所司一門将棋センター (津田沼店)

日本将棋連盟
津田沼支部道場
津田沼子供将棋教室 スタッフブログ

3月29日の大人教室

2022年03月29日 | 大人教室

3月29日の大人教室とコラムです。

今日は3人でした。

第16回 弟子を取る

幅広く活動したいと思い始めた二十代の終わりごろ。

師匠の土曜教室を引き継いで、場所を馬橋から南流山の福祉会館に移って続けていました。

弟弟子の岡崎洋現七段が南流山に住んでいたのもここにした理由です。

もう1人の弟弟子、川上猛現七段も埼玉県からよく手伝いに来てくれました。

将棋道場では、船橋将棋道場だけではなく、北習志野将棋センターによく行くようになりました。

また津田沼将棋センターが出来たころで、定期的に指導に行くようになりました。

北習志野将棋センターには後藤元気君(現ライター/指導棋士四段)が毎日のように来ていました。

初心者でしたが、みるみる強くなってきました。

少し後に、南流山の土曜教室に、埼玉県から小学3年生で宮田敦史君(現七段)が来るようになりました。

おとなしい子で、棋力はよくわからないとのことでした。

二枚落ちを指してみたら初段ぐらいあった感じです。

後藤君を土曜教室に誘い、宮田君と二人は研修会にも入り、奨励会試験を受けることになりました。

宮田君に初めて会ったときは、特別すごい才能に気づきませんでした。

待ち時間には常に詰め将棋を解いていて、たいてい詰め将棋パラダイスを持っていました。

同誌の「大学院」の問題を解いていたので驚きました。

「大学院」は51手詰め以上ので、全部頭の中で解けるとのことです。

こんな天才は見たことがなく、本当にびっくりでした。

1992年8月、後藤君、宮田君たちが奨励会試験を受けました。

私の門下として奨励会試験を受けるのは初めてです。

小学5年生だった宮田くんは合格。

後藤君は不合格でしたが、翌年合格しました。

弟子で棋士になったのは松尾歩八段、渡辺明名人という順です。

一番弟子は、奨励会入会が最も早い宮田七段と言えます。

 

 


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3月22日の大人教室

2022年03月22日 | 大人教室

3月22日の大人教室とコラムです。

今日は4人でした。

 

第15回 幅広く活動

 

9勝1敗で昇級出来なかったのは、後になるとだんだん無念の気持ちが増えてきました。

このあとがんばり続けても、運がないと上のクラスに昇級できないかもと。しかしそれでもがんばり続けることが大切であることと、何か将棋界で自分らしい活動ができればという葛藤がありました。

奨励会同期で19歳入会だった関西の神吉宏充さん(現七段)は解説や話が面白く、芸能人的な活躍をされていました。

私にも何か長所があるかなと考えますと、たくさん将棋の本を読んできて、研究が好きなこと。当時すでに横歩取りガイド(1988年著)をはじめ著書を書いていました。

雑誌に連載講座を書いたりと、この方向でもがんばっていきたい。

また奨励会に入ってすぐに師匠の教室を手伝ってきたことから、指導に力を入れていきたいこと。

師匠からはいつか名人を輩出したいとのことから、弟子を育てていくこと。

この時期1991年から6年間女流棋士育成機関の女流育成会の幹事をしました。

単に幹事をすること以外で、対局のポイントになる局面のレポートなど作ったりしました。

1991年度の順位戦は調子が悪く、2勝8敗で降級点を取ってしまいました。

公式戦は16勝20敗でした。

前年多く勝ったので、負け数は2番目に多かったです。

1992年度の順位戦は7勝3敗ですぐに降級点は消しました。

前年、この年ともう少しがんばっていれば昇級のチャンスがあったかも。

順位戦の好成績としてはこの年の7勝3敗が最高で、以後は下降となりました。

公式戦は20勝16敗で、前年とちょうど逆でした。

この年、五段昇段から勝ち数120勝で六段に昇段しました。

まだまだ力は残っていますが、四段で研究会を減らし、五段でなくし、VSも六段になるころ弟弟子の岡崎洋現七段のみとなってきました。

当時の趣味はアクアリウムという水草などをセットした水槽で熱帯魚を飼っていました。

将棋世界にカラー写真で紹介されたこともありました。

当時の将棋世界編集長で「聖の青春」の作家の大崎善生さんもアクアリウムが趣味で、よく熱帯魚のショップ巡りなどしていました。

 

 

 


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3月15日の大人教室

2022年03月15日 | 大人教室

3月15日の大人教室とコラムです。

今日は3人でした。

 

第14回 順位戦9勝1敗で昇級出来ず

(棋士の肩書、段位きは当時のもの)

1990年度の順位戦は初戦に屋敷伸之五段に負けたもののその後2連勝し、次が佐藤康光五段でまたも強敵です。

ただ中原誠名人に勝った後も公式戦2連勝で気分良く戦えました。

相矢倉の難解な将棋でしたが、うまく指すことができました。

これで佐藤さんには公式戦2勝上げました。

強い若手ではこの時期、森内俊之さんにも2勝上げています。

結局2人とは2勝6敗、2勝8敗と負け越していますが、当時の私は気を吐いていました。

順位戦は次の井上慶太五段に勝つと、そのまま連勝を続け、8勝1敗で最終局を迎えました。

前期も前々期も6勝4敗で勝ち越しでしたので、順位は9位とまずまずです。

普通は最後を勝てば9勝1敗で昇級ですが、上位に8勝1敗の方がいましたので、わからない状況です。

上位の2人は森下卓六段、神谷広志六段と実力者です。

私の最終局は室岡克彦五段とです。

室岡先生は研究の深い方で、C級1組に昇級した年の順位戦で負かされています。

私が先手で横歩取り△3三角型に進み、駒組みが長い将棋になりました。

じっくりした展開は私好みで、銀冠に組み替えて飛車を6筋に転戦して戦いました。

2筋を逆襲されましたが、玉の堅さを生かしてうまく勝つことができました。

これで9勝1敗となりましたが、上位の2人も勝たれたので昇級ならずでした。

今までの順位戦では9勝1敗で上がれなかったことはなかったようですので、運がなかったです。

このとき以降は9勝1敗で昇級できないケースは増えました。

自分としては9勝1敗を取れたことが誇らしく、充実した気持ちでしたが日が経つにつれて残念だった気持ちも増えてきました。

なおこの年は全体的にも調子が良く、公式戦は30勝16敗でした。

勝率としては1986年度のC級1組に昇級した年が26勝13敗で最も勝率が高いですが、勝ち数ではこの年の1990年度が最高でした。

 

 


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3月8日の大人教室

2022年03月08日 | 大人教室

3月8日の大人教室とコラムです。

今日は5人でした。

 

第13回 現名人に勝利

(棋士の肩書、段位きは当時のもの)

 

1989年度は、順位戦は勝利スタートでしたが、その後2連敗、そして3連勝、2連敗、2連勝で前期同様6勝4敗でした。

ラストの2連勝はホッとしました。

公式戦トータルは18勝15敗でした。

勝ち越せたのは良かったですが、対局数が少なかったです。

前半は調子が悪かったですが、後半は7勝1敗で終わりは4連勝でした。

来期に向けてはいい手ごたえがありました。

この年は師匠の平野広吉六段がなくなり、享年73歳でした。

先生が晩年体調を崩されてからは、いくつか代理でお稽古などに行きました。

いろいろ地方にも行き、とくに思い出にあるのが群馬県のハンセン病(らい病)療養所の栗生楽泉園に何度か指導に行ったことです。

将棋の好きな方が多くいらっしゃって、とくに目の不自由な方が強くてびっくりでした。

先生はらい病がうつるかもと心配だった時代から療養所に指導に行かれ、もしうつっても将棋の好きな皆さんに指導していきたいという気持ちでした。

国立療養所からの感謝状は先生の自宅教室に飾ってあります。

普及に対する強い意識は受け継がなければならないと心にとどめました。

これがのちに海外普及していく原動力になっています。

1990年度の順位戦初戦はC級2組一期抜けの屋敷伸之五段でした。

強い若手で、このあと棋聖挑戦者、そして次は18歳で最年少タイトル獲得とすごい記録を作られました。

本局は相掛かりの素早い動きで私が不利となり、夕食休憩前に負けてしまいました。

才能のない私は粘りが身上で、順位戦は持ち時間が6時間あるので悪くなってもなるべくがんばり、今まで夕食休憩前に負けた将棋はなかったです。

順位戦2回戦からはこのような負け方はしないようにと心に決めました。

8月に全日本プロトーナメントで中原誠名人と当たることが出来ました。

中原先生の将棋は私にとっては一番の手本で、たくさんの棋譜を何度も並べてきました。

奨励会時代師匠に頼まれて、中原名人の自宅に色紙を受け取りにいったことがあります。

私が四段に昇段したときは中原先生から為書き扇子をいただいたのは、うれしい宝物でした。

私が棋士になって5年、C級2組一期抜けや17連勝はありましたが、勝率はここまで5割5分ぐらいで若手棋士としては今一つです。

現役の名人に勝つのは難しいですが、憧れの大名人と指せることがうれしかったです。

私が後手で中原先生の急戦矢倉でした。

出だしは居玉で待つ工夫などで、序盤はまずまずでした。

その後もいい勝負と思いますが、私としては自分ペースで戦えました。

優勢になってからは、中原先生の入玉模様の粘りなどで長い戦いでしたが、何とか184手で勝つことが出来ました。

うれしい勝利で、現名人や名人経験者にトータル3勝1敗(大山康晴十五世名人に1勝1敗、加藤一二三九段に1勝)はいい自信にもなりました。

順位戦は屋敷五段に負けたあとは連勝。

快進撃が続きました。

 


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3月1日の大人教室

2022年03月01日 | 大人教室

3月1日の大人教室とコラムです。

今日は3人でした。

 

第12回 村山聖九段と激闘。終局は朝5時50分

 

王位リーグで高橋道雄十段に負けた後は3連勝して2連敗で5月を終えました。

6月、C級1組での2期目の順位戦の初戦は故村山聖九段(当時五段)とです。

関西所属なのであまり知りませんでしたが、強いという評判で大事な勝負です    。

相矢倉のがっぷり四つの戦いでしたが、一局を通して先手の私がまずまずの展開でした。

長い戦いが続き、とうとう209手で持将棋となりました。

終局は翌日の1時18分でした。

30分後指し直しで、村山さんが先手でまたもがっぷり四つの相矢倉になりました。

今度も私が指せる局面は多かったと思いますし、終盤は勝っているはずと思っていしました。

しかし村山さんの終盤の指し手は正確で、はっきりした敗因がわからず負けとなりました。

指し直し局は143手ですが、濃密な戦いで終局は朝の5時50分でした。

もちろん私の棋士人生で最も遅くまでかかった対局です。

そういえば村山さんは体が弱いということを聞いた覚えがありますが、当時は将棋を戦う体力は逆にすごいなと感じました。

だたきっと体調的にはかなりきつかったのだと思います。

私もかなり疲れましたが納得できない負け方で、日が明るくなる8時ごろまで感想戦をしてしまいました。

記録係の山本真也さん(現六段)が、これから学校に行くというので、ようやく感想戦をお開きにしました。

村山さんとはC級1組順位戦でもう一度当たりました。

その時も指せていると思っていたのですが、すごいタイミングでの桂跳ねで困っていて負けでした。

この一局では村山さんのすごい才能を感じて、もうこの方には勝てないと思いました。

その後村山さんはタイトル戦に出場、A級に上がりめったに当たらない位置になりましたが、NHK杯で対戦して勝つことが出来ました。

勝てると思っていなかったのですが、後になって聖の青春を読んで、このとき村山さんは体調がかなりきつかったことが書かれていてました。

この対局は以前からYouTubeに動画がアップされています。

順位戦はその後、4連勝しましたので1局目は大きかったです。

6勝3敗で迎えた最終局の相手は、前期C級1組に全勝で昇級した羽生さんです。

今期の羽生さんは7勝2敗で、昇級は難しそうな星でした。

羽生さんとは1年半前に棋聖戦であたり完敗しています。

今度は先手なのでいい戦いが出来るかもで、実際中盤戦までまずまずでした。

しかし意表を突かれた△9四歩突きから攻守ともにうまく指されて完敗でした。

本局は羽生さんが「近代将棋」誌で自戦解説。「所司さんには奨励会時代に苦しめられました」と書いてくださってうれしかったです。

私より10歳前後若い強い方が多く大頭してきて、勝ち抜いていくのは大変と感じました。

1988年度は、順位戦は6勝4敗と勝ち越せましたが、公式戦トータルは17勝24敗でした。


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