今は公園となったいる山谷堀を横断して今戸神社に行きました。
「招き猫」「結縁」「新撰組沖田総司」で有名な神社です。
それにしても、結縁祈願の絵馬の多さには吃驚。
次に向かった橋場不動は、奈良時代末期に開かれたという天台宗の寺です。
関東大震災や戦災にも焼けず、江戸時代末期に建てられた本堂が残っています。
誰でも気さくに受け入れてくれそうな寺でした。
今は公園となったいる山谷堀を横断して今戸神社に行きました。
「招き猫」「結縁」「新撰組沖田総司」で有名な神社です。
それにしても、結縁祈願の絵馬の多さには吃驚。
次に向かった橋場不動は、奈良時代末期に開かれたという天台宗の寺です。
関東大震災や戦災にも焼けず、江戸時代末期に建てられた本堂が残っています。
誰でも気さくに受け入れてくれそうな寺でした。
隅田公園の隅田川テラスを通って待乳山聖天に向かいました。
(言問橋の下)
待乳山聖天の門前には庚申塔が並んでいます。
寛文 9 年( 1669 ) 天和 2 年( 1682 )などの年号を見るとうれしくなってきます。
財宝を表す“巾着”と、迷いの心を表す“大根”には、境内のあちこちでお目にかかります。
私は今回で 2 度目ですが、来るたびに発見があって楽しくなります。
“鬼平”の作者、池波正太郎さんの生誕地だそうです。
N さん K さん 私( K )の散歩。
目的地や日にちを決めるのは一か月も前なので当日の天気には当たり外れがある。
1 月 19 日(火)は快晴で当たり。私は北総線新鎌ヶ谷駅から浅草へ向かった。
(新鎌ヶ谷 9 ; 15 品川行の車内)
江戸川に近づくと昨日の雪が見られ、東京に入って、立石、四ツ木、京成曳舟と進むにつれ積雪が多くみられるようになった。
自然、目に入ってくるのはスカイツリー。やはり存在感抜群だ。
浅草で降りて、友達を待つ間いろいろと撮った中でも、駒形橋からのスカイツリーが一番印象的だった。
( A 3 の出口を路上に出て望んだ松屋のビル)
(駒形橋から吾妻橋を望む)
平成 28 年 1 月 18 日(月)の朝、関東地方平野部は積雪に見舞われた。
私はこの日東京にいく用事があった。
幸い柏は小雨だったが、大津ヶ丘のバス停は大勢の人だ。乗り込んだバスは、はや 4 つめの停車場で満員となり後は通過。
積雪のない常磐線はほぼ順調だったが、江戸川を超えて東京に入ると雪景色となった。
(松戸の手前北小金あたり)
(金町駅あたり)
亀戸に行くので、北千住で東武線に乗り換えようとしたのが誤算だった。
北千住駅東武線ホームへはたどり着けないほどの大混雑。筑波エクスプレス経由で何とか予定の時刻に亀戸にたどり着けたが、少し苦労した。
夕刊の記事には“首都圏の鉄道は大幅にダイアが乱れ、関東地方では少なくとも 85 人が転倒事故などで病院に搬送された”とあった。
7 世紀中ごろの日本の外交官、伊吉博満(イキノヒロトコ)の人生は、波瀾万丈だった。
659 年、第 4 次遣唐使の一員として唐に赴くが、百済と敵対していた唐によって、長安に幽閉されてしまう。
661 年許されて帰国でき、その間の彼の記録が、後に編纂される“日本書紀”に引用され、個人の日記が正史に記録された最初の例となった。
(平成28年度の共通一次試験日本史 B の問題はここから始まっていた)
伊吉博満(イキノヒロトコ)は、その後の政変で、有馬王子の謀反に加担した嫌疑で上毛野国(群馬県)に流されるが許され、唐との外交で活躍し、 695 年には遣新羅使として新羅に赴く。
大宝律令撰定にも功績があり、功田、封戸を給され、従五位の官位を得たとのことだ。
柏・印西線の中之橋から上流へ、5 つめは、橋脚 1 本の芦川橋です。
橋の東に神明社、西は慈本寺です。
(神明社の森)
この寺の門前に道祖神が祀られていました。
二つの祠の古い方は安永 6 年( 1777 )林長八さんが、新しい方は、平成 12 年( 2000 )早川精一さんの建立です。
道祖神は道路の悪霊を防いで行人を守護する神ですが、草鞋が供えてあるのは、健脚を祈願していると思いました。
畑の道をしばらく進むと、茅葺屋根の観音堂が見えてきました。
このあたり(柏市・高柳)の大津川は小川で、橋は無名です。
川面のカルガモは私の気配を感じるとさっと飛び立っていきました。
川の東には、高柳、馬洗戸の“善龍寺”があります。
(柏市の文化財ですが説明板は沼南町時代のもの)
帰り道には、はやくも暮色がたちこめていました。
県道 282 号(柏ー印西線)は、今でこそ立派な道で、このあたりで橋が流されるような水害が起こるとはまず考えられません。
でも、昔は大変な難所だったようです。それを証明するように、中之橋の東詰には如意輪観音像と架橋記念碑が建っていました。
5 基の記念碑は、天保 14 年(1843 )、明治 12 年、明治 24 年、大正 6 年、大正 13 年のものです。
明治は兎も角、大正になっても橋の建設を住民の寄付に頼っていたとは驚きです。当時の行政は、田舎の小道には手を差し伸べなかったということでしょう。
柏市史編さん委員の中村勝氏の論文「手賀沼ー江戸物流の道」は、明治 12 年の改築工事の注目点として、費用を地元の大井村以上に橋から東に 8 ㌔も離れた布瀬村・手賀村が負担していることは、当時カモ猟が最盛期だったことで、この道による物流が必須だったことをあげています。
なるほど、石碑一つからでもいろいろなことが読み取れるのだ!
この道のバスストップ「中之橋」には、形の崩れた石仏がありますが、これは、水難よけではないかと思いました。
近くに中之橋公園があります。
やはり近くにある「中村順二美術館」に行きました。
館長であり郷土史家の中村 勝先生にお目にかかることができました。
柏市~印西市を結ぶ県道 282 号線が大津川を渡る中之橋です。
橋の下流には浄化施設があります。
(鉄板の下が施設です)
中之橋はかなりの交通量です。
浅瀬で川幅が広いせいか水鳥がたくさん集まっています。
(コサギ)
(コガモ)
(コガモ&コサギ)
(コガモ&オオバン)
(オオバン)
カワセミがいました。ビニールごみと一緒なのが残念です。
こんな風景も目に入ります。
(柏駅東口の高層ビル)
(国道 16 号の柏トンネル)
庚申塔のパターンは、青面金剛が、人に災いをもたらすという天邪鬼(あまのじゃく)を踏みつけ、その下に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が彫られています。
これはまた別の庚申塔です。
文字だけの庚申塔に、三猿だけは彫られているものもありました。
こうして、猿だけをクローズアップして眺めてみると意外にリアルなので、面白いなあと思いました。
主催者は、柏・大津ヶ丘団地 3 ー 1 町会、230 世帯 約 500 人の団地自治会です。
団地創設の昭和 53 年から 7 年後の昭和 60 年に始まり平成 28 年の今年で第 32 回を迎える餅つき大会なのです。
1 月 10 日(日)開会の 30 分前に会場に行ってみると、もうすっかり準備が整っていました。
(竹ずつの中身は酒)
用意されたもち米は 60 Kg。臼から始まって薪まで、準備はなかなかの手間と思われますが、「今まで引き継がれてきたこの行事、高齢化、少子化が進む今こそ実行の意義があるのではないでしょうか」と、役員の方々がおっしゃった。
(向かって左が理事長の永沢さん)
(事務局長の尾上さん)
唯一の出店は団地住民で南柏駅西口“スペイン料理ゴチ”の店主さんの「焼き鳥屋」。
つきたての餅は入口で 100 円(+α歓迎)で、会場で食べ放題です。
そうそう、綿あめも無料でしたよ。
天候に恵まれ、とても楽しい餅つき大会となりました。