ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「モリー・スウィーニー」

2011-07-17 08:56:30 | 芝居
6月16日シアタートラムで、ブライアン・フリール作「モリー・スウィーニー」をみた(演出:谷賢一)。

チラシのあらすじを読んだだけでストーリーが予想できることがたまにある。
モリーは生まれつき目が見えない。彼女の夫フランクは彼女に光を見せたかった。「元天才眼科医」ライスは彼女
の手術を成功させて、人生の光を取り戻したかった。3人は困難な手術に挑むことを決める。「失敗したところで、
何も失うものはない」と。
手術は成功し、モリーは初めて世界を目で見る。40年間見えない世界に生きてきた彼女には何が見えるのだろう。

モリーの父は裁判官、母は神経を病んで入退院を繰り返していた。モリーは生後10か月で視力を失った。盲学校
には行かなかったが、41歳でフランクと出会った時(まさに彼女にとっては運命の出会いだった。この男とさえ
出会わなければ、・・と思わざるを得ない)、彼女はスポーツクラブでマッサージ師として働き、友人もいて、
水泳を楽しみ、自分に自信のある落ち着いた女性だった。何一つ欠けた所はなかった。なのに夫と医者は「手術
の結果、仮に失敗したとしても、彼女に失うものなどない」と考えたのだった。

手術が成功し、目が見えるようになったモリーのもとに夫がやってくると、彼女は「私どう見える?変じゃない?」と聞く。
これは変だ。普通逆だろう。
初めて彼女から見られる立場に立った夫の方はもっと緊張するだろうし、彼女の方は初めて見る夫の姿をしげしげと見つめるはずではないか。
こういう場合、自分が人からどう見えるかを気にするだろうか。
例えば「フランク、あなたがフランクなのね・・・」とか言うのではないだろうか。

モリー役の南果歩は声も顔も美しく、熱演だが、残念ながらセリフが時々聞こえない。語尾を飲み込む癖がある。
たとえば「イランのヤギ」が「イランのヤ」、「モリー・スウィーニー」が「モリー・スウィー」という調子。
こういう箇所はこちらが想像力を働かせて補ったが、他に補えなかった箇所がいくつもあった。演出家は気をつけてダメ出ししてほしい。
ライス医師役の相島一之は舞台出身だけあってさすがに聞こえないセリフはほとんどなかった。ただし、後ろを向いて「神よ・・」と祈る部分だけは
残念ながら聞き取れなかったが。
夫フランク役の小林顕作は面白いが、声が時々大き過ぎて割れてうるさい。定職につかず、大人になりきれない夫を好演。
こういう男性、いかにもいそうだ。この役は役者が変わればだいぶ印象が変わってくるだろう。
果歩さんは感情過多。まず基本にしっかりした発声があって、それからそこに肉付けしていくべきではないだろうか。
それでも、泳ぐことの楽しさを恍惚として語るあたりは真に迫っていた。

ラストは主役にとって大変な趣向が凝らされている。

この女性は遺伝的に精神病の危険性を抱えているのだから、術後の精神的ケアが特に重要であることは、医師も予測できただろうに。

途中、ものを見るということについての哲学的考察が披露されたのには面食らったが、なかなか興味深かった。
風変りな夫の造形、そして人生に挫折した医者の造形は深みがあり、説得力がある。

だがいずれにしても、この脚本には致命的な欠陥がある。
先ほども触れたように、女を見られる対象としてしか捉えていない、信じ難い偏りに、大きな違和感を感じた。
女も「見る主体」なのだ。特にこの話は、女が視力を回復する話ではないか。
初めて自分の夫を見た時に何も感じないはずがあろうか。男である作者の想像力のなさが情けない。


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