令和4年4月13日(水)
パンの記念日
昨日(4月12日)は、「パンの日」でした。
1842年(天保13年)の4月12日、伊豆の国(現静岡県)
韮山代官所(江戸幕府直轄の領地を支配するための役所)の西洋
流兵法学者であった江川太郎左衛門英龍は、軍が携帯する食糧と
して「乾パン」を使用した。これが日本で最初のパンである。
1983年(昭和58年)の3月、パン食普及協議会が制定され、
その日(4月12日)を「パンの記念日」とした。
明治文明開化の頃に日本へパンが渡来したが、米志向の強い日本
では、当初パンは余り受入れられなかった。
1869年(明治2年)に日本で初めてパンの製造をした木村屋
(東京港区新橋)では5年後(明治9年)に、パンの中に小豆餡
を詰めた「アンパン」を作り、これが好評を得た。その後次々に
菓子パンを作った。後に様々な具材を挟む「総菜パン」が出来る。
第二次世界大戦後の日本は食糧難の時代を迎え、多くの学校では
学校給食を始めた。米国から援助物資の小麦粉を得てパンを作り、
脱脂粉乳(脱脂乳から殆どの水分を除き粉末にしたもの)をお湯
に溶いたものを給食に出した。(これは本当に拙く、私の前の席
の子は、これを飲むたびに癲癇の発作を起こした。 苦い思い出
は今も忘れられない。然しこれにより日本の子供達は救われた。)
これが、きっかけとなりパンが大量に流通した。
給食のコッペパン
1955年(昭和30年)以降、日本のパンの消費量は急増した。
本日の中日新聞朝刊コラム「中日春秋」に「パンの記念日」への
記述が在ったので紹介したい。
【日本でパンが普及するきっかけは、清と英国によるアヘン戦争
(1840~42年)だという。 英軍の次の標的になるかもしれ
ないと恐れた江戸幕府は、伊豆の韮山の代官所で兵学者の江川英龍
に国防強化を命じるが、英龍が兵糧としてパンに目を付けた。
火力に劣る日本は陸での白兵戦に持ち込む他ないと考えたが、兵が
米を携帯すれば炊いた時の煙で敵に居場所が知られる。 韮山に窯
を作り、長崎オランダ屋敷で働いていた職人を呼びパンを焼いた。
業界団体は1842年の製造開始の日に因み、昨日(4月12日)
を「パンの記念日」とするが、今年は憂いが深かっただろう。
ロシアによるウクライナ侵攻でパンの原料の小麦粉の国際相場は
高騰した。両国とも有数の生産国である。 日本の大手製粉会社
は、相次いで業務用小麦粉を6月20日納品分から値上げすると
発表した。 パンの価格も上がるかもしれない。
大砲製造ための韮山反射炉建設を手掛けた事でも知られる英龍は、
ロシアとも縁が在る。日露和親条約は1855年に結ばれるが、
その前年にロシア側一行を乗せて来た軍艦が下田に停泊中、折か
らの地震による津波で破損。 近隣に回航中に沈没したが代替船
製造を英龍が指揮した。 一行が帰国すると、先方は感謝の大砲
52門を載せて船を日本に返還した。
また友好に前向きになれる日は来るだろうか。
(中日新聞朝刊コラム:中日春秋より、引用しました)
今日の1句
暖かや餡トーストと目玉焼き ヤギ爺