NHK朝ドラ「エール」に登場する古賀政男は颯爽としてかっこいいので、もう一人の国民栄誉賞作曲家服部良一はどんな人かと気になった。
さっそく図書館に行き「服部良一ぼくの音楽人生・日本文芸社1983年刊」を探してもらった。
昭和57年(1982)に発行されたものに、ご長男克久氏が「父の想い出」を加えた増補版である。
エピソードでつづる和製ジャズソング史 目次
道頓堀ジャズ
明治・大正の洋楽
シンガー・ソングライター
少年音楽隊
メッテル先生
大阪のジャズ界
ジャズソング事始め
ラプソディー・イン・ブルー
東京のジャズ界
響友会と音楽結婚式
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と続き、「青い山脈・銀座カンカン娘」などの章は特に興味深かった。結婚式のくだり(件)も面白く、それは、次のように書かれていた。
「・・・ニットー時代の一時期金にあかして遊蕩した。ニットーには嘱託で文芸部長格の服部龍太郎氏がいた。年は十歳近く違うが気さくなノンベで、おみきどっくりで紅燈の巷をさまよった。いわば”悪友”である。」
(この”夜話”には、服部良一氏との遊蕩の話は書かれていない)
悪友と遊び惚けていたある日、良一は、浅草の待合で”女将の娘”と紹介された万里子という素人の娘に一目ぼれする。
「結婚するなら、家庭をきちんと守ってくれそうな真面目な素人娘がいい。そこで、早速、この気持ちを服部龍太郎氏に打ち明けた」
「悪友は善友に変わった。万事のみこみ、話をまとめてくれ仲人を引き受けてくれた」
昭和10年12月8日帝国ホテル始まって以来の大オーケストラの持ち込みで盛大な音楽結婚式・披露宴が催される。
新婚旅行の熱海での翌朝、良一氏は「スグコラレタシ」の電報を打ち、「いったいどうしたんだ」とびっくりして東京から飛んできた夫妻に「いや、どうもね。二人だけでは話がなくて困るんだ。仲人の責任上、付き合っておくれよ」と、十国峠、箱根を一緒にドライブした。
「それから半世紀以上、夫婦の間は取り立てて波風もたたず、二男三女もそれぞれ成人し、今では孫が十人になっている」と、この章を結んでいる。
服部家の 良一 ー 克久 - 隆之 ー 百音 と引き継がれた音楽の才能は際立っている。