宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

対の環

2005年12月08日 | Weblog

ダンテの「神曲」はキリスト教の公式見解では文学と認識されて
いますが、信者が個人的に信仰に取り入れている場合もあります。
これは地獄篇の第七曲の一部ですが…
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メッシナ海峡の渦巻きで有名なカリュブディスの渦巻く波が逆巻く波に
ぶつかるように、ここの魂達は舞い巡る様です。今まで見てきたよりも
沢山の魂が右から左から、叫び声をあげながら重い石を胸で押しているのでした。
互いに行き会うと激しくぶつかり合いながら「なぜため込むんだ?」「なぜ
浪費するんだ?」と叫び合っていました。そして同じ事を叫び合いながら
暗い圏の中を反対向きに戻って来て、半円の中をぶつかり合い、行ったり来たりを
永遠に続けているのでした。
それを見て私は胸を引き裂かれる様な思いで言いました。
「先生、ここにいるのはどんな人達なのか教えてください。私達の左に見える頭を
丸めた魂は、皆聖職者ですか?」
ウェルギリウス先生は仰いました。
「君がここに見る者は現世で浪費するのに節度がなく、ある者はため込み、
ある者は浪費したのですよ。その二つの罪が二つに分かれるこの圏の二点に
到ると叫び合うのです。それを聞けば分かるでしょう。頭をそられた所のある者は、
心の中が強欲で満ちていた聖職者、教皇、枢機卿ですよ。」
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「神曲」に信仰を持つか、それは別としても、この後の「吝嗇家と浪費家は
永遠に衝突するでしょう。」という言葉にはうなずけ、またこの第七曲の表現が
心中でその番組と重なりました。こうした互いの議論自体が不毛であり、
適切であるかどうかなどの出演者の大人達は疑問を持たなかったのでしょうか…。

TVを見て疑問を感じたり、不安を感じる事がしばしばありますが、他の方々は
どの様に受け取られているのでしょうか…。
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