乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

Marco Di Sapia(マルコ デ サピア)  オペラ歌手

2025-01-16 | 舞台・音楽 雑感メモ

Gioachino Rossini - „Figaro Aria“ from "il barbiere di Siviglia" (Live) (2019)

 

 

Marco Di Sapia(マルコ デ サピア)

マルコ・ディ・サピア
オペラ歌手への道


「ジェノバ生まれ、ローマ育ち」というのが、私の履歴書の冒頭の定番です。

 イタリア人の父とドイツ人の母のもと、バイリンガルとして育ち、ローマのドイツ学校に通いました。

 そこで、私は比較的早い時期に学校の演劇グループに参加し、卒業後は芸術家としてのキャリアを歩むことがすぐに明らかになりました。

 学生時代には、ローマの私立演劇学校で訓練を受け、高校卒業後は映画を2本制作し、それまでに5つの異なる演劇作品に出演していました。

 何年も学校の合唱団に参加した後、当時の合唱団の指揮者が、私の声質を理由に歌を学ぶよう勧めました。

 実は、それまでこの考えは頭に浮かんだことがなかったのですが、私はとても熱心でした。

 私は、私にとって重要な相談相手であり、このステップを踏むよう励ましてくれた演劇グループのリーダーに相談しました。

 その年(1997年9月)、父は仕事の関係でウィーンに住んでいたので、私は父を訪ねると同時に、当時の「ウィーン市立音楽院」(現在の「MUK」)のソロ歌唱の入学試験に応募することにしました。

 驚いたことに、私は入学試験に合格し、オペラ歌手になるための声楽トレーニングを始めました。

 比較的間もなく、2000年に勉強中に、初めてのプロの作品に参加することを許可され、ヨーロッパや世界中の多くの劇場に出演する長く成功した歌手としてのキャリアが始まりました。

 私は、いわゆる「芸術の故郷」をウィーン・フォルクスオーパーに見つけ、2009年からアンサンブルの常任メンバーを務めています。

 2020年3月、プロのオペラ歌手として舞台デビュー20周年を迎えました。

演技

 オペラ歌手としての仕事に加えて、私は俳優としてカメラの前で仕事をし続け、その情熱は今も消えていません。

 それで、ここ数年、映画やテレビのさまざまな作品に参加することができました。

 

 私は両方の芸術活動を常にとても楽しんできました。

 なぜなら、それらは互いに非常に異なっており、さまざまな方法で非常に要求が厳しいからです。

 

 長年にわたり、さまざまなオーケストラと数多くのコンサートで歌ってきたおかげで、私はこれらのコンサートの主催や発表を繰り返し引き受けたり、徐々にそれらのために特別に雇われるようになりました。

 私は熱意と喜びを持って、自分の専門的な経験を生かして、あらゆる種類や業界のイベントを成功裏に、そして楽しくリードすることができます。

ボイストレーニング

 ここ数年、私はボイストレーナーとしても働いています。

 これは、オペラや演劇の世界以外の人々から、オルガンや日常の仕事やコミュニケーションツールとしての声に関する講義やセミナーに興味があるかどうか尋ねられることが増えてきたことがきっかけでした。

 

 そこで私は、歌うためではなく、日常生活での使用や、重要な会話や講義などの特に難しい状況での使用のために、人々とその声に取り組み始めました。

 これは私にとって大きな満足感と幸せをもたらす仕事です。

 なぜなら、自分の芸術的スキルと技術的専門知識を通じて、他の業界の人々を助けられると感じているからです。

 現在、私はさまざまな業界のリーダーたちと仕事をしています。

私生活

 私生活では、妻と3人の子供とともにウィーン南部に住んでいます。

 家族と過ごす時間は、私の人生の絶対的な優先事項です。

 

 ウィーン・フォルクスオーパーの常勤キャストメンバーであることも、仕事であまり旅行しなくて済む理由です。

 そのことにとても感謝しています。

 私は航空が大好きで、熱心な航空ファンです(母はアリタリア航空の客室乗務員でした)。

 そのおかげで、2012年に飛行免許を取得できました。

 それ以来、私は自家用パイロットをしており、自由時間には海を楽しんでいます。

 航海免許のおかげで、いつも帆船に乗って海を体験しています。

 また、山でハイキングもしています。

 

 私は常に好奇心旺盛で、視野を広げ、自分の個性を伸ばすことができるものなら何にでも興味を持っています。

 常に新しいことを探求し、新しいスキルを習得しようとしています。

 私は、ノーベル文学賞受賞者で劇作家のゲルハルト・ハウプトマンのモットーに従って生きたいと思っています。

「何かの分野で達人になったら、すぐに新しい分野の学生になるべきだ!」

 

 The way to opera singing

“Born in Genoa and raised in Rome” is the usual beginning of my résumé. I grew up bilingual with an Italian father and a German mother and attended the German School in Rome. There I joined the school’s drama group relatively early on, and it soon became clear to me that I would embark on an artistic career after school.

When I was still at school, I trained at a private drama school in Rome, made two films after graduating from high school and had worked in five different theater productions by then.

 

The singing

After years of participating in the school choir, my choir director at the time suggested that I study singing because of my vocal qualities. This idea had actually never crossed my head until then, but I was very enthusiastic. I spoke to my theater group leader, who was an important reference person for me and who encouraged me to take this step.

In that year (September 1997) my father lived in Vienna for professional reasons and so I decided to visit him and at the same time to apply for the entrance exam for solo singing at what was then the “Conservatory of the City of Vienna” (today the “MUK”).

To my own surprise, I passed the entrance exam and began my vocal training to become an opera singer. Relatively soon, during my studies in 2000, I was allowed to participate in my first professional production, and thus began a long and successful singing career that brought me to many theaters across Europe and around the world. I found my so-called “artistic home” in the Vienna Volksoper, where I have been a permanent member of the ensemble since 2009. In March 2020 I celebrated my 20th stage anniversary as a professional opera singer.

 

The acting

In addition to my work as an opera singer, I also continued to work in front of the camera as an Actor a passion that has never left me. And so I have been able to take part in various productions for cinema and television in recent years.

I have always enjoyed both artistic activities very much, because they are very different from each other and are very demanding in different ways.

Thanks to the fact that over the years I have also sung a great number of concerts with a wide variety of orchestras, I have repeatedly taken on the hosting and the presenting of these concerts or gradually became specifically hired for them. With enthusiasm and joy I can use my professional experience to lead successfully and entertainingly through an event of any kind or industry.

 

The voice training

For a few years now I’ve also been working as a voice trainer. It came about when more and more people outside of the opera and acting world asked me whether I would be interested in giving lectures and seminars on the voice as an organ and daily work and communication tool. So I began to work with people and their voices, not for singing purposes, but for use in everyday life and for use in specifically challenging situations such as important conversations or lectures. It is a task that fulfills me a lot and makes me very happy, because I feel how I can help people from other industries through my artistic skills and my technical expertise. Today I work with leaders from a wide variety of industries.

 

My private life

In my private life I live with my wife and 3 children in the south of Vienna. Spending time with my family is an absolute priority in my life. Being a permament cast member at the Vienna Volksoper also allows me not to have to travel too much for work. I am very grateful for that.

I love aviation and am a passionate aviation fan (my mother was a flight attendant at Alitalia) and that’s how I managed to get my flight license in 2012. Since then I have been a private pilot and in my free time I enjoy the sea, which I always experience on a sailing boat thanks to my sailing license, as well as hiking in the mountains.

I am always curious and interested in anything that can broaden my horizons and develop my personality. I always try to explore new things and learn new skills. I like to live accordingly to the motto of the Nobel Prize laureate in literature and playwright Gerhard Hauptmann: “As soon as someone has become a master in one thing, he should become a student in a new thing!”

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映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』3,9★/5

2025-01-15 | 映画

 

 映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』3,9★/5

 

 映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』を見た。

 石畳など、チェコのイメージが広がり、楽しむことができた。

 

 モーツアルト役の役者のまつ毛が長い。

 モーツアルトってこんな感じのイメージかしらんと、ほくそ笑む。

 もう少し、シュッとしたイメージを持っていた。

 

 今回も見たという簡単な記録だけで失礼いたします。

 

 

 

『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』

 

2017年のチェコ・イギリス

監督

 ジョン・スティーヴンソン、

出演

 アナイリン・バーナード ジェームズ・ピュアフォイなど

 

 作曲家モーツァルトが、1787年にオペラ『フィガロの結婚』上演のために訪れたプラハで『ドン・ジョヴァンニ』を作曲したという史実をもとに、猟色家を主人公にしたオペラ創作の背景にモーツァルト自身も関わった三角関係の悲恋があったという推論を絡めて作られた創作ドラマ。(ウィキペディア)

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『狂言末広栄』7    山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎 「うたをよみにかみがたへ行とは、あんまり和歌(ばか)らしい、せんたくだ。うたではない。むだな事だす。

2025-01-15 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等

『狂言末広栄』7    山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎 「うたをよみにかみがたへ行とは、あんまり和歌(ばか)らしい、せんたくだ。うたではない。むだな事だす。

 

 

 

「うたをよみにかみがたへ行とは、あんまり

和歌(ばか)らしい、せんたくだ。うたではない。むだな事だす。

 

 

 

早稲田大学デジタルライブラリー

へ13 1061 22

[狂言末広栄] 

京伝 作 ; うた麿 画

山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、

 

『狂言末広栄』5   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆまぶちのせつでござる。

 

『狂言末広栄』6   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  ちち、やつまのあゆみはひにまかせぬのうゐんや、そうぎがみのうへがうらやましひ

『狂言末広栄』7    山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎 「うたをよみにかみがたへ行とは、あんまり和歌(ばか)らしい、せんたくだ。うたではない。むだな事だす。

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『狂言末広栄』6   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  ちち、やつまのあゆみはひにまかせぬのうゐんや、そうぎがみのうへがうらやましひ

2025-01-15 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等

『狂言末広栄』6   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  ちち、やつまのあゆみはひにまかせぬのうゐんや、そうぎがみのうへがうらやましひ

 

 

 

ちち、やつまのあゆみはひにまかせぬのうゐんや

そうぎがみのうへがうらやましひ

 

 

 

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京伝 作 ; うた麿 画

山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、

 

『狂言末広栄』5   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆまぶちのせつでござる。

 

『狂言末広栄』6   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  ちち、やつまのあゆみはひにまかせぬのうゐんや、そうぎがみのうへがうらやましひ

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『狂言末広栄』5   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆまぶちのせつでござる。

2025-01-15 | 草双紙:洒落本、仮名草子、黄表紙、黒本、赤本、合巻 等

『狂言末広栄』5   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎 

それ、やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆ

まぶちのせつでござる。詩をからくさとゆふ、やいしてやまと

こおらへますらしいは、こと国のものゆへ、うらうたとこといれども、

いかくにのうたをやまとうたとかくば、あやまりとみへます。

   

 

それ、やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆ

まぶちのせつでござる。詩をからくさとゆふ、やいしてやまと

こおらへますらしいは、こと国のものゆへ、うらうたとこといれども、

いかくにのうたをやまとうたとかくば、あやまりとみへます。

 

 

 

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山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、

 

『狂言末広栄』5   山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  やまとうたたとだらき(ママ)出ましたい。つらつきのあやまりしや、こゆまぶちのせつでござる。

 

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【南鐐二朱銀】(なんりょうにしゅぎん)とは  2-1

2025-01-14 | ことのは

 

【南鐐二朱銀】(なんりょうにしゅぎん)とは  2-1

 

 

【南鐐二朱銀】(なんりょうにしゅぎん)とは

 江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。  

 正式名称については『銀座書留』などに「貮朱之歩判(にしゅのぶばん)」あるいこれを略して「貮朱判(にしゅばん)」と記述しており、南鐐二朱判(なんりょうにしゅばん)と呼ばれる。

 

 幕府が敢えて「二朱銀」と云わず金貨特有の美称である「判」を付して「二朱判」と称したのは、金貨である一分判に類する二朱の分判であり小判に対する少額貨幣として流通を目論んでいたことが窺える。

 

 

  概要

 本来江戸時代の銀貨は秤量貨幣(丁銀・小玉銀)であるが、南鐐二朱銀は金貨の通貨単位を担う計数貨幣として「金代わり通用の銀」と呼ばれ、「南鐐」という特別の銀を意味する呼称を冠した。  

 形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。

 

「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった。

 

  南鐐二朱銀は明和9年9月(1772年)に勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。

 これは出目(でめ/改鋳利益)による収益を目的として含んでいたことは確かであるが、田沼時代の商業を重用した積極的経済策が背景にあったとされる。

 

 寛政の改革時に一旦鋳造停止されたが、程なく発行が再開された。

 文政7年(1824年)には改鋳されてほぼ同質の新型の南鐐二朱銀が発行された。(Wikipedia)

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代 金々先生造化夢 

 

【驚動】とは  1-1

【おはぐろ どぶ】とは  1-2

『吉原細見』とは  蔦屋 重三郎  1-3

【南鐐二朱銀】(なんりょうにしゅぎん)とは  2-1

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『吉原細見』とは  蔦屋 重三郎  1-3

2025-01-14 | ことのは

 『吉原細見』とは  蔦屋 重三郎  1-3

 

 

『吉原細見』は、1732年から年に2回発行された吉原遊廓の詳細な案内書。

 遊女の名前や料金、妓楼(遊女が所属する店)、茶屋などの情報が網羅されており、初期は一枚摺り(ポスターのような形)で発行された。

 

 享保年間(1716年〜1736年)には冊子型に進化。

 この形式変更により、内容がさらに充実し、利便性も向上。

 

『吉原細見』は1880年代まで発行が続き、約150年もの間、江戸の遊廓文化を支えた。

 

『吉原細見』の中心的な役割を果たしたのが、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。

 

 蔦屋重三郎は1772年、吉原の近くで書店を開業。

 翌年には「吉原細見」の販売を開始し、吉原遊廓に関する情報を広める役割を担いました。  

 

 蔦屋重三郎の『吉原細見』は正確性や信頼性が高く、訪問者だけでなく地元の人々からも支持を集めた。

 

  一方、江戸時代は出版文化が花開いた時期でもあり、多くの人々が娯楽や情報を求めていた。

 

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代 金々先生造化夢 

 

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【おはぐろ どぶ】とは  1-2

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【おはぐろ どぶ】とは   1-2

2025-01-14 | ことのは

【おはぐろ どぶ】とは   1-2

 

 

おはぐろ どぶ【御歯黒 溝】

 

 《遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからという》江戸新吉原遊郭を囲むみぞ。

 遊女の逃亡を防ぐために設けたもの。

 大どぶ。

 

 

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

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【驚動】とは   1-1

2025-01-14 | ことのは

【驚動】とは   1-1

 

【驚動】(大辞泉)

 

 江戸時代、町奉行が行った私娼窟(ししょうくつ)やばくち場への不意の手入れ。

 臨検。けいど。  

「—の言ひ訳日済(ひなし)聞き飽きる」〈柳多留・七〉

「警動」「怪動」とも書く。        

 

 

【驚動】(歴史民俗用語辞典)

(1)非常におどろくこと。

(2)江戸時代、岡場所に手入れをして私娼を捕らえたこと。  別名 傾動、驚動

 

 

平賀源内のごひいきだったと云う、瀬川菊之丞の役者絵(浮世絵)

田沼意次について

金々先生造化夢 読了   16 金々先生造化夢 口上(十五丁裏) 山東京伝 作  北尾重政 画  寛政6年 版元 蔦屋重三郎

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう) 1  ~吉原時代 金々先生造化夢 

 

【驚動】とは   1-1

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『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、

2025-01-14 | 繰り返し記号 memo

『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、 

 

しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、、、、、

 

 

 

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[狂言末広栄] 

京伝 作 ; うた麿 画

山東 京伝, 1761-1816

喜多川 歌麿, 1753-1806

[江戸] : [蔦屋重三郎], [出版年不明]

 

『狂言末広栄』1  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎

『狂言末広栄』2  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎  そのごびやうきは、てもなくなおります。

『狂言末広栄』3  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   人めんてう  ひめぎみのかげのわづらひ

 

『狂言末広栄』4  山東京伝作 喜多川歌麿画 蔦屋重三郎   しやまやのくろいといふ女郎、むつゆびにて、ししよく、、、

 

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