰化県の濁水渓にかかる大きな橋ですが、たぶん彼の村から5キロもなかったと思うのですよね。自転車でたどり着けないって、うんと子供の頃の話でしょうかね~??
■兵役で軍楽隊に入る
高校卒業前、彼はエレベーターの会社に面接に行きます。そこで「台北に配属してほしい。7月1日から出社できます。」といって面接官を驚かせます。台湾の卒業式は6月30日、で翌日からもう台北で仕事する気だったのですね。その当時は、「芸専」を受験したいとも思ってたようです。美術方面かな?でも、音楽については「お」の字もなかったようです。ですが、20歳で兵役に就いたときにターニングポイントがありました。
昇: 我後來當兵到了軍樂隊去。其實很傳奇性的,就是有一個老芋仔問我們會不會 「咬七」、「油漆」,我就跟著去了,其實他説的是有沒有人會「樂器」,這個真的是轉捩點。
奇: 你本來就會樂器嗎?
昇: 不會!硬是要去!我在空軍樂隊吹了3年伸縮喇叭,剛操的時候毎天都跟喇叭睡在一起。他就給你6個月時間, 如果沒學好,就調回原單位。我們操的時候多苦,有人吹到牙齒都塌了、尿血,就怕被調回原單位,很慘的! 毎天都在玩命。
(拙訳)
昇:その後、兵役になって軍楽隊に入った。これはとても「傳奇性的」なことで、ある上官が我々に 、だれか「咬七」、「油漆」はできるかと聞いたんだ。(油漆=ペンキ塗り、ならできると思って)それで自分はついていった。実は彼が聞いてたのは「楽器」ができる者はいるか?だったんだ。ここが本当にターニングポイントだった。
奇: で、あなたはもともと楽器ができたんですか?
昇:できなかった!でも絶対やろうと思った。自分は空軍楽隊でトロンボーンを3年間担当した。訓練中は毎晩楽器を抱いて寝てた。まず半年の猶予を与えられて、もしその間にできるようにならなければもともとの部隊に戻される。練習はとてもつらかった。あるものはラッパを吹きすぎて歯がぼろぼろになり、血尿が出た。それだけ元の部隊に戻されるのが怖かったんだ。毎日命がけで練習した。
この話は前にも何度か聞いたことがあります。
陳昇の頃の兵役は今よりもっとつらくて、配属される部隊によっては前線(金門島とか)に送られて、「実戦」もありか?という時代だったので、軍楽隊への配属は何としても死守したいところだったのだと思われます。上官の中国語の発音が悪すぎて「楽器」(ユエチー)が「油漆」(ヨウチー)に聞こえたとか、面白い話ですね。でもその発音の悪い上官のおかげで、陳昇という歌手が誕生したのかもしれないと思うと、感謝です。
■「簡譜」とは?
除隊後は職を転々とした後、レコード会社に何とか(同じ会社にを2回も受けたため、名前まで変えた)就職した彼は、レコード会社ならではの仕事を覚えなくてはいけなかったようです。
「那時候為了要練簡譜,練到出門看到車牌號碼,都覺得是在唱歌。」
拙訳:その当時「簡譜」をマスターしなくてはならなくて、譜面読みの練習をするあまり、外出時に車のナンバープレートを見ても全部歌ってるみたいだった。
「簡譜」というのは、台湾で使われている、数字で書かれた譜面です。ドレミファソラシドが数字になっているようです。兵役時に軍楽隊でトロンボーンを吹いてた時の楽譜は西洋式だったのでしょうね。流行歌の世界は「簡譜」なので必死で覚えたんですね。で数字の羅列を見れば、それが音階になって、頭の中で鳴り響いたのかもしれませんね。陳昇の下積み時代の面白いエピソードです。でもその仕事のおかげで、今の彼があると思われます。
■そしてついにレコードデビュー
レコード会社で裏方の仕事をしていた彼に、ある人が「自分の作品を出したらどうか」とすすめてくれました。それが、ライフスタジオの徐さんなのですが、そのころの陳昇くんのおかれた状況は・・・
昇:5年之後,麗風錄音室的徐先生(徐崇憲)就跟我説:「你幹嘛不自己唱?」我都沒想過。
奇:所以30歳時發了【擁擠的樂園】?
昇:我那時候剛結婚、有小孩,我老婆已經有緑卡,本來想去美國了,但去了大概也是接他姐夫的餐廳廚師工作,我覺得我應該不會很快樂吧。徐先生就説:「那你去搞樂團啊。」因為他覺得樂團的時代也該來了。那時候薛岳、高凌風都有樂團,高凌風一天就要25萬,我還去幫他們合音,賺5000塊我都很高興。
(拙訳)
昇:(レコード会社に入って)5年後、ライフレコーディングスタジオの徐さんが「なんで自分で歌わないんだ?」と言ったんだ。自分はそれまで全く考えたこともなかった。
奇:それで、30歳の時に【擁擠的樂園】を出したんですね。
昇:その当時、結婚してて、子供も生まれてた。妻はグリーンカードを持っていたので、本当はアメリカに移住するつもりだった。でも渡米したら、多分妻の義兄のやってるレストランでコックか何かをやることになりそうで、それはたぶん楽しくないだろうと思ってたんだ。徐さんに「じゃあ、バンドをやればいい」って言われた。彼はバンド時代が来るのを予見してたんだ。そのころ、薛岳や高凌風はみんなバンドを持ってた。高凌風のギャラは1日に25万元だった。彼のためにコーラスで参加すると、5000元になって、そりゃあ嬉しかったものだ。
へ~。デビュー前にはアメリカ移住を考えてたんですね。
それにしても、グリーンカードも持ってるとは、奥さんの家族はアメリカにいる人たちだったんですね。知らなかった。
■レコーディングはしたものの出してくれるところはなかった
そうやって、恩人徐さんに出資してもらってレコーディングはしたものの、そのまますぐにリリースとはいきませんでした。陳昇人生最大のピンチかもしれません。
昇:我其實最想拿回綜一談,但我一直翹班,在外面搞樂團,有一天就被fire了。那時候好慘, 傾家蕩産了,小孩不滿1歳,老婆上班養我,我在家看小孩,唱片還在等。有一個冬天,我兒子有點湿疹,我把他抱到陽台去曬太陽, 真的萬念倶灰啊, 房租兩萬,我存款都不到兩萬,不知道明天要幹嘛,差點想抱小孩跳樓。
(拙訳)
昇:本当は、もとの職場綜一レコードに相談しようと思ったのだけど、自分は仕事はいつもサボってばかりでバンドばかりやってたものだから、ついにくびになったんだ。ほんとに悲惨だったよ。破産だ。子どもはまだ1歳にもならない。妻が勤めに出て養ってもらってた。自分は家で子供の世話をしてた。レコードはまだ出版できない。冬のある日、子どもに湿疹ができたので、ベランダで日光浴させてた。まさに失意のどん底だった。家賃は2万元なのに2万元の貯金もない、明日何していいかもわからない、もう少しで子供を抱いてベランダから飛び降りるところだった。
最後のところは本気か冗談かわかりませんが、奥さんの方が稼ぎが多くて、養ってもらってたような感じだったというのは、よく話してることです。でも、ちゃんと子供の世話をするイクメンだったんですね。なんだか意外。
そして後半は新譜について語っていますが、(北朝鮮の)キムジョンウンに手紙を書いた陳昇の友人ロブスター王の話はよくわかりませんでした。中国語も難しいし、中国語がわかっても理解できない話のような気がします。
ただ、今の世界の50歳以上の人が全部死んでいなくなったら世界はかなりよくなりそうだというのはなんとなくわかりますね。無理な話だけど、夢想してみると案外よい世の中になっていくんじゃないかと思ったり。こういう暴言も本人が50代だから言えることですね。未成年に選挙権がないように、老人にも選挙権を与えないというのもありな考えではないかと思ったりしました。お年寄りのみなさんごめんなさい。
如果全世界50歳以上的人全部死光光,這個世界會卯起來RUN得更好、更清新。所以我不懂怎麼會有人七、八十歳了還要選總統呢? 為什麼不把事情留給小朋友去幹呢?
(拙訳)
もし全世界の50歳以上の人が全部死んでしまったら、この世界はもっと溌剌としてもっとうまく回り始めるのじゃないか。だから、なぜ70,80歳の人たちがまだ総統選挙に行くのかわからない。なぜそういうことは子供たちに任せておかないんだ?
記事を読むにあたって、わからない単語がいろいろあったので、少し調べました。
轉捩點=ターニングポイント
塌=くぼむ、くずれる
飛蛾撲火=自爆、自分でダメになる?
同梯=兵役の同期
萬念倶灰=どうしようもない状況、八方ふさがり、失意のどん底
元記事
(gooブログでは一部の中国語が表示されない場合があります(「?」で表示される)ご興味のある方は、元記事のページに飛んでご覧ください。
我們的樂園依然擁擠:陳昇的生存之道-【奇哥搏感情Vol.6】
以下記事全文を転載
「這些年來的這些事 , 真是快把老爺給搞瘋了!」面對千禧年後世界上的紛紛擾擾 , 昇哥一直處於多毛狀態 , 有些話想說 , 只好把歌越唱越長。
最青春少年的北方夢想
奇哥(以下簡稱「奇」): 昇哥你是彰化溪州人,當初怎麼會上台北? 是因為想玩音樂? 還是不知道為什麼就上來了,像飛蛾撲火一樣找機會?
陳昇(以下簡稱「昇」): 我的爺爺生了8個小孩,全都擠在那個屋子跟那片田,因為鄉下田地實在不夠用,他就鼓勵男生都出去求學。我就像做夢的人,如果看到天上的飛機,就會想他們要去哪裡呢? 我也好想去喔!我不是很想待在這個地方呀。就算騎腳踏車再遠,也遠征不到西螺大橋,我覺得我應該離開。所以我就一直念書,找可以離開家的辦法,唸彰化高工、學汽車修護、送報紙、死也不要留在家裡。
奇: 你那時候有寫東西嗎?
昇: 我還不太會寫,只是一直覺得最精采的世界都在台北,就是要想辦法去。我去台中應徵電梯裝配公司時,他問我要去哪裡上班,我說我要去台北;他問我幾號可以上班,我說我七月一日就可以上班, 他說:「 你三十號才畢業,七月一日怎麼上班?!」我巴不得想趕快離開啊!18 歲就來台北了,其實我是想去考藝專、 進入文化圈, 倒是跟音樂沒關係。
奇: 是有什麼轉捩點嗎?
昇: 我後來當兵到了軍樂隊去。其實很傳奇性的,就是有一個老芋仔問我們會不會 「咬七」、「油漆」,我就跟著去了,其實他說的是有沒有人會「樂器」,這個真的是轉捩點。
奇: 你本來就會樂器嗎?
昇: 不會!硬是要去!我在空軍樂隊吹了3年伸縮喇叭,剛操的時候每天都跟喇叭睡在一起。他就給你6個月時間, 如果沒學好,就調回原單位。我們操的時候多苦,有人吹到牙齒都塌了、尿血,就怕被調回原單位,很慘的! 每天都在玩命。
要生存要過關
奇: 當完兵就去唱片公司嗎?
昇: 我先在朋友的廣告公司,幫忙弄暗房、做平面,那時候還是想去考藝專,但我學科不夠考不上。後來軍樂隊一個朋友告訴我,綜一唱片在找製作助理。那時歌林拆解後有兩大掛最主流的唱片公司,一個是海山,一個就是綜一。 高凌風、 齊秦、沈雁、 陽帆、 楊林,每張唱片都賺錢,幾個大台柱都在這,我每天就是服侍這些人。
奇: 所以你就是從製作助理開始?
昇: 對,那時候考試就丟一個歌給你採譜,我永遠記得是採黃仲崑的《 無人的海邊》。黃仲崑跟我同年耶,他已經那麼紅了,我還在考他的歌。沒有考過,大概半年後,他又在招,我氣不過,覺得跟這個公司有仇了,又再去一次,怕被人家認出來,就把履歷表通通改了,他要大專生,我就背我同梯的一個朋友所有的資料。
奇: 偽造文書。
昇: 我不管,就是為了生活而奮鬥。而且怕被認出來,就把名字改成陳昇。
奇:所以是因為偽造文書才變成陳昇!
昇:不管,反正我就進去了,把自己操到一個狀況。「退此一步,即無死所」,那時候為了要練簡譜,練到出門看到車牌號碼,都覺得是在唱歌。每件事都不是開玩笑的,因為我要生存、我要過關。後來就開始有機會做齊秦、楊林、陽帆的唱片。5年之後,麗風錄音室的徐先生(徐崇憲)就跟我說:「你幹嘛不自己唱?」我都沒想過。
奇:所以30歲時發了【擁擠的樂園】?
昇:我那時候剛結婚、有小孩,我老婆已經有卡,本來想去美國了,但去了大概也是接他姐夫的餐廳廚師工作,我覺得我應該不會很快樂吧。徐先生就說:「 那你去搞樂團啊。」因為他覺得樂團的時代也該來了。那時候薛岳、高凌風都有樂團,高凌風一天就要25萬,我還去幫他們合音,賺5000塊我都很高興。
奇:那時候5000很多耶, 陽春麵一碗才3塊錢。
昇:任何工作我都接,孫建平、馬毓芬叫我去當合音,我都去、都要賺,就是那段日子練就了什麼東西都來,幫所有人打點事情,任何雜務都做。後來小徐就借我60萬出唱片,他是我的恩人,我說那我們應該有個部頭約, 他就弄個label 叫 「風行唱片」,我們就簽約。
奇:不是跟滾石?
昇:不是,我沒有跟滾石有任何合約,大家都以為我是滾石唱片的,那是因為我跟滾石感情最深,就是這麼回事。但我錄音都是在麗風,即便到現在,每一張都是。小徐那時候就跟我說他要跟我簽5年合約,我想說大家彼此這麼信任, 簽10年好了。但是3年後,他就不想做唱片了。他本來是想拿到飛碟去,但飛碟當時已經有王傑,所以沒談成。
奇:所以你那時候的心情是? 我以為你一直是很不可一世的。
昇:我其實最想拿回綜一談,但我一直翹班,在外面搞樂團,有一天就被fire了。那時候好慘, 傾家蕩產了,小孩不滿1 歲,老婆上班養我,我在家看小孩,唱片還在等。有一個冬天,我兒子有點溼疹,我把他抱到陽台去曬太陽, 真的萬念俱灰啊, 房租兩萬,我存款都不到兩萬,不知道明天要幹嘛,差點想抱小孩跳樓。後來小徐決定去滾石談,雖然我那時候對滾石很感冒,覺得他們很「 假會」。到滾石後, 我在外面抽菸, 他們進去開會,放了一首歌後,就聽到Landy在裡面拍桌子說: 「 他媽的, 這就是我們要的東西啊!」
奇:「 不發這個發什麼!」我太熟了哈哈。
昇:之後專輯就發了。那時候我們歌手都是聚在一起,同期的有華健、小玲黃韻玲、馬爺馬兆駿,都一夥人出去打歌,比如說華健在唱,我們在後面合音。那時候剛開始都拿打歌費1000塊,一年後開始有2000了,每次拿到都捨不得花,但馬兆駿都會請客,他已經很有名了。一直到拿到了5000塊,我在老婆睡覺時把錢放在床頭,我知道我的生活應該有把握了。
從那些年到這些年
奇:新專輯 【是否,你還記得】有沒有什麼特別要講的?
昇:我有一個朋友在南部養龍蝦,他因為看到金正恩為了要吃龍蝦養龍蝦,槍斃了很多人,就毛遂自薦寫信給金正恩說他是台灣的龍蝦大王,可以幫他解決所有的養殖問題。結果金正恩竟然回信了,所以他現在也不知道未來要怎樣。
奇:這個龍蝦大王的故事,跟新專輯有關係嗎?
昇:因為這位瘋子蝦夫小我1 歲,我認識他30年了,偶爾碰面時,我們即便不說出口,也可以從彼此臉上表情看出來,這些年來的事情,真的是媽的我活得不耐煩了, 想要解套。所以瘋子蝦夫終於決定去做一個全世界最解嗨的事情:幫金正恩養龍蝦。我覺得這件事剛好給這張專輯做一個結尾。其實我本來是想寫一個很長很長的歌,想從2000年一直寫到2015年。但我從2000年開始回想時,突然覺得所有事情都是很帶賽的,那時候我們都覺得千禧蟲會把人類給搞死,然後沒有搞死,但唱片業垮了,美國選了一個公認是智商最低的總統,台灣選了一個很霸道的阿扁,等於這10年間,整個世界的氛圍很糟。
奇:可是你不覺得這樣的轉變,也有很多有趣的事? 像80年代有很多的瓦解,很有趣。
昇:我如果是20-30歲,會很樂於見到這樣,但我已經40-50,應該做一個結語了,為什麼要陪這些人倒霉呢? 這整張專輯就是從那一些年到這一些年來,往回寫。我們這個時代確實沒什麼好招搖的事,確實留下很多垃圾。 前兩天跟兒子聊天,他覺得他的工作老是上面有一些老人卡位,覺得有志不能伸,很著急,他都要奔三了。我就跟他講,如果全世界50歲以上的人全部死光光,這個世界會卯起來RUN得更好、更清新。所以我不懂怎麼會有人七、八十歲了還要選總統呢? 為什麼不把事情留給小朋友去幹呢?
整理|洪瑋伶
攝影|Cheng Chen
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