「死海は周囲から水は流れ込むものの出口がなく蒸発する
だけなので、長年月の間に少しずつ塩分の濃度が高まり、魚や
生物は一切棲めない文字通り死海になっているのに対して、
ほんの少し北にあるガリラヤ湖は、同じように周囲から水は
流れ込むものの何箇所か出口があるため、水はいつも循環
していて、清浄で魚や水草が生息しています。」
これは某メールマガジンで紹介されていました言葉ですが、
受け入れるばかりでなく、出すこと、与えることの必要を
教えている一つの表現であるそうです。
送り出す事なく受ける事のみではいずれ不毛となってしまうと
いう意味なのでしょう。息を吐き続けるだけでは生命を維持
出来ませんが、息を吸い込み続けるだけでも同様に維持する事は
不可能です…。
この言葉はわたくしにアシジの聖フランシスコの「我々は与える
から受け、赦すから赦され」の祈りを思い起こさせました。
また丁度"ホリデーシーズン"で物流の多い時期ですが、こうした
事を想起しますのも良い事かもしれない、と思いました。
そして何よりわたくし自身が"死海"になってはいないか、
省みる良い機会を提供されました様に感じます。
だけなので、長年月の間に少しずつ塩分の濃度が高まり、魚や
生物は一切棲めない文字通り死海になっているのに対して、
ほんの少し北にあるガリラヤ湖は、同じように周囲から水は
流れ込むものの何箇所か出口があるため、水はいつも循環
していて、清浄で魚や水草が生息しています。」
これは某メールマガジンで紹介されていました言葉ですが、
受け入れるばかりでなく、出すこと、与えることの必要を
教えている一つの表現であるそうです。
送り出す事なく受ける事のみではいずれ不毛となってしまうと
いう意味なのでしょう。息を吐き続けるだけでは生命を維持
出来ませんが、息を吸い込み続けるだけでも同様に維持する事は
不可能です…。
この言葉はわたくしにアシジの聖フランシスコの「我々は与える
から受け、赦すから赦され」の祈りを思い起こさせました。
また丁度"ホリデーシーズン"で物流の多い時期ですが、こうした
事を想起しますのも良い事かもしれない、と思いました。
そして何よりわたくし自身が"死海"になってはいないか、
省みる良い機会を提供されました様に感じます。