乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

月次祭(つきなみのまつり)        奈良県 廣瀬大社

2014-09-01 | 民俗考・伝承・講演




 

 9月朔日
 新しい月に移り、心新たに散歩にいかんと、二時間以上をただひたすら歩く。
 これまでに数度ほど訪れた事があるであろう廣瀬大社へと向かう。
 廣瀬大社の歴史は古く、『日本書紀』にも記述がある。
『日本書紀』によれば、次のような内容
 日本書紀天武天皇四年四月十日(675年)に、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として大忌神を廣瀬の河曲に祀られたことが記されていて、これが毎年四月四日と七月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。

 廣瀬大社につくと「月次祭」と記された紙とお神酒が備えられていた。

 


 月次祭(つきなみのまつり) Wikipedia▼

 月次祭(つきなみのまつり)とは、神道における祭礼のひとつ。伊勢神宮では6月・12月の月次祭と神嘗祭の3つの祭礼を三節祭(さんせつさい)、三時祭(さんじさい)と称される。

 歴史
 古くは毎月行われたようであるが、『延喜式』において6月と12月の11日に行うことが規定され、朝廷と伊勢神宮で行われた。
 朝廷では、神祇官が11日の朝に、畿内304座の神の祝部(はふりべ)に幣帛を分け与えた(班幣)
 また、夜には中和院(ちゅうかいん)の神嘉殿で、前年に収穫した穀物(旧穀)を天皇が神と一緒に食する「神今食」(じんこんじき)が行われた。
 その後、班幣は伊勢神宮のみとなり、室町時代に入ると応仁の乱などにより班幣は廃されるようになったが、明治以降に復活した。
 なお現在では、全国の多くの神社でも毎月一定の日を決めて月次祭が行われている。



 神今食 【じんこんじき】とは 世界大百科事典 第2版▼

〈じんごじき〉〈かむいまけ〉ともいう。
 上代より中世まで,毎年6月11日,12月11日の月次(つきなみ)祭班幣の夜,
 宮中神嘉殿において,天皇がみずから皇祖天照大神に神饌を供し,みずからも食する祭り。
 祭儀は新嘗祭(にいなめさい)と同様だが,神饌の数量は新嘗祭より少なく,後儀の豊明節会(とよのあかりのせちえ)はなかった。この祭りは祈年祭,新嘗祭,相嘗祭などとともに,稲作文化の祭りといえる。新嘗祭,相嘗祭は新穀による神饌を供するのに対して,神今食は新穀ではなく旧穀を用い,また1年12ヵ月を2期に分けて行われたことは月次祭と同様の意がうかがわれる。



 月次祭 三省堂 大辞林 ▼

 つき なみの まつり 【月次▽祭】
 陰暦6月と12月の11日に神祇官で行われた祭り。
 国家安泰と天皇の福運を祈る。本来は月ごとに行われるべき祭りであった。
 伊勢神宮その他の諸社でも行われたが一時衰微し,明治初期に復活した。







            2016年9月1日








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鍾馗さま       奈良県橿原市今井町

2014-06-16 | 民俗考・伝承・講演




  鍾馗さま


 
 
 




 奈良県橿原市今井町で見かけた鍾馗さま
 
 京都の壬生寺近くも顕著に認められましたが、鍾馗さまの置かれている位置関係には特徴がある事を再確認しました。




          2014年5月
          奈良県橿原市今井町



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「亀の上に観音様が姿を現された」と言い伝えられている亀のいる池が見える茶房  おふさ観音

2014-06-15 | 民俗考・伝承・講演


   「亀の上に観音様が姿を現された」と言い伝えられている亀のいる池が見える茶房  
    おふさ観音   奈良



 おふさ観音内には 「亀の上に観音様が姿を現された」と言い伝えられている池があります。

 

 写真(上・下二枚)はバラジュースやおそばが頂ける茶房からの眺めです。
 
 



         2014年5月下旬







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ノウルーズ        イランのお正月(2014年3月20日)

2014-03-20 | 民俗考・伝承・講演
(アーブギーネ博物館所蔵)


 2014年3月20日
 3月21日(例年)
 西暦2004年(閏年)グレゴリオ暦の2月が1日増えたため3月20日

 2014年3月20日(3月21日(2004年は3月20日))
 ノウルーズといい、イランのお正月(イラン暦の元日)にあたる日だそうです。
 
 ノウルーズ
 ペルシア語で次の意味だそうです。
   ノウ(now)→  「新しい」
   ルーズ(rūz)→  「日」
 (now)(rūz)の右にペルシャ語で書かれていました。
 
 太陽が春分点を通過する春分の日に当たり、農事暦上重要であることから、イランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日。
 国際連合総会は、2010年2月23日にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認したらしいです。

 フェルドウスィーの王の書では、イランの古代の王ジャムシードによって作られたとされている。
 ノウルーズの習慣はゾロアスター教の新年の祝祭に由来すると言われ、古代のサーサーン朝時代に既に大々的に祝われていた。
 サーサーン朝時代には春分に祝われるノウルーズと秋分に祝われるミフラガーンのそれぞれあったが、ミフラガーンはミフル神を祝う祭日で、新年はこのノウルーズかミフラガーンの日に定められていた。
 ノウルーズの習慣はアケメネス朝の時代よりもずっと昔から祝われてきたとされている。

 イランでは国家祭日とされている。
 1 年末の水曜日(チャハールシャンベ)には家の前かみんな集まる場所で火を焚いてその上を飛び越え、健康を祈願するチャハールシャンベ・スーリーという儀式
 2 スィーズダ・ベダルと呼ばれる新年の13日目に集落の郊外にある山野に出かけて行われる終日の祝宴
 3 他
  ノウルーズ前後の年末年始には何千年前の習慣とみられる春の訪れを祝う儀礼が行われる。
  ノウルーズの当日には、親類や友人の家を訪問して新年を祝賀する。



 なんだかよくわかりませんが、イランのお正月だそうでございまする。






 メモ

 王の書
『シャー・ナーメ』『王書』
 叙事詩人フェルドウスィーがペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩。
 約6万対句にも及ぶ大作である。

 ジャムシード
 ゾロアスター教の神話に登場する人物。
 イラン最古の王朝であるベーシュダード王朝の王の一人
 インド神話のヤマ(閻魔)に相当する。
 彼の父はウィーワフントで、こちらもインド神話におけるヴィヴァスヴァットと対応している。

 チャハールシャンベ・スーリー (在イラン日本大使館)
 イランの伝統行事「チャハールシャンベ・スーリー」
 古代ゾロアスター教に由来すると言われており、イランの人々は、焚き火の上を飛び越え、無病息災を願うもの
 今年の「チャハールシャンベ・スーリー」は、19日(火)、20日(水)  
 



 在イラン日本大使館より
 ウィキペディア  より

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3月16日、今日は十六団子の日。

2014-03-16 | 民俗考・伝承・講演



 3月16日
 今日は十六団子の日。
 田の神が山から戻ってくるとされる日。
 農村では、3月16日は田の神様が山から降りてきて、これからの稲作を見守る月だとされてきたそうです。

 十六団子の日は農神おろし(田の神おろし)といって、神様を迎えるために団子を16個作り、枡の中に入れてお供えします。
 また、11月16日(地域によっては10月16日)には神様が山に帰る人されているため、この日にも同じように十六団子をお供えします。
 主に東北・北陸地方に多く見られる行事だそうです^^

 十六団子のお供えの仕方は、ピラミッド型と丸く盛るものを見つけました。
 ですが、他にもあるかもしれません。

 田の神については色々な民俗学者の方々が書いて下さっています。

 そういえば、山の神
 確か、オコゼが好きだったとか…。
 うふふ
 オコゼはお顔がちょいちょいむにゃむにゃ
 なので、おぶちゃ☆なオコゼを好きとか、何かで読みましたっけ^^
 でもオコゼがおぶちゃ☆ナァンて言うと

   オコゼが、おこっぜ!


      おわりん







 十六団子については
    ウィキペディア
    冠婚葬祭辞典    より


 今日は430人の方にお越しいただいておりました
 
2014.03.15(土) 1457 PV 430 IP 1684 位 / 1998375ブログ
2014.03.14(金) 2512 PV 460 IP 1660 位 / 1998040ブログ
2014.03.13(木) 2636 PV 465 IP 1878 位 / 1997675ブログ
2014.03.12(水) 2999 PV 508 IP 1582 位 / 1997296ブログ
2014.03.11(火) 2709 PV 431 IP 1919 位 / 1996975ブログ
2014.03.10(月) 2632 PV 431 IP 1885 位 / 1996589ブログ
2014.03.09(日) 2548 PV 476 IP 1583 位 / 1996215ブログ
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笊屋(ざるや)と籠           宇野信夫作『人情噺小判一両』を見て思う

2014-03-08 | 民俗考・伝承・講演
 (玉龍雪山 中国)


 


『人情噺小判一両』

 この芝居、笊屋(ざるや)という設定だね^^
 これって民俗学の本によく出てくるんだけれど、農業の閑散期などに、毎年決まった村に売って歩いたんだって。
 村にやってきて、ざるや籠を売り歩き、いつの間にか村からいなくなるんだって。
 でも、毎年毎年やってこられるらしい。
 民俗学の本では、どこからやってきて、一体どこに帰っていくのか、村人はみんな知らないって書いてあったよ。
 これって明治か大正時代までのお話らしいので、お芝居ではもっと昔ダネ。
 だから、ちょっと勝手が違うかな^^

 お芝居の中でも何度も何度も笊屋(ざるや)さんの立場に触れられ、結局それも含めて芝居は大きく転じ結末を迎えるんだね。
 基本的にはそういったこともふまえてこの話はつくられているのかしらん?

 安七「籠に紙を貼って頭に乗せると…」
こども「頭に籠を乗せると背が伸びないから嫌だよ。」

 確かに、「頭に籠を乗せると背が伸びない。」って聴いたことがありますね^^

 籠と言えば「籠目(かごめ)」に民俗学の研究者で触れられている方が多いよ。
 六角の籠目がいっぱいあって、魔除けになるらしく、屋根の上に乗せるところもあったんだって。
 魔除けが転じて厄になるのかな?

 そういえば籠の「籠目(かごめ)」
 こんな歌がございましたね

  かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 
  夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
  後ろの正面だあれ?


  鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ…
      …なんだか恐ろしげですね。

 魔除けが転じて厄になる
 このお芝居も突き詰めると、屋さんの情けが仇となり、侍は自害した…か…?。



 作者宇野信夫とは

 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。
 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。
 1933年、『ひと夜』でデビュー。1935年、6代目尾上菊五郎のために書いた『巷談宵宮雨』が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、1953年、2代目中村鴈治郎、中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を脚色・演出し、現在も宇野版が上演され続けている。1965年、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、1977年まで続いた。
 1972年、日本芸術院会員。1985年、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全4巻があるほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する著作が多数ある。
 国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。








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『土蜘蛛灯籠』観音寺 上京区観音寺門前町(北野天満宮参道のニの鳥居の西側)

2014-03-02 | 民俗考・伝承・講演



  『土蜘蛛灯籠』観音寺 上京区観音寺門前町(北野天満宮参道のニの鳥居の西側)


 
 観音寺本堂・礼堂(らいどう)上京区観音寺門前町(北野天満宮参道のニの鳥居の西側)
 本堂左 青色矢印辺りに、『土蜘蛛』の伝承が残されています。

 先日は黒谷さんや真如堂さんの近くで東北院で「軒端梅」 (京都市左京区浄土寺真如町)を楽しませて頂きました物ですから、うれしくてなりません。

 
 伝承は上の写真に書かれています。
 ここでは省略させて頂きます。

 

 
 土蜘蛛灯籠

 下はわたくしの大切な本のひとつ『観世流謡曲百番集』より『土蜘蛛』
 今回は、はじめと最後 
 

 
 謡曲の『土蜘蛛』では奈良の葛城山と記されています。
 複数の民俗学の本には葛城山についてなぜ土蜘蛛の伝承を残しているのかを示した物がいくつもあります。
 ですが、ここでは省かせて頂きたいと存じます。

 京都にも『土蜘蛛灯籠』が残されているということで、能楽や歌舞伎に少しばかり感心のわたくしと致しましては、ことのほか楽しい時間を過ごすことができました。

 観音寺本堂・礼堂(らいどう)上京区観音寺門前町(北野天満宮参道のニの鳥居の西側)でも触れましたが、伝説・伝承って、興味深いですね^^




     観音寺本堂 左 にて
       京都市上京区観音寺門前町
      (北野天満宮参道のニの鳥居の西側)

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『夕霧阿波鳴渡』 『廓文章』 『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』の夕霧太夫の亡くなった日 2/26

2014-02-26 | 民俗考・伝承・講演


 1678年(延宝6年1月6日) -
 夕霧太夫(初代)の亡くなった日

 1678年といえば 延宝
 延宝(えんぽう、正字体:延寳)は、日本の元号の一つ。
 寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。
 この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉

 夕霧太夫
 夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)は京都・嶋原、大坂・新町廓にいた太夫で後述する2名が知られている。

 嶋原は京都にあるので訪れたことがある。

 新町遊廓(しんまちゆうかく)とは
 大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。
 現在の大阪府大阪市大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した。
 豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。
 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。
 その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。
 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されている。


 夕霧太夫とは

 芝居では
  近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』
  浄瑠璃の『廓文章』
  歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』
  など
    上四演目の中で『夕霧七年忌』は見たことがない…(涙

 生年不詳 - 延宝6年1月7日(1678年2月27日)。
 本名は照。
 出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。
 いつ、どういう風に嶋原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。
 ここから大坂の太夫は生まれるのである。


 姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。
 若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。
 享年は22とも27とも伝えられる。

 亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが他に徳島や和歌山にもある。
 死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。がある。
 毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、嶋原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
夕霧太夫(現代の嶋原太夫)






 データーはWikipediaを参考にさせて頂きました

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立命館大学 特別講座|仕舞と講演『日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―』

2014-01-09 | 民俗考・伝承・講演
  ( アーブギーネ博物館 )



   立命館大学アート・リサーチセンター特別講座|
   仕舞と講演『日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―』
   『日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―』

2014年1月 8日

日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―

立命館大学赤間研究室企画の特別講座を開催します。

立命館大学アート・リサーチセンター特別講座|仕舞と講演
日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―



日時: 2014年1月8日(水) 16:30-18:30
場所: 立命館大学衣笠キャンパス アート・リサーチセンター 多目的ルーム
参加: 予約不要・参加費無料

【概要】
さまざまな分野でのグローバル化が進む中、日本の伝統的な文化もその大波に捲き込まれています。
今回、イタリアからペレッキア・ディエゴ氏を迎え、「日本の能」を成り立たせる制度に関する研究成果についてお話をしていただきます。また、能楽の国際化を実践している金剛流宇靍通成師を迎えて、対談形式により「日本」の能楽がどうあるべきかを考えます。能楽の実演(仕舞)も併せて鑑賞いたします。


プログラム:
16:30- ご挨拶
16:40- 実演
仕舞 「敦盛キリ」 靍谷大悟
「巴」 宇靍徳成
「八島」 宇靍竜成
「実盛」 宇靍通成
17:00- 休憩
17:10- 講演
「能界に於ける素人の役割」
ペレッキア・ディエゴ(靍谷大悟)
17:45- 対談
宇靍通成×ペレッキア・ディエゴ
18:30 終了予定
講師プロフィール:
宇靍通成(うだかみちしげ)

シテ方金剛流能楽師。重要無形文化財総合指定保特者。
1947年生。金剛宗家・二世金剛巌師に師事。これまでに「翁」「道成寺」「卒都婆小町」「木賊」「鸚鵡小町」などを披く。1985年 国際能楽研究会(INI)創立。1986年 日米文化交流の会・能楽公演団長。松山藩お抱え能役者の家系を継ぐものとして、1991年には初世宇高六兵衛喜太夫追善能を開催し、1997年に明治まで続いた松山稽古舞台を再興。外国人を含む20名の師範を育成し、その内9名が能楽協会員(プロ)として活躍するなど、能楽の国際化に多大な貢献をしている。

ペレッキア・ディエゴ/靍谷大悟(たかや だいご)





 衣笠校って友人が多かったので、少し懐かしい気がします。
 立命衣笠校からの中継で『日本伝統芸能の国際化 ―世界文化としての能楽―』を楽しませて頂きました。
 家に居ながらにしてお話や仕舞や多くのテーマに沿った話の展開で興味を持ってメモを取りながらきかせていただきました。
 

 関係者のみなさま、誠にありがとございました






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史跡頭塔(しせき ずとう)    奈良市高畑町921 (12景)

2013-11-10 | 民俗考・伝承・講演



   
 
    史跡頭塔」

 

 

 

 

 

 

 

 

 Wikipediaによれば、頭塔は次のように記されています。
 頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。

 1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている。

       
 奈良時代の建造で、東西南北の各面に石仏を配置する。
 石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、一括して重要文化財に指定されているそうです。
浮彫如来及一侍者像(北面第一段右)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第一段中央)
線彫如来立像(北面第一段左から2番目)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第三段中央)
浮彫如来坐像(北面第五段右)(*)
浮彫三如来坐像(北面第五段左)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(北面第七段中央)
線彫諸尊像(東面第一段右から2番目)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(東面第一段中央)
浮彫諸尊像(東面第三段右)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(東面第五段右)(*)
浮彫二如来及六侍者像(東面第五段左)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(南面第一段中央)
浮彫如来及一侍者像(南面第一段左)
浮彫如来坐像(南面第三段右)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(南面第三段中央)
浮彫如来坐像(南面第五段右)
浮彫如来樹下坐像(西面第一段右端)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(西面第一段中央)
線彫涅槃図(西面第一段左から2番目)
浮彫如来坐像(西面第三段中央)(*)
浮彫如来及両脇侍二侍者像(西面第七段中央)

 1922年(大正11年)、国の史跡に指定された。

 


 頭塔付近の様子はこちらに記録しています。▼
 いざ!史跡頭塔へ行こう!  JR奈良駅下車。市内循環バス「破石町」下車。(7景)  

 

 

 

 


 皆様、
 ご訪問に感謝いたします。
 ありがとうございます!

 
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講座

2013-09-15 | 民俗考・伝承・講演



 ○典講座を受けたよ。
 いつも書いている,風吹ジュン似の先生のお話だよ。

 今回、かなり「方○記」らしい部分に入ったよ。
 好きだな.○典☆ 鴨○明って,わたくしは結構好きかも☆
 題名の付け方も、感動だな。

 そういえば,同日に放送大学で「親鸞」講義を聴いたよ。
 鴨○明&親鸞~~なんだか,幸せ~

 親鸞って親鸞上人絵伝(軸)を前に,龍谷ミュージアムで絵解きを聞いたことがあるよ。
 放送大学では,他に「一編上人絵伝(絵巻)」なども出てきたよ。
「一編上人絵伝」はわたくし所持の絵巻物集では最後の巻なんだけど,まだよんでないなぁ~
 講座(テレビ)で、歴史的立場から見る絵巻物の楽しみ方が少し理解出来たのは,収穫。
 
 今週は,毎日のように いろいろな講座が続いたよ。
 毎日が充実していて嬉しいんだけど…寝不足。
 超寝不足だけど,満足したよ!




       おしまい

 







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9月の講座  追記あり

2013-09-10 | 民俗考・伝承・講演




 あらあら
 明け方に寝たと言うのに、六時過ぎにはお目覚めのわたくし
 おろおろ まぁまぁ
 寝て無いじゃん

 10日
 今日は 古○書
 予習はしたけど、原稿用紙への写しは、パス
 だって、時間が無いんだもの

 10日 古○書
 11日 考○学
 12日 植○
 13日 歴○
 14日 古○
 19日 ○文書
 24日 古○書

 今月の講座はこれだけ
 8月(真夏)よりは多いけれど、7月末の4日連日受講した 法○寺学から考えると予習復習含めても気が楽かな。
 法○寺学葉テキストを頂戴してから、丸三日間、徹夜で予習したものね^^::

 では、本日も
       がんばりましょう!^^!

 


 追記

 本日某講座に行き、講座生の皆さんから色々な情報を頂戴しました。
 多くの皆様方、ありがとうございます。

 11日K先生の貴重な 歴○の講義、参加させて頂きたいと存じます。





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8月講座 1  美人講師の古典

2013-08-12 | 民俗考・伝承・講演



 先日、わたくしの好きな某先生の古典講座があった。
 以前から書いている、風吹ジュンさん似の相当な美人
 おまけにお化粧が薄く、お上品なお召し物
 髪は長く、真線(ますぐ)で黒い
 頭良し、器量良しだし☆
 古典の先生とだけあってたいへん人間的に面白く中味が深い☆
 古典を美化するだけではなく、本質を読み取っておられる☆
 こういう女性も、憧れるわ☆と、毎回思う。

 今回の講義は『方丈記』
 そして講座内容もたいへん充実&満足
 面白かったでございます☆

 この先生の授業は長年にわたり受講させて頂いております。
 古典が好きになったきっかけを与えて下さいましたのは、この偉大なる先生のお力が大きいのでございます。
 他にも大きな力がございました。
 高校の古典の先生も、豊かな方でございました。古典を読む響きは今も覚えております。
 そして、ことあるごとにアドバイスを重ねてくれる家族もおります。
 わたくしは 幸せ者なのではないかと、こそばがゆいことを考えながら、毎日ちんまりたらたらと本と挌闘しておりまする☆
 






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講義漬け

2013-07-30 | 民俗考・伝承・講演


 この五日間、講義漬けだったわたくし
 まず前日から、予習復習
 これ、前から受講している○文書^^


 二日目から五日目は 奈良の由緒深きお寺での夏の講座
 これは全国から多くの人びとが集まってこられ、内容が充実
 わたくしが今興味を持つ絵巻物、それらには仏教用語が多く出て場合が多いので、それを紐解く種にはたいへん有意義なのではと今回参加した。


 一日目
 ニコマ 三時間
 そのあと、お寺様の普段見ることができない貴重な数カ所に案内される。
 この日は炎天下。その中、二時間以上歩き回り汗の中で身を泳がせながら拝見させて頂く。
 ぶっ倒れそうに暑い事も忘れるくらいに素晴らしいお宝に出会え、喜びもひとしお。


 二日目
 三コマ 四時間半
 この日から地獄が始まる。
 初日に予め手渡された厚い専門用語連発の論文のような資料を手渡されていた。
 タカをくくって
『その資料を一夜で全部読むよ!』
と、心で思い、挌闘すること、明け方まで。
 二度読み三度読み、線を引き辞書で調べ…。
 天皇のお書きになった影印四郎を多く載せて下さってたの。その部分は全てコピーに取り、半分くらいは文字におこしてみた。但し、予め書きおこして下さっている資料も多かったので、わからない部分は非常に助かった。

 と言う訳で、わたくし 二日目は徹夜して会場へ向うこととなる。
 三コマのうち興味深いものが二講義
   仏像
   宸翰(しんかん)

 特に「宸翰」については、今までにも博物館で何度も見ているので、有意義であった。
「宸翰について」たいへん面白い講義内容だったので、その夜は興奮して目がさえ、また寝そびれた。


 三日目
 二コマ 三時間
 この日興味深かったのは「富本銭」について
 富本銭については河○邦彦先生の講演を拝聴したことがある。
 だが、前夜魂資料を読み込むのに数時間を要し、難儀し、要約アウトラインをつかみ講義に挑むことができた。

 二コマをの講義を楽しませて頂いた後、中○寺、○輪寺、○起寺を拝観。


 四日目
 二コマ 三時間
 
「二重屋根の仏堂建徳」「戒律観」
 この二つの講座も絵巻物を楽しむ上で役にたつと思い予習に挑み、寝そびれる。
 二重屋根の仏堂建徳、戒律観の資料は共に専門用語が多く、チンプンカンプンで、わたくしを手こずらせる。
 何度も読み、線を引き、調べ、くたびれた雑巾のようになった。

 だがこれが修行の一つかもしれないと、ふと悟る。
 四日間寝不足の身を奮い立たせ、貴重なお話を拝聴させて頂く。
 座禅の心境、比叡山の修行僧の千日回峯行をふと思い浮かべ、ほくそ笑む。
 日本の修行はすごい。
 ある意味、イスラム教のラマダーンなどとは比較出来ないくらいにすごいことだと、仏教を思う。
 千日回峯行は感動し身震いする。

 そうして、四日間の最後の講座で良いことをおっしゃった。
  仏教は ガチガチに守らなくても良い
  たとえは、六時礼法
  夜中の修行→昼に変更 これをケロッとして、軽くやる
  このようなことを

      仏教では【方便】という


 最後に
 一日目と三日目にお話し下さった僧侶の有難いお言葉を記しておきたい

      今をどう考えてどう生きるか

 たいへん有難いお言葉が、心に染み入る。
 今をどう考えてどう生きるか…
 わたくしはかねてから上の言葉を、次の様に書き続けてきた。

      楽しい時間をつなぎあわせていきたい
 
 諸々の講座連続五日間合計 十コマプラスαー
 これらを終え、今、平常心を取り戻す。
 時間が鼓動を続ける。
 今日を、今を、充実させよう☆
 
  

コメント (4)
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白拍子   (訂正)

2013-07-29 | 民俗考・伝承・講演


 某講座でのこと。
 某先生が、『○○○縁起白拍子』の説明の中で次のようにのべられていた。
「白拍子とは、舞踊の事です。」
 講義は非常に興味深く、また為になるお話であり、有意義な時間を過ごさせて頂いた。

 今までにも何度か白拍子は出てきたし、芝居もなじみの有る白拍子。
 念のため、白拍子を辞書やネットで調べてみた。

 白拍子(しらびょうし)とは
 日本大百科全書(小学館) より
 平安時代末期におこり鎌倉時代にかけて盛行した歌舞、およびその歌舞を業とする舞女をいう。名称の起源は、声明道(しょうみょうどう)や延年唱歌(えんねんしょうが)、神楽歌(かぐらうた)の白拍子という曲節にあるとか、舞楽(ぶがく)を母胎にする舞にあるとかの諸説がある。『平家物語』には鳥羽(とば)天皇の御代に島の千歳(せんざい)と和歌の前という舞女が舞い始めたとあり、『徒然草(つれづれぐさ)』には信西(しんぜい)が磯(いそ)の禅師(ぜんじ)という女に教えて舞わせたとある。源義経(よしつね)との物語で有名な白拍子静御前(しずかごぜん)は磯の禅師の娘とされているが、平清盛(きよもり)の寵愛(ちょうあい)を得た祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)・仏御前(ほとけごぜん)や、千手(せんじゅ)、後鳥羽(ごとば)天皇の寵姫亀菊(かめぎく)などの名はいずれも白拍子の名手として知られている。白拍子を歌うことを「かぞえる」といい、今様(いまよう)、和歌、朗詠などのほか、「法隆寺縁起白拍子」のような寺社縁起も歌った。伴奏は扇拍子・鼓拍子を用い、水干(すいかん)・烏帽子(えぼし)・鞘巻(さやまき)姿で舞ったので男舞(おとこまい)といわれた。白拍子の舞は後の曲舞(くせまい)などの芸能に影響を与えたほか、能の『道成寺』ほかにも取り入れられ、その命脈は歌舞伎(かぶき)舞踊(『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』など)にも受け継がれていった。

 要するに、平安時代末期におこり鎌倉時代の、歌舞、およびその歌舞を業とする舞

『日本大百科全書(小学館)』によれば、先日わたくしが書いていた「近藤好和(國學院大學)「義経・静の史実と伝承」第8回義経・与一・弁慶・静合同サミット」のような「とある部分」は、「歩き巫女」のように明確には記されていない。
 そういった行為はあった場合もあるし、絶対あったとは限らないらしい。
 何かの本でわたくしが先日書いたような意味合いもあるように出てきた「白拍子」ではあったが、出典をど忘れしている今となっては、公表し断定するのもおかしな話だ。なので先日書いた「近藤好和(國學院大學)「義経・静の史実と伝承」第8回義経・与一・弁慶・静合同サミット」は訂正後に元(わたくしのブログ)に戻したい。
 某講座がきっかけとなり「白拍子」に興味を持つことができた。

 尚 わたくしは展示物『『浮流時縁起白拍子』(1962) 寺僧重懐 』を拝見させて頂いた事がある。






コメント (2)
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